今日は「国家の品格」第二章についての大筋と爺の感想です
ここでは藤原氏が「論理」だけでは世界が破綻する理由を四つ挙げて説明します
その1:論理の限界---人間の論理や理性には限界があり理論を通してみてもそれが本質を突いているかどうか分からない そして例証する 藤原氏がアメリカにいた時に大学生の英語があまりに酷いのに驚いた その理由は英語の時間にタイプ(を打つ事を)を習っていたのだと 彼らにとって国語(英語)の時間にタイプを習うのは(高校或いは大学を)卒業後は必ずタイプを打つ そのタイプを国語の時間に教えることは有用である かくして国語の単位に変えてタイプの単位をとっても良いとなり ついにはタイプは打てるが打つべき英語が崩壊したのであると 1970年代の後半になると海軍の新兵の25%が武器の取扱書が読めなくなっていたと そこで基礎基本の教育をやろうと流れが変わった---以上正しい論理を追求しても惨憺たる結果である そしてアメリカの集中学校で株式投資を教える学校が有ること批判します 小学生であればまづ国語、加減乗除、分数、少数を学ぶことが圧倒的に重要で(株を通して)経済や社会を考える必要はない
一寸長くなるけど今いろいろ議論を呼んでいる小学生の英語教育がこの章でも語られているので紹介する 日本でも2002年からゆとり教育で全国9割の小学校で英語を教えているが、この様なことは日本を滅ぼす確実な方法である 公立小学校で英語を教えたら国際人はいなくなる 英語は手段であるから国語を徹底的に固めること 伝えるべき内容が重要なのだ 国語の中でも読書 初等教育は読書、日本の歴史や伝統文化を教え込む 活字文化を復活させ読書文化を復活させる事 遠回りでも国際人を作る良い方である
爺は思う 文化が民衆化すると表現は映像化し生活は行動するというのが歴史の一面でもあります テレビ・ビデオ・漫画は底辺拡大に貢献し旅行は見聞を広めます
(英語教育の例で述べたように)国民に受ける論理は「国際化だから英語」という様なワンステップ(一段式?)の論理であり国民が国を滅ぼしているとも言える
(話は飛ぶが)戦争で人殺しを反省しながら繰り返してきた どの戦争でも当事者双方に「論理」はあった 戦争が紛争解決の最善の手段であるかどうかはいつも的確には判断できない 論理的に得られた結論は磐石ではない
その2:最も重要な事(の多くは)論理で説明できない
論理では説明できないが重要なことは山ほどある この件について1931年オーストリアの数学者クルト・ゲーデルが「不完全性定理」によって証明した この定理は数学にとどまらず哲学にも大きな影響をあたえた
例えば「人を殺してはいけない」と言う事だって論理では説明できない
一方 江戸時代会津藩の藩校日進館では「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」で始まる七か条の掟(おきて)の最後は「ならぬことはならぬものです」と結んでいる 「いけないことはいけない」論理でなく価値観を押し付ける これが重要である
本当に大切な事は親や先生が頭ごなしに押し付ける これが重要である
論理で全て貫くのは欧米思想で、論理で説明できない部分をしっかり教えるのが日本の国柄であり、そこにわが国民の高い道徳の源泉があった
その3:論理には出発点が必要 論理はAならばBという様に展開するがAは仮説であり、この仮説を選ぶのは主にそれを選ぶ人の情緒である 情緒とは論理以前のその人の総合力である であるから最悪は「情緒力がなく論理的な人」だ
その4:論理は長くなりえない 論理が長くなると信頼性が低くなる事を「風が吹くと桶屋が儲かる」を例に確率を当てはめ説明する 一方日常の論理は短く深みに達しない しかもワンステップ、ツーステップの短い論理が好まれはびこる
いじめがあるから「みんな仲良く」でもちっとも減らない そんな事より「卑怯」を徹底的に叩き込むことである
爺の後知恵:あー疲れた 論理で事は決まらないとしたら叩き込むべき大事な事はどうやって決めるのかしら 会津日進館の校則を挙げていたので《儒教・朱子学》による四書五経等が脳裏に浮かぶ しかしこれは徳川幕府の権威の下、武士に始まり教育底辺の広がりと共に百姓町人を含む教育の根幹となった教科過程(カリキュラム)であろう 氏の発言からすると《武士道精神》であろうが国民の品格の根幹に据えるにはやや窮屈ではなかろうか
氏の小学生に対する英語教育批判も確かに日本人が英語を喋れば国際人になれるわけではないがnative speakerによる正しい発音でthank you やtheが発音出来て道案内の一つも気軽に出来れば爺が受けた頃の英語教育より数段の進歩であろう
次は第三章です 自由・平等・民主主義を滅多切りです
ここでは藤原氏が「論理」だけでは世界が破綻する理由を四つ挙げて説明します
その1:論理の限界---人間の論理や理性には限界があり理論を通してみてもそれが本質を突いているかどうか分からない そして例証する 藤原氏がアメリカにいた時に大学生の英語があまりに酷いのに驚いた その理由は英語の時間にタイプ(を打つ事を)を習っていたのだと 彼らにとって国語(英語)の時間にタイプを習うのは(高校或いは大学を)卒業後は必ずタイプを打つ そのタイプを国語の時間に教えることは有用である かくして国語の単位に変えてタイプの単位をとっても良いとなり ついにはタイプは打てるが打つべき英語が崩壊したのであると 1970年代の後半になると海軍の新兵の25%が武器の取扱書が読めなくなっていたと そこで基礎基本の教育をやろうと流れが変わった---以上正しい論理を追求しても惨憺たる結果である そしてアメリカの集中学校で株式投資を教える学校が有ること批判します 小学生であればまづ国語、加減乗除、分数、少数を学ぶことが圧倒的に重要で(株を通して)経済や社会を考える必要はない
一寸長くなるけど今いろいろ議論を呼んでいる小学生の英語教育がこの章でも語られているので紹介する 日本でも2002年からゆとり教育で全国9割の小学校で英語を教えているが、この様なことは日本を滅ぼす確実な方法である 公立小学校で英語を教えたら国際人はいなくなる 英語は手段であるから国語を徹底的に固めること 伝えるべき内容が重要なのだ 国語の中でも読書 初等教育は読書、日本の歴史や伝統文化を教え込む 活字文化を復活させ読書文化を復活させる事 遠回りでも国際人を作る良い方である
爺は思う 文化が民衆化すると表現は映像化し生活は行動するというのが歴史の一面でもあります テレビ・ビデオ・漫画は底辺拡大に貢献し旅行は見聞を広めます
(英語教育の例で述べたように)国民に受ける論理は「国際化だから英語」という様なワンステップ(一段式?)の論理であり国民が国を滅ぼしているとも言える
(話は飛ぶが)戦争で人殺しを反省しながら繰り返してきた どの戦争でも当事者双方に「論理」はあった 戦争が紛争解決の最善の手段であるかどうかはいつも的確には判断できない 論理的に得られた結論は磐石ではない
その2:最も重要な事(の多くは)論理で説明できない
論理では説明できないが重要なことは山ほどある この件について1931年オーストリアの数学者クルト・ゲーデルが「不完全性定理」によって証明した この定理は数学にとどまらず哲学にも大きな影響をあたえた
例えば「人を殺してはいけない」と言う事だって論理では説明できない
一方 江戸時代会津藩の藩校日進館では「年長者の言うことに背いてはなりませぬ」で始まる七か条の掟(おきて)の最後は「ならぬことはならぬものです」と結んでいる 「いけないことはいけない」論理でなく価値観を押し付ける これが重要である
本当に大切な事は親や先生が頭ごなしに押し付ける これが重要である
論理で全て貫くのは欧米思想で、論理で説明できない部分をしっかり教えるのが日本の国柄であり、そこにわが国民の高い道徳の源泉があった
その3:論理には出発点が必要 論理はAならばBという様に展開するがAは仮説であり、この仮説を選ぶのは主にそれを選ぶ人の情緒である 情緒とは論理以前のその人の総合力である であるから最悪は「情緒力がなく論理的な人」だ
その4:論理は長くなりえない 論理が長くなると信頼性が低くなる事を「風が吹くと桶屋が儲かる」を例に確率を当てはめ説明する 一方日常の論理は短く深みに達しない しかもワンステップ、ツーステップの短い論理が好まれはびこる
いじめがあるから「みんな仲良く」でもちっとも減らない そんな事より「卑怯」を徹底的に叩き込むことである
爺の後知恵:あー疲れた 論理で事は決まらないとしたら叩き込むべき大事な事はどうやって決めるのかしら 会津日進館の校則を挙げていたので《儒教・朱子学》による四書五経等が脳裏に浮かぶ しかしこれは徳川幕府の権威の下、武士に始まり教育底辺の広がりと共に百姓町人を含む教育の根幹となった教科過程(カリキュラム)であろう 氏の発言からすると《武士道精神》であろうが国民の品格の根幹に据えるにはやや窮屈ではなかろうか
氏の小学生に対する英語教育批判も確かに日本人が英語を喋れば国際人になれるわけではないがnative speakerによる正しい発音でthank you やtheが発音出来て道案内の一つも気軽に出来れば爺が受けた頃の英語教育より数段の進歩であろう
次は第三章です 自由・平等・民主主義を滅多切りです