休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

高安古墳群を歩く

2005-05-11 21:15:25 | 史跡を歩く
 先日、非常に天気がよかったのでかねてから考えていた高安古墳群の写真をとりに八尾市へ向かう。近鉄山本駅から単線に乗り換え、終点信貴山口駅を降りる。このあたりは八尾市でもかなり辺境。
 信貴山口駅から20分ほど登った宝蔵寺というお寺の開祖のお墓があるところの下に一つ横穴式石室を持った古墳を発見した。これが大森貝塚を発見したモースが絵を残しているという開山塚古墳だろうか?ただ案内板等もないので不明ではあるが・・・。その後しばらく史跡の道をふらふらとうぐいすの声を聞きながら歩いた後、神光寺というお寺の入り口で、高安古墳群という石碑を見つける。そして周りを見回すとあるわあるはあっという間に十数基みつけ、すべて写真に収める。特に墓地のあたりには何基もあり、特に一基は完全に石室が突き抜けていて、トンネルになっていた。大多数は造園のための植木林の中にあり、全く整備等はされていない。ごみが捨てられてあったり、物置になっていたりしていた。非常に残念なことではある。お寺の中にも大きな石がごろごろしていたが、もしかしたら古墳の石室に使われていた石材かもしれないという気がした。
 高安古墳群の石は大坂城築城の折に石垣を作るための材料としてかなり重用されたようです。先日読んだ「古墳の発掘」という本にも、その時の様子を描いた絵が載ってます。もともと300基はあったであろう墓が今は100基ほどだそうです。但し全然保護されていないので、今後どうなることやら・・・。群集墳というのは、一つ一つはたいした事はないですが、その塊であることが一つの価値なのですから、全体を洞保存していくかということを考えて行くことは必要だと思う。
 群集墳というのは、6世紀の後半から7世紀の始めにかけて、一定の地域に、小規模な古墳が数多く集まって形成される古墳群の一形態であり、有力な農民層がヤマト王権の承認のもとに身分秩序表現として造墓されたものだという。大仙古墳のように一つの古墳が大きくないため注目をひかないがため、なかなか保存まで行かないのが現状ではないだろうか。
 神光寺で力尽きそのまま下山して家に服部川駅から家に帰りました。
 考えたら、あんまり高安古墳群について書いたものがない。地図すらないもんな。せめて古墳地図ぐらい作ってくれたらうれしいなあ。
 また、機会があれば続きを探索してみたいと思う。

 開山塚古墳についての記事 
 http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200504150012.html

 追記 二階塚古墳所在地についてわかる方は教えてください。
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