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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

保元・平治の乱を読みなおす

2005-08-31 06:54:52 | 読書日記
 保元・平治の乱を読みなおす
 元木 泰雄著 NHKブックス
武士の台頭を告げる歴史的な戦いである「保元・平治の乱」について、新しい視点を提示した本である。
 従来、日本史の教科書で下記のような図式を見たことがないだろうか。
 (天皇家)
  崇徳上皇 ― 後白河天皇
 (摂関家)
  藤原頼長 ― 藤原忠通
 (源氏)
  源為義  ― 源義朝
 (平氏)
  平忠正  ― 平清盛
 これらの対立が保元の乱のきっかけとなったという図式であるが本書を読むと事態はそう簡単な様相ではないとことがわかる。
 院政が始まり、天皇と摂関家のミウチ的政治から上皇を中心としたイエ的政治へと権力構造が変化していった中、天皇家自身が、北面の武士等にて武士を組織化していったのと同様に摂関家も武士を組織化していった、いわばその2大勢力が衝突したのが保元の乱であるとしている。
 そして従来、この戦の首謀者として考えられていた崇徳上皇についても最終段階で、藤原頼長らに担ぎ出されただけであり、最初から主導を握っていたわけでないとしている。また崇徳上皇自身、非常に穏やかな性格で、和歌とかを詠むのが好きな、風雅な世界に生きていた人だったそうだ。(後世、上田秋成の「雨月物語」に代表されるような大怨霊になるような激しい人ではなかったということか。)
 そして平清盛も最終段階で後白河側についたのであって、積極的な働きはしていない。ただ、清盛一党がついたことで、勝利の帰趨がついたといえると評価している。本書によると清盛は、崇徳上皇と親しい関係にあったという。崇徳上皇が積極的に関与しているのであれば、都一の武士団の棟梁平清盛を当然味方につけようとしていたはずだろうから、この点も崇徳上皇が積極的な関与をしていないことへの傍証になりそうな気はする。
保元の乱は、天皇家と荘園経営を中心に河内源氏などの武士団を取り込み、軍事力を持つようになった摂関家との衝突と見ることができるのではないだろうか。
 平治の乱についても、後白河院の寵臣藤原信頼と保元の乱の恩賞に不満を持つ源義朝とが藤原信西と平清盛を排斥するために起こしたクーデターだという見方が従来のものである。ところが本書によると、後白河院と二条天皇との間で対立があり、二条天皇を担ぐグループと藤原信頼とが組んで起こしたクーデターであるとする。もともと源義朝と平清盛とは比較にならないほど差があり、源義朝が平清盛と比較して恩賞に不満があるというべくもないのだとしている。源氏と平家が並び称されているはずだという前提が間違っているのだという。そして平治の乱は2段階あり、まずは二条天皇派のクーデターの成功、その後分裂、平清盛の登場、藤原信頼、源義朝の敗北となる。
 この平治の乱についても、平清盛は最終段階にて登場するだけである。実際、クーデターが始まったころは熊野詣に出かけていて、都を不在にしていた。著者はこの局面で都を不在にするなど政治感覚を疑うと述べている。
 すると平氏が、保元・平治の乱で地歩を固め、以後専制政治をおこなっていったという認識は問い直されなくてはいけないような気がする。そしてこの後どうして平氏が政権の中枢を占めるようになったのか改めて問い直さなくてはいけない。摂関家、院近臣勢力の没落による政治的空白があり、たまたま平氏しか有力な貴族が残っていなかったという見方もありうると思う。
 昔、私は著者の講義とっていたのだが平氏政権について鎌倉幕府の先駆的政権として評価していたような気がする。ぜひともこの続きを読んでみたい。

 
 
 
 
 
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