久しぶりの墳活、しばらくは緊急事態宣言もあり、府県境を越えての移動は自粛を求められていたので、自重していたのだが、やっと緊急事態宣言か解除されたということで、さっそく、奈良方面に出かけることにした。
今回の目標は、狐井城山古墳を中心とする馬見古墳群の南群。馬見丘陵の南端に位置する古墳群である。
近鉄五位堂駅を降りて、西へひたすら向かうと狐井の集落がある。杵築神社という小さな神社を越えて、左へ向かうと狐井城山古墳の姿が左手に見える。
古墳は、南北の軸からは少しずれており、北東の方向に前方部を向けており、また前方部の一部を除き、墳丘の周りを周濠が巡っている。
そのため、当然、墳丘内に立ち入ることができないが、フェンス越しの観察だけでも十分、この古墳の素晴らしさを感じることができる。
観察だけでも、古墳の前方部のほうが、後円部に比べて発達しているのがわかる。墳丘の長さは140m、後円部径85mに対して、前方部幅110mもある。5世紀末から6世紀初めの築造と考えられている。たぶん、馬見古墳群でも最後の大型古墳であろう。
ただ、中世に大和の土豪岡部氏が狐井城として、墳丘を再利用しており、かなり古墳の形が改変されているようだ。
狐井城山古墳の周囲をぐるっと一周することはできないが、西側と東側から見ることができる。
特に東側からのアクセスがいい。用水路を渡って、外堤を登っていくと墳丘を眺めることができる。これだけ広い外堤がきれいに残っている古墳ってあまりないような気がする。とにかく幅が広い。北東部の一番広いところだと10数mはあろうかと思われる。
大阪の古墳などは、周濠いっぱいまで住宅等が迫っているのが普通なので、外堤がきれいに残っているのは本当に秀逸である。できればこのままの形で残っていってほしいと思う。
不安なのは、狐井城山古墳は、史跡等に指定されていない。たぶん、ここを開発しようというのはないだろうが、外堤も含めてとなるとどうだろう。住宅開発の波はかなり近くまで来ている。何とかこのままの形で残してほしいと思う。
外堤も含めた東側の景観がこの古墳の最高の価値だと思う。あまり知られてなさそうだからなおさらいいけどね。
古くは、この狐井城山古墳は、顕宗天皇の御陵と考えられていた時代もあったようだ。築造年度から言うとおかしくはないが、傍丘磐坏南陵という伝承されている場所との関係でいうと、北陵に該当する古墳がなく、ちょっときびしいか?
ただ、これだけの古墳である、被葬者がかなりの有力者であったことが想定できそうである。
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