JR和歌山線を渡って南へ300mほど歩くと自動車の販売店がある交差点を右折して、しばらく歩くと小さな池があり、そこを過ぎると小池寺という小さなお寺があり、道を挟んだ向かいにあるお堂に石棺仏が安置されている。
お堂に近寄って、扉の桟の間から仏さまを覗き見た。
仏さまは、地蔵菩薩のようで、仏花が供えられ、地元の人たちの信仰の対象になっている様子がうかがえた。
お堂の横に立つ解説板によると、鎌倉時代後期(13世紀後半)に彫られたものであるようだ。
わざわざここまで足を延ばして、この石仏を見に来たのには理由があって、この仏さまは、先に紹介した狐井塚古墳の石棺の蓋石を再利用したと伝えられているからである。
説明板によるともとは長持形石棺の蓋石であるそうで、確かに石材のくぼんである部分に仏さんを彫りこんでいるので、石棺の蓋石には見えるが、上下の部分にあった長持形石棺の特徴である縄かけ突起の部分が欠けているので、説明がないと長持形石棺には見えない。
また、同じ石棺の底石と思しき石が、お隣にある春日若宮神社の本殿の前にあるとのことなので、続いて神社の方にも行ってみた。
拝殿から本殿を覗き見るのだが、ここではそれらしいものを見つけることはできなかった。う~ん、残念。
春日若宮神社で、これからの旅の安全を祈願するとともに領家山1号墳(陵西陵墓参考地ほ号陪冢)の場所を確認するために少し休憩を取った。
桜の花が、風に吹かれて散っていくのがなかなか風情があった。さあ、出発だ!
ここからは、元来た道を引き返し、自動車販売店のある交差点に出て、さらに東へ向かう。少し坂道になっていて、道が細くなった辺りで、Googleマップによると、下の写真のような道に入れという。
これは、大丈夫かいと思いながら竹藪すれすれの道を歩いていくと、ポケットパークのような広場があり、その中に、古墳と思われる高まりがあった。
近づいてみると墳丘の上に、陵墓参考地であることを示す石標が立っており、ほ号陪冢であることが確認できた。
陵西陵墓参考地ほ号については、領家山1号墳とも呼ばれており、直径20mの円墳で、古墳時代の中期に造られたものと考えられている。もともとは周濠もあったようだ。
奈良県の遺跡地図を見るとこの周辺にはいくつか古墳が存在していたようである。ただ、この古墳以外はすべて削平されて埋没しているみたい。
帰りは、普通に施設の間にある道路を通っていくと、大和高田市の福祉会館の前に出た。こんな簡単な道があるのであれば、こっちを案内してほしかったな、Googleさん。
そして、福祉会館の前には、池田遺跡と書かれた説明板が立っていた。
池田遺跡については、旧石器時代から江戸時代にかけての複合遺跡で、特に領家山1号墳の周辺では、領家山1号墳の周濠のほか、11基の古墳が確認されており、池田古墳群とされている。領家山1号墳についても、狐井塚古墳と少し距離があるので、陪冢とするのに少し疑問が感じられる。むしろ池田古墳群を構成する古墳の一つと考えれそうである。
写真の、埴輪は9号墳から出土したとのこと。
ここからは、再度、元の道に引き返して、JR和歌山線を渡って、陵西陵墓参考地に号を確認したのち、メインの築山古墳をめざして歩き始めた。
そして、線路際に、に号を見つけた。
に号陪冢は、直径15m以上の円墳で、後世の改変でかなり削平はされているものの古墳である様相は残していた。
という訳で、次は、いよいよ馬見古墳群の南支群の中心、築山古墳をめざしていくことにした。
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