若者殺しの時代
堀井 憲一郎著 講談社現代新書
「1983年から社会は若者を抹殺し始めた」という内容の本である。1983というと私は高校生。1986年に大学に入学したので、私と学生時代と重なり、また1980年代を境に日本の若者文化は変化したという意識を持っていたので、興味深く読ませていただきました。
そういえば、私の入学したときはまだ学生は貧乏なものという文化が存在してました。下宿もほとんどは四畳半、共同トイレ、風呂は銭湯でした。たまにクーラーがついているマンションに住んでいるのがいれば感動ものだったような気がします。大学の寮にも入っているものいました。(いつのまにか学生寮はなくなってました。)学生は貧乏で当たり前、貧乏がそう恥ずかしくない時代だったと思う。まだ学費から生活費からほとんど自分でまかなっている学生もちらほらいたりしました。
2年ぐらい下になってくると急に生活が変わっていくのを実感しました。いきなりワンルームマンションからのデビューだったりします。会話も服装もおしゃれになってました。
クリスマス、小学校の時はケーキがありました、たまにプレゼントをもらったりしたけど、中学生、高校生とほとんどご無沙汰してました。大学もそんなに意識してなかったと思う。いつの間にか一大イベントになってました。しかも彼女と何が何でもすごさなければならない日にいつの間にかなってました。本書にも書かれているようにあっという間に「クリスマス・ファシズム」とも言うべきことになってしまった。
考えれば、別にキリスト教徒でもない私たちがキリストの教祖様の誕生日をお祝いせんといかんのだろう。しかも宗教的な行いをするわけではなく、もっと世俗的な行為を行うためなのに、変な話である。仏教徒である私は、特にお釈迦さんの生誕の日何をすることもない。だいたい日だってはっきり知らない。(4月というのは知ってるけど。)
イベント屋が仕掛けたのに乗っかってしまい、(本書で言うとペテン師の枠かもしれない)定着させられたものである。バレンタインデーもそう。そういえばそんな日があるらしいと思って小、中高生を過ごし、大学に入って初めて物を見たような気がする。子どもに聞くと小学生の世界でも義理チョコが存在するらしい恐ろしい時代になったものだ。
だいたいサンタクロースの服の色だって、コカコーラの宣伝から広まったらしいし、何の根拠もないみたいだ。
そうして、私たちの学生時代は、ちょうど本書に言う今まで消費の中心の外にあった若者がいつの間にか消費文化に組み込まれていった時代と重なってくる。いろんな雑誌やテレビが、生活やトレンドを教えてくれるようになった時代だった。そうなってくるとみんな背伸びしていろんなものを買い揃えていった。また、時代はバブル。どんどん消費文化に巻き込まれていった。
考えてみれば今や消費文化は子どもの世界にも押し寄せている。昔の子どもに投資されている金額と今と比べてみると桁が違うような気がする。子ども相手に金儲けをしたらちょっと前なら非難されていたような気もするんだけど、今や堂々と大企業だもんな。
マンガも売れるものだけになってしまった。マンガ雑誌を見てて思うんだけど、売れ筋とは違う何か心に残るしっとりとした情感のあるマンガがジャンプでもサンデーでも併載されていたりしてたんだけど、今、おんなじ様な売れることを意識したマンガばっかりが目に付いているような気がする。ジャンプが面白くなくなったのは一つは設定は違えど同じようなマンガばかりが目に付くようになってしまったからではないのか。今の雑誌からはつげ義春なんて出てくることはないだろうなあ。
どのマンガもちょいエロ路線ばっかり。でも永井豪のような、爆発的なエネルギーがあるわけでもないんだなあ、これが。
ジャンプでは「両さん」と「アイシールド21」ぐらいか読む気がするのは。両さんは、たまにじっくりと読ますノスタルジックな世界を描く幅のある世界を持っているので読む気が起こる。
マンガも子どもだけのものからいつの間にか資本が入り、消費の対象になってしまった。
携帯電話は、あっという間に若者を消費の対象とした。「他人を見下す若者」という本にも書かれていたが、携帯電話は大いに若者のコミュニケーション力を低下させたと思う。例えば友達の家に電話をかけるときでも昔は誰が出るかわからないから多いに緊張したものだ。女友達ならなおさらで、最初に自分は怪しいものではないということを理解してもらうために、自分の身分を名乗ったりしたもんだ。(そういったことをするからしっかりとした社会的な立場を身につけないといけないと思っていくのかもしれない。)携帯電話だとそういうことが一切ない。きちっとしたコミュニケーションの技術を身につける前に社会に出て行くことになる。
だから女の子と付き合うときも昔はそれなりに相手の家庭を意識したもんなのだが・・・。ということはそれなりにハードルも存在した。何か今の中学生が大人と同じような口を聞いているのを見ると、まず自分の立場を理解したうえで話せよと思ったりする。ちょっと話が飛んだか。
いろいろな部分で80年代が若者社会を変えていった。若者というカテゴリーを認め、若者を対象に資本を投下し、回収を始めた。いわば若者はこうすべきだというモデルを提示し、誘導していくようになった。簡単に言えば若者を商売の対象にしはじめたといえるのだろう。
そして若者の可能性を蝕んでいく。本書では若者殺しと言っているが・・・。
本書自体は私の自分史とも重なり、その時代の気分を思い起こしながら読ませていただきました。私たちよりも上の世代にいつまで翻弄されればいいのかなあと思ったりもした。
堀井 憲一郎著 講談社現代新書
「1983年から社会は若者を抹殺し始めた」という内容の本である。1983というと私は高校生。1986年に大学に入学したので、私と学生時代と重なり、また1980年代を境に日本の若者文化は変化したという意識を持っていたので、興味深く読ませていただきました。
そういえば、私の入学したときはまだ学生は貧乏なものという文化が存在してました。下宿もほとんどは四畳半、共同トイレ、風呂は銭湯でした。たまにクーラーがついているマンションに住んでいるのがいれば感動ものだったような気がします。大学の寮にも入っているものいました。(いつのまにか学生寮はなくなってました。)学生は貧乏で当たり前、貧乏がそう恥ずかしくない時代だったと思う。まだ学費から生活費からほとんど自分でまかなっている学生もちらほらいたりしました。
2年ぐらい下になってくると急に生活が変わっていくのを実感しました。いきなりワンルームマンションからのデビューだったりします。会話も服装もおしゃれになってました。
クリスマス、小学校の時はケーキがありました、たまにプレゼントをもらったりしたけど、中学生、高校生とほとんどご無沙汰してました。大学もそんなに意識してなかったと思う。いつの間にか一大イベントになってました。しかも彼女と何が何でもすごさなければならない日にいつの間にかなってました。本書にも書かれているようにあっという間に「クリスマス・ファシズム」とも言うべきことになってしまった。
考えれば、別にキリスト教徒でもない私たちがキリストの教祖様の誕生日をお祝いせんといかんのだろう。しかも宗教的な行いをするわけではなく、もっと世俗的な行為を行うためなのに、変な話である。仏教徒である私は、特にお釈迦さんの生誕の日何をすることもない。だいたい日だってはっきり知らない。(4月というのは知ってるけど。)
イベント屋が仕掛けたのに乗っかってしまい、(本書で言うとペテン師の枠かもしれない)定着させられたものである。バレンタインデーもそう。そういえばそんな日があるらしいと思って小、中高生を過ごし、大学に入って初めて物を見たような気がする。子どもに聞くと小学生の世界でも義理チョコが存在するらしい恐ろしい時代になったものだ。
だいたいサンタクロースの服の色だって、コカコーラの宣伝から広まったらしいし、何の根拠もないみたいだ。
そうして、私たちの学生時代は、ちょうど本書に言う今まで消費の中心の外にあった若者がいつの間にか消費文化に組み込まれていった時代と重なってくる。いろんな雑誌やテレビが、生活やトレンドを教えてくれるようになった時代だった。そうなってくるとみんな背伸びしていろんなものを買い揃えていった。また、時代はバブル。どんどん消費文化に巻き込まれていった。
考えてみれば今や消費文化は子どもの世界にも押し寄せている。昔の子どもに投資されている金額と今と比べてみると桁が違うような気がする。子ども相手に金儲けをしたらちょっと前なら非難されていたような気もするんだけど、今や堂々と大企業だもんな。
マンガも売れるものだけになってしまった。マンガ雑誌を見てて思うんだけど、売れ筋とは違う何か心に残るしっとりとした情感のあるマンガがジャンプでもサンデーでも併載されていたりしてたんだけど、今、おんなじ様な売れることを意識したマンガばっかりが目に付いているような気がする。ジャンプが面白くなくなったのは一つは設定は違えど同じようなマンガばかりが目に付くようになってしまったからではないのか。今の雑誌からはつげ義春なんて出てくることはないだろうなあ。
どのマンガもちょいエロ路線ばっかり。でも永井豪のような、爆発的なエネルギーがあるわけでもないんだなあ、これが。
ジャンプでは「両さん」と「アイシールド21」ぐらいか読む気がするのは。両さんは、たまにじっくりと読ますノスタルジックな世界を描く幅のある世界を持っているので読む気が起こる。
マンガも子どもだけのものからいつの間にか資本が入り、消費の対象になってしまった。
携帯電話は、あっという間に若者を消費の対象とした。「他人を見下す若者」という本にも書かれていたが、携帯電話は大いに若者のコミュニケーション力を低下させたと思う。例えば友達の家に電話をかけるときでも昔は誰が出るかわからないから多いに緊張したものだ。女友達ならなおさらで、最初に自分は怪しいものではないということを理解してもらうために、自分の身分を名乗ったりしたもんだ。(そういったことをするからしっかりとした社会的な立場を身につけないといけないと思っていくのかもしれない。)携帯電話だとそういうことが一切ない。きちっとしたコミュニケーションの技術を身につける前に社会に出て行くことになる。
だから女の子と付き合うときも昔はそれなりに相手の家庭を意識したもんなのだが・・・。ということはそれなりにハードルも存在した。何か今の中学生が大人と同じような口を聞いているのを見ると、まず自分の立場を理解したうえで話せよと思ったりする。ちょっと話が飛んだか。
いろいろな部分で80年代が若者社会を変えていった。若者というカテゴリーを認め、若者を対象に資本を投下し、回収を始めた。いわば若者はこうすべきだというモデルを提示し、誘導していくようになった。簡単に言えば若者を商売の対象にしはじめたといえるのだろう。
そして若者の可能性を蝕んでいく。本書では若者殺しと言っているが・・・。
本書自体は私の自分史とも重なり、その時代の気分を思い起こしながら読ませていただきました。私たちよりも上の世代にいつまで翻弄されればいいのかなあと思ったりもした。
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