元正天皇陵から、県道に戻って元来た道を戻ってくると、コンビニエンスストアとドリームランドの跡地の間に「聖武天皇皇太子那冨山墓」と刻まれた小さな石標がある。
そこから、細い幾分か舗装された、ほとんど人が通らないような道を県道から左に入って登っていくと、途中、眼下にはドリームランドの跡地であった広い空間が見える。さらに登っていくと少し平坦な場所に出る。この道の先には、住宅らしきものが見えるだけで、古墳らしき高まりを前方には確認できず。はて、どこかで見逃したかと思ったところ、ふっと右手を見たところ、雑木林の奥に、陵墓らしきものを確認。
何となく道らしきものがあるようなのかないようなのか、とにかく落ち葉を踏み分け、奥へ進んでみると、雑木林の中に、陵墓を囲っている石の柵を見つけるも、古墳の正面には鉄の扉があり、中には入ることができなくなっていた。
これが聖武天皇皇太子那冨山墓である。聖武天皇皇太子としか記されていないのは、わずか1歳にて亡くなったためか、正式な名前が伝わっていないことによる。基王とする説もあるが、確定されていない。
ただ、この皇子の死去が、この後の光明皇后の立后、長屋王の変につながっていくことになる。ちなみに、聖武天皇の後を継いだ孝謙天皇は、この皇子の同母姉にあたる。
柵の間から墓域を写してみる。奥の方に、制札と鳥居といった拝所が見える。
鳥居の奥に、古墳らしき高まりを確認することができる。径10mほどの長形墳のようであるが、元の形は、調査がなされていないため、不明。円墳とも方墳とも言われる。当然、埋葬施設も不明である。
墳丘の高さも、1.5mほどとなっている。古墳のある場所から大黒ヶ芝古墳と言われている。
この小さな古墳は、周囲に4つ、隼人石と呼ばれる獣頭人身像を刻んだ珍しい石が配置されていることで知られている。4つすべてを肉眼で確認することはできないが、北西の一石のみ、望遠レンズを使って、その姿を写すことができた。
よく見ると、キトラ古墳の壁画に書かれている十二支像に似ている気がした。
隼人石と言うよりは、十二支像という方がピッタリ来るような感じである。どうやら、もともとは十二石あったようで、長い年月の間に、失われていったのであろう。
ただ、キトラ古墳の壁画と類似すると考えると、聖武天皇の皇子の墳墓とするには少し時代が合わないような気もする。この古墳自体、築造年代が確定していない飛鳥時代末とも奈良時代のものともはっきりしない。
隼人石が置かれた理由も定かではない。もしかしたら、早逝した皇子を傷んで、十二支の神像で墓域を守ったのだろうか。
しかし、気になるのは、この隼人石をこのまま置いて風雨にさらしておいていいのだろうかということだ。だいぶ姿が消えかかっているものもあると聞く。保存処理はされているという話もあるが、類例の少ない文化財である。別の場所に保存ということも考えてもいいのではないだろうか。
那富山墓から元の道に戻って進むと、住宅地に出る。
すると、先ほど見た髪長山の跨道橋があった。
せっかくなので橋を渡ってみることにした。ここから北を見ると、元明天皇や元正天皇が埋葬された奈保山が良く見えた。
ここからは、この丘を西へ下って行って、ウワナベ古墳等を見て回ることにしよう。
追記:聖武天皇皇太子那富山墓は、晩秋から冬にかけて見学に行くのがいいと思います。春から夏にかけては、雑草等で近寄ることはできなさそうです。
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