牙 ~江夏豊とその時代~ 後藤 正治著 講談社文庫
野球選手の背中が野球を語っていた時代があった。
江夏豊という投手についてのルポである。残念ながら僕は江夏の全盛期を知らないというか、僕が知っているのは広島カープでリリーフエースを務めていた江夏である。剛速球で相手打者をきりきり舞いさせたという時期ではもちろんない。配球のうまさでかわしていく投手であった。職人芸を感じさせるピッチャーであったと同時にどこか陰のある雰囲気があった。本書を読んでもその陰を感じさせる部分は生い立ちの中にあり、また若くして阪神という特殊な球団を背負わなくてはならなかったことに起因するのだろうと思われた。しかしプロという世界を背中で感じさせていた選手であったことは間違いない。思えば私が野球を始めたときはどこの球団にも顔となる選手がいた。近鉄では鈴木、阪急は山田、中日は星野、巨人は王、堀内といった具合に、百花繚乱の時代であった。そして様々な個性がしのぎを削っていた。
江夏も阪神時代ON相手に名勝負を繰り広げていた。おそらく多くのファンがその勝負にひきつけられていたのだろう。どこか武士道を感じさせる勝負であったろうと思う。最近、こういった名勝負がなくなってしまった。勝敗とは関係のない勝負がたまらないのだが、最近すっかりなくなってしまった。野茂-清原の勝負が最後かもしれない。巨人の上原や西武の松坂の悲劇はライバルと呼ばれるバッターがいないことにあるといえるかもしれない。しいては野球を面白くなくしているような気がする。(ただ、上原の場合は、そういう投手独特の感性がないような気もしないではない。)
名勝負というのは、一人の選手が成し遂げるのではない力が等しい相手がいるのである。巨人の一極集中主義なんてのはそういう意味でばかげたことだと思う。一球団が圧倒的な戦力でもって勝ち続けたところで面白いはずがない。
そして江夏が幸せであったのは、ONという存在に全力で挑んでいけたということであろう。打たれてもどこか清々しいそんな勝負を何度も実感できたということではないだろうか。わずか18メートルほどの距離の中でざまざまなドラマが生み出されていた。そして観衆を魅了できたのである。
本書を読むと、他のプレイヤーも味がある、仏の吾郎こと遠井、鬼平藤田平、ホームランアーチスト田淵幸一。ミスタータイガース村山実、春団冶川藤などなどである。なにかしら個性的な選手たちであった。(ただ私は村山の現役時代は知らないですが・・・。)そしてそれらの選手と江夏とのかかわりも描かれていたりする。
今のプロ野球選手に感じるのは、受験エリートが東大に入っていくようななんかそんな感じがしないでもない。なにか人間くささがないような気がする。スマートすぎるというべきか。もっと泥臭い何かがあっていいような気がする。もはや江夏の時代の個と個との力の勝負ができた時代ではないのかもしれない。しかしどこかそのことに対する郷愁を感じている。めっぽう速い球を力いっぱい打ち返す。そんな単純な野球を見たい気がする。
本書を読むと今は失われてしまったプロ野球を見つけるだろうし、もしかしたらプロ野球復興に向けてのヒントを見出せるかもしれない。
私は思うが、野球は青空の下で、日差しを、風を感じながら、見るのが一番楽しい。
野球選手の背中が野球を語っていた時代があった。
江夏豊という投手についてのルポである。残念ながら僕は江夏の全盛期を知らないというか、僕が知っているのは広島カープでリリーフエースを務めていた江夏である。剛速球で相手打者をきりきり舞いさせたという時期ではもちろんない。配球のうまさでかわしていく投手であった。職人芸を感じさせるピッチャーであったと同時にどこか陰のある雰囲気があった。本書を読んでもその陰を感じさせる部分は生い立ちの中にあり、また若くして阪神という特殊な球団を背負わなくてはならなかったことに起因するのだろうと思われた。しかしプロという世界を背中で感じさせていた選手であったことは間違いない。思えば私が野球を始めたときはどこの球団にも顔となる選手がいた。近鉄では鈴木、阪急は山田、中日は星野、巨人は王、堀内といった具合に、百花繚乱の時代であった。そして様々な個性がしのぎを削っていた。
江夏も阪神時代ON相手に名勝負を繰り広げていた。おそらく多くのファンがその勝負にひきつけられていたのだろう。どこか武士道を感じさせる勝負であったろうと思う。最近、こういった名勝負がなくなってしまった。勝敗とは関係のない勝負がたまらないのだが、最近すっかりなくなってしまった。野茂-清原の勝負が最後かもしれない。巨人の上原や西武の松坂の悲劇はライバルと呼ばれるバッターがいないことにあるといえるかもしれない。しいては野球を面白くなくしているような気がする。(ただ、上原の場合は、そういう投手独特の感性がないような気もしないではない。)
名勝負というのは、一人の選手が成し遂げるのではない力が等しい相手がいるのである。巨人の一極集中主義なんてのはそういう意味でばかげたことだと思う。一球団が圧倒的な戦力でもって勝ち続けたところで面白いはずがない。
そして江夏が幸せであったのは、ONという存在に全力で挑んでいけたということであろう。打たれてもどこか清々しいそんな勝負を何度も実感できたということではないだろうか。わずか18メートルほどの距離の中でざまざまなドラマが生み出されていた。そして観衆を魅了できたのである。
本書を読むと、他のプレイヤーも味がある、仏の吾郎こと遠井、鬼平藤田平、ホームランアーチスト田淵幸一。ミスタータイガース村山実、春団冶川藤などなどである。なにかしら個性的な選手たちであった。(ただ私は村山の現役時代は知らないですが・・・。)そしてそれらの選手と江夏とのかかわりも描かれていたりする。
今のプロ野球選手に感じるのは、受験エリートが東大に入っていくようななんかそんな感じがしないでもない。なにか人間くささがないような気がする。スマートすぎるというべきか。もっと泥臭い何かがあっていいような気がする。もはや江夏の時代の個と個との力の勝負ができた時代ではないのかもしれない。しかしどこかそのことに対する郷愁を感じている。めっぽう速い球を力いっぱい打ち返す。そんな単純な野球を見たい気がする。
本書を読むと今は失われてしまったプロ野球を見つけるだろうし、もしかしたらプロ野球復興に向けてのヒントを見出せるかもしれない。
私は思うが、野球は青空の下で、日差しを、風を感じながら、見るのが一番楽しい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます