黒髪橋から、西へ少し行くと、黒髪山稲荷神社と呼ばれる小さな神社がある。神社のあるあたりを黒髪山と言い、記紀の中にその謂れとされる物語が伝えられている。
垂仁天皇の頃、垂仁天皇の皇后であった狭穂媛は、兄である狭穂彦王が皇位を狙って反乱を起こしたときに、兄の狭穂彦王のもとに走った。その時、すでに狭穂媛は垂仁天皇の子どもを身ごもっており、その子を出産後、垂仁天皇に引き渡すとき、自らも垂仁天皇側につかまるかもしれない。それを阻止するため、自分の髪を切って、この山に埋めたという。そのことから黒髪山と呼ばれるようになったと言われている。
神社自体は、小さな神社なのだか、道路沿いに、「史跡 大黒芝 佐保山西陵七ツ石」と書かれたこわれた看板が立っている。聖武天皇皇太子那富山墓とされる古墳は、大黒ヶ芝古墳と言われている。確かにこの辺りは大黒芝と呼ばれてたようだ。
奈保山西陵は、文武天皇の夫人で、聖武天皇の母、藤原宮子の墓があったという伝承によるもので、確証はない。
この道沿いには、いくつかの石が並べられており、これが七ツ石なんだろうか?
ちょっとわからないなあ。また、この黒髪稲荷神社のすぐ後ろはゴルフ練習場によって切り崩されていた。あったとしてももう破壊されているかもしれないなあ。
先にも書いたが、那冨山墓の隼人石は12石あったらしく、現在は、4石しか残っていない。残りの7石は行方不明だから、これらの石がそうだったりして・・・。
これは、境内にある白狐社。下の石が何となく気にはなる(笑)
ここから、西を向いて黒髪山を下っていくことになるのだが、途中、ドリームランドの跡地をぐるっと半周しないといけない。これが結構距離がある。
道から、ドリームランドの現状が見えるのだが、一面の更地になってしまっていた。何に活用されるのだろうか。私自身は小さい頃何度か来たことがあるし、子どもも連れてきたこともある。すっかり兵どもが夢の跡状態。
ドリームランドの跡を半周し、西へ向かうと、住宅地の中に、応神天皇皇子大山守命那羅山墓に治定されている境目谷古墳がある。
周囲をギリギリまで住宅が建て込んでいるのであまり目立たない古墳である。この境目谷古墳については、発掘調査等もなくあまりよくわかっていない。墳丘には円筒埴輪が置かれているらしく、径10m程度の円墳であると言われている。
佐紀盾列古墳群を構成している古墳なんだかどうなんだか?ただ、肉眼でも墳丘らしいものは確認はできた。
大山守命については、応神天皇と品陀真若王の娘、高城入媛命との間に生まれた皇子である。応神天皇の死後、皇位継承の争いに敗れ、那羅山に埋葬されたという。
品陀真若王は、景行天皇の皇子、五百城入彦皇子の子で、応神天皇には、高城入媛命の他に仲津姫命(応神天皇皇后、仁徳天皇の母)、弟媛命の三人の娘が嫁いでいる。
もうほとんど顧みられてない学説なんだろうが、東大におられた井上光貞氏は、王朝交代説をとる中で、応神天皇は、よそから天皇家に婿入りした天皇であり、景行天皇以降、五百城入彦皇子→品陀真若王→高城入媛命、仲津姫命、弟媛命の系統に婿入りする形で皇位を継承したと述べていた。
大学に入ったばかりの時、岩波新書を乱読していた頃に、井上光貞氏の「日本国家の起源」なども読んでいて、品陀真若王と言う名前を見て、そのことを思い出した次第。
この後は、国道24号線のバイパスを越えてウワナベ古墳等を向かうことにした。
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