天気が良くて暖かだったので皇居の外苑まで行って来ました
往復の電車賃を払ってわざわざ松林のある芝生の上で寝転がったんですが
行くんじゃ無かった
和食屋で食べた鰻が高いだけで不味かったし
山手線で隣の席のピアス男が車内が満員なのに足を組んでて立ってる人に迷惑だから
「足を組むなよ!」って
怒鳴りつけてやったら
「どうもすいません」って謝ってたけど
いつか返り討ちに合うだろうな
気の弱そうなやつだったから言うたんやけど
初めて上京して東京駅に着いた時あまりの大きさと
あまりの人の多さに怖気づいて
自分以外の人間が皆宇宙人に見えてこの先ここでやっていけるだろうかと危惧したけど
山手線で若い奴に説教のできるおっさんなりました
40数年前に大阪から上京した
大阪の阪急沿線の小さな駅から花の東京に出たんだ
実家は未だコンビニも一軒も無い四国の鄙びた過疎の町
東京の住まいはおしゃれな代官山でバイト先の虎の門へは銀座線で通勤した
ふっ!おどろいたね東京のうどんは汁が黒いし
電気屋でまけてくれって店員に言ったら店員が怒るんや
それとお茶の水の駅に初めて行ったら駅前にニタニタ笑うた男が大勢立っていて
皆、キャッチセールスマンで田舎から出て来た田舎者を騙してやろうと狙ってるんだ
こりゃ東京は油断の出来ない所やと正直思うた
夜間の骨接ぎ学校に行ったんだけど
日本中から田舎者のもっさりした連中が集合してたね
あの頃、骨接ぎ学校って世間にあんまし無かったからな
もう生徒が柔道バカばかりで教室中が汗臭いんだ
昼間の職業がおまわりさんが多かった
あと柔道部関係
それに弟子
一つ下の学生で毎日同じジャージで通学している貧乏くさいおっさんがいて
聞いたら昼間はバイトでトラックを運転してるんだと
それから10年後ぐらいかな・・・
偶然、そのおっさんに船橋であったんだけど
BMの850に乗ってた
ハンドルが左だったんで
「高速の料金所どうやって払うんですか?」って聞いたら
「いつも隣は女が乗ってるんでそいつが払うんだよ」
って言うてた
その時は幕下の相撲取りを何人か連れていた
タニマチって奴だな
タニマチ=胡散臭い奴
ハハハ!
これもホネホネ伝説だな
そうそう入学してひと月もしない頃か
同級生で昼間は日大?の柔道部の監督かコーチをやってる人が
何人かの田舎者の若い連中に・・
「知り合いが表参道にスパゲッチィの店を出したから連れて行ってやるよ」
表参道・・
スパゲッチィ・・
田舎者は行って驚いたね
テーブルと椅子が店の外にあって
男の店員が前垂れしていて
雰囲気が外国映画で見たパリのシャンゼリゼかニューヨーク?のティファニーか
新世界の串カツやとえらい違いやな
それに表参道を歩いてる若者の身なりが違うんだ
あの頃からだよ着る服が段々と派手になって来たのは
女の子が数十万出して毛皮のコートを着だした
今、あんなもん着て歩いていたら笑われるけど
もう世の中が派手になってその最先端がその頃の表参道辺り
そうそう
スパゲッチィ
いまのパスタだな
・・
昼にオリーブの丘に行ってこよっと
19歳の時か・・
現場で一つ年上で社員で先輩土方の丸山にいつも虐められていた
「われ!ショウレン、とれっ言うたんが分からんのか!」
「ぼくぅ~ショウレンなんて知りませんもん」
「ショウレン言うたらこの鉄の棒じゃ!」
(そんなん分かるかい)
丸山はなおもひつこく僕を睨みつけて手にはスパナを持って迫って来た
弱虫で気のちっちゃな僕も・・
(やったらあ~)
と睨み返した
そんな時先輩土方の西山さんが間に入って
「まあまあええやないか」
・・と丸山をなだめて納めてくれて
「ひろ造くん今度の土曜の晩、暇か?」と聞くんで
「暇ですよ」と言うと
「わしのアパートに遊びに来ぃへんか?焼き肉食べに連れてったるわ」
「行きます行きますわ」・・
僕は吉野家には入った事があったけれど焼き肉屋には入った事が無かった
と言う事で次の土曜の晩に西山さんのアパートに行った
アパートは環状線の玉造にあって鶴橋の近くだ
西山さんの部屋に入ると
数人の男女の若者が手を合わせてごにょごにょと何や分からんお経をあげていた
僕も座敷に座ると西山さんがおもむろに
「ひろ造くん君なんや悩みがあるやろ?」
「僕ぅ~悩みなんてありませんけど」
「いや!君はなんぞ悩んどる」
「この場で言うてみぃ皆で聞いたるから」
男女の若者の視線が僕に集中した
「いや・・・」
その後の成り行きはすっかり忘れてしまったがいよいよ焼肉屋である
(美味いなぁ~こんな美味いもんが世の中にあったんやな)
僕は焼き肉屋の焼肉に感動した
ふと周りの部屋でお経をあげていた男女を見たらほとんど焼き肉を食べてない
(こんな美味いもんなんで食わへんのやろ?)
ほとんど僕しか焼肉に手を付けてない
後で気が付いたんだが彼らは貧乏でお金が無かったんだ
その後、西山さんが僕を誘う事が無かった
何年か後、大阪に行くたんびに鶴橋によって焼き肉屋で豪遊した
どう言う訳か玉造の駅に差し掛かるたんび胸の奥で・・
(ふん、あほんだら)とつぶやくんだ
今朝もさぶいね
季節はもう秋から冬に
そう言えばこの時期、昔住んでいたアパート近くの西郷山公園から眺める富士山は綺麗だったな
高台の公園から目黒のビル群を見下ろして夕日の赤に富士山が映えていた
学校が夜間だったので公園に行くのは早朝か休みの日
誰もいない早朝の冷えた公園がええんじゃ
昭和57年、好景気が日本を包み込もうとした頃
アパートを出て坂道を上り商業高校を過ぎると右に折れ旧山の手通り通称大使館通りに出る
信号の一角に林があってそっと覗くと芝生の庭で数人の白人の女性がビキニで日光浴をしていた
この時期に
ここはアメリカの航空会社の社宅で仕事合間のスチュワーデスさん達だ
信号を渡りきるとヒルサイドテラス
僕の向かいの部屋に美人の陶芸家の仕事部屋があってその陶芸家の方のお店もあった
休みの日はここでモーニングコーヒーを飲むのが楽しみだった
公園に向かって歩くと島田順子さんのブティック
その先にデンマークやイラク、エジプトなどの大使館があった
今は代官山蔦屋書店がある辺りだろうか旧山の手通りに面して大きな敷地の古い木造アパートがあって
専門学校の花田ともう一人は忘れたが九州出身の二人の同級生が住んでいて
花田が実家から送って来た‘明太子,を大家さんにおすそ分けした
その明太子を大家のお婆さんがアパート前の敷地で七輪で焼いていたんだが
うちわで炭を扇ぐもんだから山の手通りに明太子の焼ける臭いが漂っていた
現在あんな好立地な場所に住んだら家賃をどれだけ取られるだろうか
もうその頃には巷でおしゃれな場所として話題にはなって来ていた
今は航空会社の社宅も古いアパートも無くなり
素晴らしい環境の通りになった
西郷山公園の夕日に富士山の見える景色
ふとたまに思い出すんだよな
寒いせいか今晩は何故か秋刀魚の塩焼きが食べたい
前の家は広かったので庭の七輪で秋刀魚を焼いたんですが
今は狭い台所で焼くと部屋中に臭いがこもってしまいそれにIHだと風情が無いな
・・・
もうすぐ冬ですね
20歳の頃、虎の門の病院で働きながら夜間の専門学校に通っていた
専門学校は渋谷の桜ケ丘の坂の上にあって授業は夜6時からだ
夜間の医療系の学校に通う連中が大勢いたので晩御飯は病院で出た
授業が終わるのが9時半で大部分の学生はまた帰りの電車に乗るんだけど
僕のアパートは学校から徒歩5分の場所だった
渋谷駅から桜ヶ丘の坂道を上った逆方向に道を下りまた坂道を上ると鉢山町と言う地区があり
隣は南平台に猿楽町に代官山、代官山の駅にも近かった
アパートの住所は鉢山町、アパートの玄関に立つと同じ目線の高さに桜ヶ丘のビル群があった
もうその頃の僕は毎晩のように飲み歩いていた
渋谷の繁華街には徒歩7分ぐらいだったけれど友達が一緒の時以外はほとんど行かなかった
もっぱら飲みに行ったのは徒歩10分の中目黒のガード下だ
大使館通りと呼ばれる各国大使館や高級ブティックや外車専門店が店を構える旧山の手通りに出て
また大きな坂道を下ると東急東横線の中目黒の駅に着く
その頃の中目黒の駅はガード下に小さな飲み屋がひしめき合っていた
ガード下に着くのはだいたい夜の10時頃
いつもポケットに2000円を入れて馴染みの店に入る
馴染みはその頃東京では珍しかった大阪の串カツの店だ
愛想のよい御夫婦でやられていてカウンターには食べ放題の新鮮なざく切りのキャベツ
天ぷらネタも新鮮だ
僕はいつも揚げたて熱々のイカに鯵、それに鳥のささ身を頬張りながら
おもむろにキャベツのざく切りをアルミ缶に入ったソースにたっぷり浸してアテにする
もちろん2度漬け禁止だ
しだいにメインのアテは‘タダ,のキャベツに集中する
お酒は熱燗
酩酊した20歳の僕はめいっぱいおっさん化する
二合の熱燗2~3杯飲んで帰るんだけど
これで2000円出しておつりが来た
(アテがタダのキャベツが主だからな)
けっこう頻繁に通ったんだけど
いっこうに僕と数人の関西人の常連さん以外お客が増えないんだ
関西人がそれほど串カツを食べるかと言うとそうでも無くて
ましてや東京で受け容れられなかったんだろうな
串カツ屋は開店1年持たなくてあえなく止めてしまった
常連の客もキャベツばかり食べてる貧乏人ばかりだったし
前回読んだ宇江敏勝さんの自伝的な本
宇江さんは和歌山の炭焼きの家庭に生まれご自分でも高校を卒業後炭焼きをなさっておられた
その後、林業に変わって一年のほとんどを熊野の山奥で仕事に従事するんだが
その時の暮らし自然、仕事出来事をこの本の中で書かれている
飯場はほぼ男だけの世界で余暇と言ったら小博奕か酒
宇江さんの場合は読書もされていたようだけど仕事も手を抜くことが無かった
文の一節に・・・
「仕事をしても他人に引けを取る事など無く、精神的に安定していた
飲むことはいわば慰安であり、酔えばぐっすりと眠って、あくる日は阿修羅のように働くのだ」
阿修羅のように働く!
わしも毎晩酒を飲んで眠るがあくる日は畜生のように怠けるぞ
宇江さんの本の何が良いかと言えば僕のようなひきこもり体質の人間って
人里離れた山奥で出来るだけ他人とかかわらずに生きる生活って憧れるんだよな
だけど宇江さんの本て図書館だけでも20冊以上あって
山の中で貧乏暮らしをしていた割に人生の後半は印税でウハウハしていたりして
関係ない話だけど・・坂本冬美さんと同じ高校なんだ
横田めぐみさんって46年前の今日北朝鮮に拉致されたんだ・・・
日本海の冷たい時期に狭くボロの潜水艦の中に閉じ込められて
心細かっただろう、悲しかっただろう、口惜しかっただろう
人生の一番楽しい時期に
あんな貧乏くさい所に連れていかれて
僕と同世代だから日本の世の中が一番輝いていた時代に
北朝鮮は拉致の事は言わなかったし言えなかった
日本国内でもずっと拉致はありえないと言った政治家連中もいた
拉致が事実だと分かっても
日本政府のできることは遺憾であると言い続けるだけ
めぐみさんだけが日本全体の人身御供にされた
政府も民間も何も出来ないならせめて皆でめぐみさんの事を話そうよ
目を瞑らず口を閉ざさず
秋の夜長に読む本・・
熊野古道周辺の短編今昔物語
古代より歴史があって亡者が住み修験者やお遍路が行き交う土地
堅実で真面目な岩次郎は伝染病で3人の子供を一度に無くし
失意から酒に走り仕事も無くしてしまう
ようやく立ち直り郵便配達になる
配達する場所は魑魅魍魎の住み着く山の中
途中「亡者の辻」と呼ばれる場所があって亡くなった人と出会えると言う
ある日、岩次郎は亡くなった3人の子供をこの山の中で見かける
その他
初めて知ったんだけど‘狸の腹づつみ,と言う言葉があるが
ぽんぽこぽんとか言う音なんだけど
あれって狸が地中の餌を探すのに鼻息で落ち葉をどかす音なんだって
ぽんぽこぽんとか音が鳴るんやろか
映画を見て来た
シニア料金になって初映画鑑賞
がっ!1300円のはずが1900円
案内係りの女性に文句を言ったら
IMAXの追加料金600円が加わってるのでちゃんと割引されてるんですよ
との事
何じゃそりゃ!
まあええか
それにしても本編が始まるまで30分
くだらん宣伝や他の映画の紹介
このせいで映画見に行くの嫌になった
普段から頻尿気味だし
おしっこ堪えながら見たけど・・
まあまあだな
俳優は大河ドラマ出演者ばかりだな
ぼ~と見てたら
銀座でゴジラに向かって大砲打ってる戦車4式中戦車やんか
もうミリタリーマニアにしたらこれだけでも充分満足
駆逐艦雪風に極め付きは震電
ちょっと迫力不足だったけど
しょうが無いよ製作費が製作費なんだから
もう何回もこの映画を繰り返し見ている人ってたぶんミリタリーおたくだな
でもまあまあ良かったよ
膀胱炎になりかかったけど
江戸下町が舞台の人情噺短編六篇
一篇に前世に自分が生まれ育った家を訪ねると言う直木賞作家さんの有名な小説に類似する話が出てくる
たぶんこの手の話は直木賞作家さんのオリジナルじゃ無くて他にも昔からあったんだろう
最終章、隠善資正の娘・・
吟味方同心の隠善資正は16年前18歳の奉公人に乱暴の上妻を殺され
攫われたのか3歳の娘は行方不明になった
その後、後添いを貰い二人の子供を授かった
隠善が仕事絡みに知ったいかがわしい飲み屋に先の妻に顔が似通った娘がいた
その娘の事がどうしても気になり何度か店に通っているうちに
その娘が実の本当の娘だと言う事を確信する
最後はその娘を身請けして自宅に引き取るんだけど
娘が実の娘だと分かった時のやりとりが泣かせるんだ