今週もはや木曜日 ようやくホリエモン、米産牛肉、ヤマハヘリ等の問題も静まった様子 少し落ち着いて問題を考えたい
女性・女系天皇問題が語られそれに反対する論陣がはられると必ず出てくる言葉“男系男子による皇統継承”或いは“万世一系”とは長さで表現するとどの位なのに答えるのが皇紀2665年なのだ
神武天皇が即位された年を皇紀元年とし天皇家が2665年間続いている そして今年2月11日の建国記念日が来ると皇紀2666年を迎えることになる
さてそれは実に(西暦)紀元前660年に当るのです 何故その様な昔になったのであろうか
一寸中学生の頃を思い出そう
西暦 57年 倭の奴国,後漢に朝貢し光武帝から印綬を賜る
西暦239年 倭の卑弥呼が魏の使いを出し朝貢を求める (試験用暗唱 ふみくださいね ひみこより)卑弥呼は九州の一部を治める族長で日本の西半分を治めた実体は無い
西暦478年 倭の武王 宋に上表文を送る (しなばもろとも倭の武王)
「昔よりそでいみずから甲冑をつらぬき,山川を跋渉し、寧処にいとまあらず、東は毛人を征すること55国 西は衆夷を服すること66国 渡りて海北を平らぐること95国」と大和国家(日本国の原型)統一の事を述べている
在野の古代日本史研究家が中国と国内の資料を検討し諸々の説を述べている 日本の国らしい種が作られるのが紀元前後であろう
それでは誰が紀元前660年と定めたのであろうか
日本には6世紀頃までは正確な暦も年代を記録する方法も無かった 和歌山県隅田八幡宮の鏡の銘が「葵未年」と干支で年代を表現した 西暦503年の事とされる 朝廷の求めに応じて欽明天皇の時百済から暦博士が来日するのは六世紀半ばである 西暦602年推古10年百済の僧勧勒が暦法を伝えたといわれている 古事記・日本書紀の編纂の始まる前に宋の元嘉暦が(最近石神遺跡で木簡出土)伝わり690年持統4年には唐の儀鳳暦が伝わっている 古事記・日本書紀の編者はこれらの暦を使った事になっている しかし江戸時代の学者も明治に入ってからも古事記・日本書紀の年代の定め方に何か暦とは別の法則が働いていることに気が付く 勿論古事記・日本書紀の編者も国家的事業に事実の誇張や装飾がある事は否めないが第十代の崇神天皇以前には実在しないと思われる天皇達(欠史八代とも呼ばれる)が書かれている 第十五代応神天皇迄の11名の天皇の没年が百歳以上で神武天皇の没年は古事記で137才 日本書記127才と余りのご長寿は不合理である
そこで讖緯説(しんいせつ)が有力となる
讖緯説とは易経(儒家の経典、占いの書)を易緯(えきい--)易の緯「裏から或いは斜めから読むことの意で神秘主義的に易経を解釈した書 未来予想書 前漢末から流行し隋の煬帝の時代には禁書とされた」の一章節にある見解
《辛酉(しんゆう)を革命となし甲子(こうし或いはかっし)を革令となす》という語がある 辛酉の年には革命 つまり政治的大変革が起こるというわけである 辛酉・甲子の六十年目毎に来る年回りにすべて革命・革令が起こるわけでは無い 君主に徳が無く陰陽の調和が破れると天命が変わり革命が生じるとする
干支が一巡する六十年を一元という 七元の間に三変があり、さらに二十一元を一蔀(ほう)として歴史は循環する》という
その最初の理解者は、聖徳太子でのちに蘇我馬子と共に、国史の編纂に着手し日本の紀元を定めることにした 天皇記・国記を編集された西暦620年より前の辛酉の年は西暦601年(推古天皇九年)である この年から一蔀、つまり千二百六十年遡った年を、日本初代の神武天皇即位の年と決めたわけなのだ
それに依り西暦紀元前660年 つまり日本紀元元年辛酉正月 神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)大和の橿原宮(かしわらのみや)に即位した
諡(おくりな)神武天皇である と決められたのである
この神武紀元が1872年明治5年11月5日太政官布告によって国家紀元とされた
これを太陽暦に直して2月11日を紀元節としたが1260年間が記録も暦もない時代でありその後は月齢で計算した陰暦であったから換算することがはじめから無理な話である 合理性は無い
明治政府が天皇を統治者としてその政権を支えるために強行したと言える 昭和22年紀元節は廃止された ところが昭和42年建国記念日として復活した この時は先に建国記念日ありきで何月何日にするかは建国記念日審議会に委ねた これは今日の主題でないのでこれ以上書かない
話が長くなったがもう少しお付き合いの程を
国民が国の起源を神話の時代に求め古い時代から続く民族であると誇らしく思う事は当たり前であろう 天皇家の方々がその歴史を誇ることも ただ古事記・日本書紀でも神話の時代と伝承の時代と人としての天皇の代を分けている 従って皇統後継の議論に万世一系とか皇紀2665年であるとか性(Y)染色体なんて話は自己矛盾である 日本の古代史については野にある諸賢が色々書いている 中学校での歴史の如く西暦紀元前後から小さなクニの連合が広がり広域クニになり5世紀前後には朝鮮半島にも影響力のある勢力になったようである そこから数えても1600年十分に古い 長い 第25代武烈天皇の代で皇統は絶え第26代継体天皇は別系との説もあるが傍系としておく そこから数えても1500年 時折傍系継承で男系を繋いできた 十分に長い歴史である
また血こそ尊いと強調する方もいるが果たしてそうであろうか 平安から室町時代の人間でもあるまいし戦乱の世、下克上、生き残りを賭けた一揆等を通じて実力主義は定着しているはずだ
その過程を通し踏まれても蹴られても殺されても生まれ継ぎ生継ぐ自分たちの忍耐力・生命力・永続性を天皇家の弥栄に重ねてご信頼し 武力持つものが世を抑えても徳の力だけで存続するあり方を民族の伝統(文化と言っても良い)の体現者として尊敬申し上げているのである 加えて日本の歴史の変わり目に国民に代わり命をかけても我々を庇ってくださる威徳に尊崇を捧げているのである
贔屓の引き倒しは良くない
そこで結論に入ろう
西暦592年蘇我馬子祟峻天皇を暗殺、欽明天皇の皇女が即位され
推古天皇となる 聖徳太子が皇太子となり皇子摂政となる
日本の象徴天皇の始まりである
西暦604年聖徳太子が17条の憲法をお作りになる 成文法の始まりである
17条の憲法と皇子摂政
律令と藤原・九条・近衛による摂政・関白
成敗式目による鎌倉幕府の執権
同じく 室町幕府の執事・管領
同じく 江戸幕府の大老
現代憲法の時代の内閣総理大臣
日本の象徴天皇は1400年の歴史がある
天皇親政 神格化は明治政府の誤りである そのカケラが今も一部残っている
又 天皇不要論はソ連共産党が戦前から狙ってきた所 民族の団結を破壊し日本を自己の支配下に置くために その残像を残している人がいる
日本民族はカリスマ性、求心性、信頼性を象徴天皇に求め政治力、統治力を時々の政権に委ねてきた ここ10数年海外では力による巨大国家が壊れ民族単位に別れ新しい国を再生しようと努力しているがその民族の統合の主体を何に求めるか試行錯誤している
日本では統合の中心が宗教でない(キリスト教・イスラム教・仏教・儒教等)言い換えれば人間中心の心 これが象徴天皇1400年の歴史なのである
男系天皇を無理やり立てるか女性・女系天皇が考えられぬか 是か非か 女性の意見を大いに伺いたいものである
問題は性別ではなく環境と教育の問題の筈である
爺の見解はここを参照して欲しい
女性・女系天皇問題が語られそれに反対する論陣がはられると必ず出てくる言葉“男系男子による皇統継承”或いは“万世一系”とは長さで表現するとどの位なのに答えるのが皇紀2665年なのだ
神武天皇が即位された年を皇紀元年とし天皇家が2665年間続いている そして今年2月11日の建国記念日が来ると皇紀2666年を迎えることになる
さてそれは実に(西暦)紀元前660年に当るのです 何故その様な昔になったのであろうか
一寸中学生の頃を思い出そう
西暦 57年 倭の奴国,後漢に朝貢し光武帝から印綬を賜る
西暦239年 倭の卑弥呼が魏の使いを出し朝貢を求める (試験用暗唱 ふみくださいね ひみこより)卑弥呼は九州の一部を治める族長で日本の西半分を治めた実体は無い
西暦478年 倭の武王 宋に上表文を送る (しなばもろとも倭の武王)
「昔よりそでいみずから甲冑をつらぬき,山川を跋渉し、寧処にいとまあらず、東は毛人を征すること55国 西は衆夷を服すること66国 渡りて海北を平らぐること95国」と大和国家(日本国の原型)統一の事を述べている
在野の古代日本史研究家が中国と国内の資料を検討し諸々の説を述べている 日本の国らしい種が作られるのが紀元前後であろう
それでは誰が紀元前660年と定めたのであろうか
日本には6世紀頃までは正確な暦も年代を記録する方法も無かった 和歌山県隅田八幡宮の鏡の銘が「葵未年」と干支で年代を表現した 西暦503年の事とされる 朝廷の求めに応じて欽明天皇の時百済から暦博士が来日するのは六世紀半ばである 西暦602年推古10年百済の僧勧勒が暦法を伝えたといわれている 古事記・日本書紀の編纂の始まる前に宋の元嘉暦が(最近石神遺跡で木簡出土)伝わり690年持統4年には唐の儀鳳暦が伝わっている 古事記・日本書紀の編者はこれらの暦を使った事になっている しかし江戸時代の学者も明治に入ってからも古事記・日本書紀の年代の定め方に何か暦とは別の法則が働いていることに気が付く 勿論古事記・日本書紀の編者も国家的事業に事実の誇張や装飾がある事は否めないが第十代の崇神天皇以前には実在しないと思われる天皇達(欠史八代とも呼ばれる)が書かれている 第十五代応神天皇迄の11名の天皇の没年が百歳以上で神武天皇の没年は古事記で137才 日本書記127才と余りのご長寿は不合理である
そこで讖緯説(しんいせつ)が有力となる
讖緯説とは易経(儒家の経典、占いの書)を易緯(えきい--)易の緯「裏から或いは斜めから読むことの意で神秘主義的に易経を解釈した書 未来予想書 前漢末から流行し隋の煬帝の時代には禁書とされた」の一章節にある見解
《辛酉(しんゆう)を革命となし甲子(こうし或いはかっし)を革令となす》という語がある 辛酉の年には革命 つまり政治的大変革が起こるというわけである 辛酉・甲子の六十年目毎に来る年回りにすべて革命・革令が起こるわけでは無い 君主に徳が無く陰陽の調和が破れると天命が変わり革命が生じるとする
干支が一巡する六十年を一元という 七元の間に三変があり、さらに二十一元を一蔀(ほう)として歴史は循環する》という
その最初の理解者は、聖徳太子でのちに蘇我馬子と共に、国史の編纂に着手し日本の紀元を定めることにした 天皇記・国記を編集された西暦620年より前の辛酉の年は西暦601年(推古天皇九年)である この年から一蔀、つまり千二百六十年遡った年を、日本初代の神武天皇即位の年と決めたわけなのだ
それに依り西暦紀元前660年 つまり日本紀元元年辛酉正月 神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)大和の橿原宮(かしわらのみや)に即位した
諡(おくりな)神武天皇である と決められたのである
この神武紀元が1872年明治5年11月5日太政官布告によって国家紀元とされた
これを太陽暦に直して2月11日を紀元節としたが1260年間が記録も暦もない時代でありその後は月齢で計算した陰暦であったから換算することがはじめから無理な話である 合理性は無い
明治政府が天皇を統治者としてその政権を支えるために強行したと言える 昭和22年紀元節は廃止された ところが昭和42年建国記念日として復活した この時は先に建国記念日ありきで何月何日にするかは建国記念日審議会に委ねた これは今日の主題でないのでこれ以上書かない
話が長くなったがもう少しお付き合いの程を
国民が国の起源を神話の時代に求め古い時代から続く民族であると誇らしく思う事は当たり前であろう 天皇家の方々がその歴史を誇ることも ただ古事記・日本書紀でも神話の時代と伝承の時代と人としての天皇の代を分けている 従って皇統後継の議論に万世一系とか皇紀2665年であるとか性(Y)染色体なんて話は自己矛盾である 日本の古代史については野にある諸賢が色々書いている 中学校での歴史の如く西暦紀元前後から小さなクニの連合が広がり広域クニになり5世紀前後には朝鮮半島にも影響力のある勢力になったようである そこから数えても1600年十分に古い 長い 第25代武烈天皇の代で皇統は絶え第26代継体天皇は別系との説もあるが傍系としておく そこから数えても1500年 時折傍系継承で男系を繋いできた 十分に長い歴史である
また血こそ尊いと強調する方もいるが果たしてそうであろうか 平安から室町時代の人間でもあるまいし戦乱の世、下克上、生き残りを賭けた一揆等を通じて実力主義は定着しているはずだ
その過程を通し踏まれても蹴られても殺されても生まれ継ぎ生継ぐ自分たちの忍耐力・生命力・永続性を天皇家の弥栄に重ねてご信頼し 武力持つものが世を抑えても徳の力だけで存続するあり方を民族の伝統(文化と言っても良い)の体現者として尊敬申し上げているのである 加えて日本の歴史の変わり目に国民に代わり命をかけても我々を庇ってくださる威徳に尊崇を捧げているのである
贔屓の引き倒しは良くない
そこで結論に入ろう
西暦592年蘇我馬子祟峻天皇を暗殺、欽明天皇の皇女が即位され
推古天皇となる 聖徳太子が皇太子となり皇子摂政となる
日本の象徴天皇の始まりである
西暦604年聖徳太子が17条の憲法をお作りになる 成文法の始まりである
17条の憲法と皇子摂政
律令と藤原・九条・近衛による摂政・関白
成敗式目による鎌倉幕府の執権
同じく 室町幕府の執事・管領
同じく 江戸幕府の大老
現代憲法の時代の内閣総理大臣
日本の象徴天皇は1400年の歴史がある
天皇親政 神格化は明治政府の誤りである そのカケラが今も一部残っている
又 天皇不要論はソ連共産党が戦前から狙ってきた所 民族の団結を破壊し日本を自己の支配下に置くために その残像を残している人がいる
日本民族はカリスマ性、求心性、信頼性を象徴天皇に求め政治力、統治力を時々の政権に委ねてきた ここ10数年海外では力による巨大国家が壊れ民族単位に別れ新しい国を再生しようと努力しているがその民族の統合の主体を何に求めるか試行錯誤している
日本では統合の中心が宗教でない(キリスト教・イスラム教・仏教・儒教等)言い換えれば人間中心の心 これが象徴天皇1400年の歴史なのである
男系天皇を無理やり立てるか女性・女系天皇が考えられぬか 是か非か 女性の意見を大いに伺いたいものである
問題は性別ではなく環境と教育の問題の筈である
爺の見解はここを参照して欲しい