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聖林寺を出て、今度は田んぼの中を東へ向かい、寺川を渡って、多武峰街道に合流する。少し歩くと倉橋のバス停があった。
倉橋と言えば、古墳時代の終わりというか、飛鳥時代の初めのころ、崇峻天皇の倉梯柴垣宮が営まれたという伝承がある。
ここぐらいからバスに乗ればいいかと悠長に構えて、バスの時刻表を見て、びっくり!なんとお昼の時間は一時間に一本ではなく、丸々二時間バスが来ないことが判明。
見渡す限り、田んぼと山ぐらいしかない。ベンチも何もない中で、二時間は待つことはできない。ここから多武峰までは、4km程度。ならば、多武峰まで歩いても大丈夫であろうということで、多武峰に向いて歩き始める。
5分ほど歩くと、崇峻天皇倉梯岡陵と刻まれた道標を発見!崇峻天皇陵の拝所をめざして右に折れる。崇峻天皇と言えば、欽明天皇の第12皇子、母は、蘇我稲目の娘、小姉君。12番目の子なので、皇位に着くことが難しいところ、異母兄の用明天皇が、在位わずか2年で終わり、同母兄の穴穂部皇子も蘇我氏と物部氏の対立の中、暗殺されるなど混迷極める皇位継承の中、蘇我馬子の推挙を受け、皇位に就くことができたと言われる。
崇峻天皇の人間像は、あまりわからないが、山岸凉子の名作「日出処の天子」では、野心家ではあるが、中身はまるでない、虚栄心の塊の様な人物として描かれている。
崇峻天皇の即位後、蘇我馬子と物部守屋との間で、対立が激化し、丁未の乱が勃発、結果物部氏が没落し、蘇我氏が権勢を高めることになった。崇峻天皇の在位中も、馬子が実権を握っており、その後、両者が対立し、結果、蘇我馬子の命を受けた東漢直駒により暗殺された。
崇峻天皇の後に皇位に就いたのが、最初の女帝と言われる推古天皇である。
崇峻天皇の暗殺後、その日のうちに埋葬されたと伝えられ、その後所在地等は不明であった。江戸時代末期の文久の修復の際にも、崇峻天皇陵がどこにあるのか決定できなかった。明治になり、22年、崇峻天皇に縁がある地として、柴垣宮の伝承地と天皇屋敷を崇峻天皇陵として地上されている。
古墳の周囲をぐるっと回ることができ、配所の反対側に来ると、天皇陵の周囲を巡っている生垣が、切れているところがあり、そこから、中をのぞいてみた。
古墳らしきものはなく、小さい円丘があるのは、ちゃんと目視できる。
まあ、一日で埋葬されたのだから、きちんとした古墳でなくてもええんじゃねという気もするが、近くにこの場所よりも適切なものがある。
ここから500mほどのところに赤坂天王山古墳があり、明らかに大王級の古墳であることから、ここが崇峻天皇陵ではないかと言われている。(赤坂天王山古墳については、後日掲載する予定。)
だいたい川のほとりに古墳が造らることはあり得ない気がする。
崇峻天皇陵の見学を終えたのち、多武峰街道に戻って、再び多武峰をめざして歩き始めることとした。
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