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安康天皇陵から東へ三条通りを歩いていくと、駅の近くに標石が建っている。
それ従って、南へ折れていくと、住宅の中を抜けると「歴史の道」があり、それに従いながら古墳に近づくことにする。宝来山古墳は、現在、第11代の垂仁天皇陵として宮内庁が管理している。
後円部の一部には、住宅が密集しているが、その他には古墳の周りに建物がほとんどなく、ロケーションとしては最高である。田畑の中のこんもりとした青山が立っている。特に宝来山古墳は、周濠が広く、水量も豊富なため、大きな池の中に島が浮かんでいるようにも見え、巨大な回遊式の庭園のようにも見える。
もしかしたら、そういった部分が、平城京が造られるとき、この古墳が破壊されなかった理由かもしれないという気がした。この古墳は、宝来山古墳と呼ばれているが、蓬莱山からその名称が来ているのかもしれない。蓬莱山は、海中にあり、不老不死の薬を作って、仙人が住んでいると言われる。宝来山古墳も海中の島のように見立てられたのかもしれない。面白いのは、垂仁天皇は、田道間守を常世の国に使わして、不老不死の薬を探させたという逸話が残っている。
宝来山古墳の周濠の中に田道間守墓と言われる塚がポツンと浮かんでいる。
宝来山古墳は、全長227m、後円部径123m、前方部幅118mの規模であり、特徴的なのは、周濠が、一面になっており、例えばこの古墳より前に造られた行燈山古墳(崇神天皇陵)のように段構造になっていない。鍵穴型の周濠を持つ古墳で同一水面を持つ古墳の始まりと言えるかもしれない。築造年代としては、古墳時代の前期から中期にかけての時期であるらしい。
また、宝来山古墳には、陪冢と言える古墳がいくつか残っている。兵庫山古墳もその一つであるが、その他にも、古墳の後円部東側には、陪冢ほ号がある。
これは、見るからに古墳であるように見える。ただ、古墳と明言されているものない。ちょっと詳細はわからない。
宝来山古墳の前方部の南側に、陪冢は号がある。
これは古墳であろう。
そして、古墳の西側、皇大神社がある場所にも、陪冢ろ号がある。
神社全体が、僅かな高まりの上に建っており、古墳の上に建っている感じである。
これ以外に、尼ヶ辻駅の近辺の住宅街の中に、陪冢へ号があるのだが、この日は残念ながら見つけることができなかった。あと、古墳の東、近鉄線を越えたところにも陪冢に号がある。
宝来山古墳は、前にも書いたような気がするが、奈良県にある古墳の中では、ウワナベ古墳と並んで姿の美しい古墳だと思う。見れど飽かぬとはこのことである。
最後に、宝来山古墳の後円部側を歴史の道の石畳が続いているのだが、かなりガタガタになっていて、足場が非常に悪い状態になっている。ちょっとバランスを崩すと古墳の周濠に落ちそうな感じである。大事になる前に補修をしていただければと思う。
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