これまでも馬見丘陵にある古墳群について何度となく取り上げてきた。今回は、馬見古墳群の南支群に位置づけられる古墳を訪ねてみることにした。
近鉄築山駅を降りて、南へまっすぐ下っていくと、JR和歌山線にぶち当たるので、そこまで行くと行き過ぎになるので、その手前を右に曲がると狐井塚古墳が見えてくる。
ちょうど前方部のところの周濠が埋め立てられて駐車場になっており、そこからは前方部が観察できる。
そして、北側は、古墳に沿って、道路が走っており、前方後円墳であることは、道路のカーブなどで確認できる。
墳丘上の草等もきれいに刈り取られていたので、、墳丘そのものも観察しやすくはなっていた。ちなみに、狐井塚古墳は、陵西陵墓参考地として宮内庁が管理しており、フェンスで囲まれていて、墳丘に立ち入ることはできなくなっている。そのため、この古墳について、詳しい調査がなされていない。古墳の大きさとしては、墳丘長75m、後円部径45m、前方部幅40mとなっており、5世紀後半(中期後半)の築造と考えられている。
そして、残念なことに道路の反対側は、住宅が密集しており、古墳の形が綺麗にとれるスポットがなかった。
墳丘をぐるっと後円部側に回り込むと、住宅の間に、墳丘の傍にアクセスできる小径があり、そこから墳丘に近づくと、陵西陵墓参考地であることを示す石碑と制札が立っていた。陵墓参考地として、想定されている被葬者は、顕宗天皇皇后難波小野女王であるとされている。
古墳の周辺は、かなり住宅が接近して建てられており、南側は住宅で全く見ることができない状況であった。
ただ、古墳の南側、和歌山線に沿った道路沿いに、三つ陪冢とされる古墳が存在している。(陵西陵墓参考地の陪冢として、宮内庁が管理しているものは、五つある。)
これが、い号陪冢。6m以上の円墳だそうだ。かなり削平されていて、注意してないと通り過ぎてしまうような小さな古墳である。
い号陪冢から少し西に行って、住宅街の中に少し入ったところにろ号陪冢がある。
この古墳は、直径13m以上の円墳とされており、確かに他の陪冢と比較すると、かなり古墳としての形を保っている。
最後に、ろ号陪冢である。
直径15m以上の円墳とのこと。一部削平はされているが、まだまだ古墳の形はとどめている。
い号、ろ号、は号いずれも住宅がかなり迫っており、窮屈な感じになっていた。
そして、ろ号陪冢の前をJR和歌山線が通っており、ちょうど新快速が通過していった。
この後は、線路を渡って池田という集落に、狐井塚古墳の石棺を利用したと伝わる石棺仏と狐井塚古墳の残りの陪冢を探しに行くことにしよう。
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