崇峻天皇陵から、三度多武峰街道に戻り、ここから一路談山神社に向けて歩く始める。ここから先は、談山神社まで、特に立ち寄るべきところもなさそう。約4kmの道のりを前を向いて、ひたすらに歩き続けよう。
歩き始めの頃は、こういう秋の田んぼの風景を楽しみながら歩く。秋のこういう風景は、目に優しい。
さらに進んでいくと、民家どころか杉木立のほかは何も見えない。左手には、寺川の流れがあり、時折川の音が聞こえる。途中、乗用車が、何台か横を通り過ぎる。
山の中の道なので、時に景色が開けるようなところもなく、ひたすら上る。
3~40分も歩いただろうか、音羽山観音寺の標識がいくつかあった。NHKで放映されていた(いる?)「やまと尼寺精進日記」で知られているお寺である。どんな所かは興味があったのだが、ここは、まず目的地へ行くことが肝心。わき目も振らず、ただただ前に進むのみ。
さらに10分ほど歩くと、不動延命の滝を示す案内板があった。めざす談山神社まではあと少し。ここまで来るといいかと思い、少し道を外れて、というか多武峰街道が県道から分かれて、不動延命の滝へ。
まず目につくのが、不動延命の滝の石碑と万葉歌碑。間にあるのは町石?
万葉歌碑の方は、ノーベル物理学賞の湯川秀樹博士の揮毫で、「梯立の 倉橋山を 嶮しみと 岩かきかねて 吾が手とらすも 梯立の 倉橋山は 嶮しけど 妹とのぼれば 嶮しくもあらず」と万葉集の歌ではなく、万葉集と同じ時代に成立した古事記に収められたもの。
仁徳天皇が、異母妹である女鳥王を妻にしようと、同母弟の隼別皇子に仲立ちを依頼したところ、隼別皇子と女鳥王とが恋仲になってしまい、のち隼別皇子に皇位を狙う野心や不敬の言動等があり、仁徳天皇の怒りを買い、天皇からの追手から逃れるため、倉橋山に逃れるときに謡ったものと伝えられる。
倉橋山は険しいけれど、二人で行けば険しいことがあるものかという内容。しかし、この後、隼別皇子と女鳥王は、宇陀の曾爾で捕まってしまい、殺されてしまうのだけど。(そういえば、田辺聖子さんの小説「隼別王子の叛乱」は、この話をもとにしている。)
このうらに不動延命の滝がある。
どれだ?奥にあるやつか?
これだ!
滝の下のところでは、滝行が出来るようになっている。
もう少し後だと、紅葉が映えて綺麗だったかも。
そして、滝のすぐそばには、不動明王を彫った摩崖仏があった。
破不動と呼ばれる摩崖仏で、この仏さまが彫られている石が、真っ二つに断ち割られている。
説明板には、「慶長十三年四月談山が鳴動したときに破裂したものだと伝えられている。」とのこと。
慶長だから江戸時代かあ。何か柳生の一刀石のように剣豪が断ち割ったという伝承があってもよさそうではあるけどね。
ただ、滝があって、不動明王像があってとなると、山伏、修験道と深いつながりがありそうな場所でもある。
この後、多武峰街道が県道と合流。談山神社まではあと少しだ。
歩いてすぐの所に、ヤマザキのコンビニがあった。久しぶりに人がいるところにでた。ホッとする。何とここで談山神社行のバスに追い抜かれた。
ということは、ここまで1時間半ぐらいはかかったのかな。
そして、目を移すと、橋の上にに屋根がかかった珍しい橋が、寺川に架かっていた。本居宣長の『菅笠日記』に、「うるはしきある橋あるを渡り、すこしゆきて惣門にいる」と記されているのがこの橋であるそうだ。
この先、あと少しだ。
意気揚々と橋を渡り、いざ談山神社へ!
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