谷首古墳から少し東へ住宅街の中を歩くと小さなポケットパークのような公園があった。
これが、上之宮遺跡公園である。この遺跡は、1986年に、この辺りの区画整理事業に伴う発掘調査を行った際に見つかったものである。おぼろげながら、聖徳太子の宮跡が見つかったという新聞やテレビの報道があったことをおぼろげながら覚えている。
この時には、掘立柱建物や掘立柱塀、園地状遺構、石組み溝、石敷きなどが見つかっている。6世紀末から7世紀の初めにかけて営まれた遺構である。現在は、園地状遺構が復元保存されている。
楕円形をしていて中心から外に向かって、古墳の石室を思わせるような石組みの溝がある。小さな高まりの周囲も石組みで囲われている。
中心にある石組みは、横穴式古墳の石組みを彷彿とさせる。確かに、この周辺の横穴式石室を持っている古墳と造られた時期は重なっている。
これが、一体何なのかがよくわからない。水を使う祭祀施設ではなかったかと言われている。
この遺構の石溝からは、桃やひょうたんなどの種子、刀形や鳥形の木製の祭祀器などが出土している。遺跡としては、この園地状の遺構の他に、四面庇の建物跡もあることからかなり立派な邸宅跡と考えられそうである。
そうしたことから、この遺跡のある場所が上之宮という地名であり、遺跡の営まれた時代が、聖徳太子の青年期と重なることから、聖徳太子が青年期に過ごしたとされる上宮の遺構ではないのかという先の新聞記事に繋がってくるのだが、上宮と伝えられる場所は、この地以外にもあり、上宮があったとされる場所は、用明天皇の磐余池辺双槻宮の南側にあったと記されているので、磐余池の場所が確定しないことには、はっきりとしたことは言えそうにない。
ロマンはロマンとして置いておいた方が良さそうだ。
むしろ、この付近一帯は、6世紀の後半から7世紀の中頃にかけては、豪族阿部氏の本拠地であり、周辺には大型の横穴式石室を持つ古墳が多数あることから、阿部氏との関連性を考えた方が良さそうである。
これだけの遺跡なのだが、園地状遺構以外は、保存されず住宅が立ち並んでいるのは、何とも複雑な気分になってしまった。
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