万葉文化館の庭園にある万葉歌碑の三つ目、今回は、笠金村の歌碑を取り上げる。笠金村は、奈良時代初期の歌人、活躍した同時期の歌人で言うと、山部赤人や車持千年、高橋虫麻呂などがいる。ただ、人物としては、万葉集以外にあまり記載がなく、詳細はわからないようだ。ただ、笠氏は、吉備氏の一族であるという。
万葉集には、45首収録されている。そして、金村が詠んだ歌で制作年代がわかる一番古い歌が、志貴皇子を詠んだ挽歌で、この歌は、このブログでも過去、紹介している。(「万葉歌碑 白毫寺」)
この時の歌は、「高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに」というものである。この歌が、詠まれたのが霊亀元年(715年)元正天皇の時のことである。ちなみに最後の歌は、天平5年(733年)になる。
そして、万葉文化館の庭園の歌碑には、「皆人の 命もわれも み吉野の 滝の常盤の 常ならぬかも」という歌が選ばれている。
この歌の意味としては、皆の人の命も私の命も、吉野の滝の大岩の様に、すっと変わらずにあってほしいというもの。宮廷歌人としての面目を保ってるような内容になっていると思う。
この歌は、神亀2年(725年)の聖武天皇による吉野離宮への行幸の時に詠まれたものであるという。この時は、山部赤人が詠んだ歌も収録されている。この時の政府には、知太政官事に舎人皇子が、左大臣に長屋王が就任し、右大臣は欠員となっていた。古くは皇親政治という言葉が使われていた比較的落ち着いた時代である。長屋王の変が起こるのは、この年から4年後神亀6年の出来事である。
そして、金村の和歌も、吉野の地を賛美するとともに、聖武天皇の御世が平和であることを祈願していたのだと思うが、長屋王の変の後、皇位継承をめぐって、天皇の周辺は動揺し、血なまぐさい政争を繰り返していくのである。
吉野讃歌とも言えるこの歌ではあるが、歌碑のある万葉文化館の庭園からは、多武峰の山並みは見えるが、吉野の山々は見えない。まあ、仕方ないか。
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