
佐紀楯列古墳群の東群に属する古墳の一つに、万葉集に歌がおさめられている歌人の中で一番古いと伝えられる仁徳天皇皇后磐之媛命のお墓と伝えられる古墳がある。ヒシアゲ古墳と呼ばれる古墳がそれで、全長は219mにも及ぶ巨大古墳である。しかも、この古墳群では珍しく、2重の周濠を持っている。

逆に外側の周濠に遮られて、残念ながら、古墳の墳丘を直接伺うことはできない。
この古墳自体は、佐紀盾列古墳群の中では、最末期に作られた古墳のようで、すでに百舌鳥古墳群や古市古墳群の形成は始まっていたと考えられる。この古墳の規格は、百舌鳥古墳群の上石津ミザンザイ古墳(伝履中天皇陵)と同じであるそうだ。となると、ご主人である仁徳天皇とされる大仙古墳よりも前に作られた古墳であるようだ。

しかし、仁徳天皇の皇后である磐之媛のお墓がこんなところにあるのだろうか?
万葉集には磐之媛の歌として、4首収録されていて、犬養孝氏の「万葉の旅」では以下の歌が選ばれている
「かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 磐根しきまきて しなましものを」
(歌意は、こんなにも恋焦がれていないで、高い山の磐を枕に死にましょうものよといのこと。)
磐之媛は、仁徳天皇の皇后であったが、仁徳天皇が自分の留守の間に異母妹である八田皇女を皇后として後宮に入れたところ、怒って奈良の筒木にこもってしまったと伝えられる。日本書紀では、その後天皇が迎えに来ても、帰らず、筒木宮でなくなって、この地に埋葬されたといわれている。そう言う所伝が故に、非常に情熱的な歌の詠み手として、万葉集に名前が仮託されて、収録されたんだろうな。
非常に嫉妬深いお后として有名になってしまった。
その辺の所伝に関しては、私の妻は、磐之媛に同情的で、若い女にうつつを抜かす男が悪いと一刀両断である。
一夫一妻制の現代の視点から見ればそれも妥当なところであろう。とは言ってもあんまり嫉妬深いのもねという気もするのも確か。男の言い分としては、家庭を壊さない程度であればと思うのだが、それもまた、女性の側からすると女性蔑視にもなりかねないし、果たしてそんな上手に遊べるわけはないか。
男女の仲は、神話の時代から難しいようだ。
この古墳の、周囲にはいくつか、陪冢が存在する。

しかしながら、他の古墳と接近しているため、どれがどうかわからないところもあるようだ。
最後に、佐紀盾列古墳群の次に、百舌鳥古墳群や古市古墳群が来るのだが、先に述べたように築造年代が、若干重なる時がある。古代史家の中には、このことから大和・河内連合政権説を唱えている人もいる。古代へのロマンを感じさせる地域であるとともに、これ以上開発が進んでほしくないような気がする。

写真は、この古墳の南にある水上池から写したものである。この池は、水鳥の宝庫なのか、当日、多くのバードウォッチャーが集まって水鳥の観察をしておられた。
このような自然を、守ってゆきたいものである。

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