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著作権栄えて民滅ぶ~「権利者団体」による著作権ファシズムに異議あり~

2005-11-19 23:03:16 | IT・PC・インターネット
 2005年11月11日に開催された文化庁文化審議会著作権分科会・法制問題小委員会(以下「小委員会」という)は、音楽関係7団体がかねてから強く要望していた「iPod課金」について、「現時点で(HDD)内蔵型機器の(私的録音録画補償金制度を適用すべき機器としての)指定を行うことは必ずしも適切ではないと思料する」と結論付け、先送りすることを決定した。しかし一方で、「2007年度中に一定の具体的結論が得られるよう、迅速に行う必要がある」として、この問題に早急に結論を出すよう関係者に求めるものともなった。今年12月には著作権分科会が開催されるが、概ねこの小委員会の報告に沿った結論となる見込みである。

 筆者としてはすでに一度、「コピーガードと著作権問題について」で音楽著作権の問題については触れているが、これを発表してから早くも2年半が経過し、その間の情勢は大きく変わったことから、再度音楽著作権問題のあり方を論じてみることにする。

1.ipodから金を取れ!
 音楽関係7団体が求めているipod課金とは、最近急激に普及しているハードディスクドライブ(HDD)内蔵型音楽録音機器を、MD録音機等と同様、「私的録音録画補償金制度」の適用対象とする制度である。音楽関係7団体とは日本音楽著作権協会(JASRAC)、日本芸能実演家団体協議会(芸団協)、日本レコード協会、日本音楽事業者協会、音楽出版社協会、音楽製作者連盟、音楽作家団体協議会のこと。実際には、社団法人「私的録画補償金管理協会」(SARAH)という団体が録音録画機器・メディアのメーカーから預かった補償金を管理し、その中から一定割合をJASRAC、芸団協、レコード協会の3団体に対して支払うのだ。2005年4月28日に行われた小委員会の第3回会合では、これら関係7団体が、ipodはもとより、パソコンのHDDさえも私的録音録画補償金(以下「補償金」という)の課金対象機器に指定するよう意見書を提出している。

 補償金制度といえば、これまでMDやCD-R等の記録メディアに適用されてきた制度として認識している方がほとんどだろう。MDは全てのメディアで、CD-Rは「音楽用メディア」に限ってこの制度が適用対象となっている。DVDメディアも映像用、PCデータ用に区別されており、映像用のメディアだけに補償金が上乗せされているが、そもそも両者に構造上の差があるわけでもないのだから、補償金の乗らない安いデータ用メディアのほうがいいに決まっているし、映像用・音楽用をPCに、データ用をDVDレコーダーに使い回したところで実用上の不便も生じない。CD-Rメディア、DVDメディアを買う際に、わざわざ用途別に両者を買い分ける人は実際には少ないのではないだろうか。このように、同じ記録媒体を著作物用、それ以外のデータ用に分けて一方だけに補償金を乗せるというやり方は入口からすでに破綻しているように筆者には思えるのである。

 これに加えて、全メディアが補償金の対象となるMDの地盤沈下がipodの登場によって加速度的に進んでおり、2004年にはすでにMDの出荷台数はHDD内蔵型音楽プレーヤーに逆転されてしまっている。本当のことをいうとMDは録音機にも補償金が上乗せされており、ユーザーは機械を買うとき、メディアを買うときと2度も補償金を払う制度になっているのだが、これがipodとなると機械を買うときに補償金は払わなくてよい。だったらメディアに課金すればいいじゃないかと思うかもしれないが、ipodはHDDに直接音楽を記録するのでメディアを必要とせず、したがってメディア課金もできない。なるほど、このように考えると業界側がipod課金にこだわるのもよくわかるというものだ。このままMDが廃れていき、HDD内蔵音楽プレーヤーの時代になるなら業界にとっては死活問題である…などと仮定形で書いてはいるが、実際にはカセットテープの時代はとうに終わり、MDからHDD内蔵型音楽プレーヤーへの移行の流れももはや押しとどめることはできない。なんとかしたいところだろう。

 このような思惑から、業界が持ち出してきたのがipod課金というわけなのだが、どうやらやり方が拙速すぎたようだ。

2.補償金制度の矛盾を象徴する「事件」

 小委員会で議論が進んでいる頃、いかにも補償金制度の矛盾を象徴するような「事件」が起きた。2005年6月、映像用DVD-Rに自分の家族のビデオ映像を記録したあるユーザーが「家族のビデオ動画を記録したのだから著作権者の権利を侵害しておらず、従って自分は補償金の返還を受ける権利がある」として、補償金の返還を要求する文書をSARAH宛てに送付したのだ。

 補償金の額は、メディアの実勢価格(カタログ売価の6割程度)の1%とされている。このユーザーの場合も返還請求したメディアは5枚に過ぎず、返還額はたったの8円という。返還を請求する文書をSARAHに郵送するためにこのユーザーは80円切手を使っていたというから損得勘定だけでいえば足が出てしまうが、この方にとってみれば、そうまでしてでも補償金返還請求に踏み切らなければ収まらないほどの不満があったのだろうし、補償金制度の矛盾を世に問おうという大義もあったのだろう。いずれにせよ損得勘定ではなく大義のために行動するとはなかなか漢らしいユーザーだと感心させられる。この申請に対し、SARAHは「DVD-Rメディアの場合、前のデータを消去して新たなデータを書き込むことができないので、家族の動画を記録しているとすればそれ以外の用途でDVD-Rメディアが使われた可能性はなく、申請は信用できる」と判断してこのユーザー名義の口座に8円を振り込んだという。

 補償金制度創設以来、返還請求による返還はこれが初めてとのことである。SARAHとしては、「元本割れ」の返還請求であり、追随の動きは出ないとの判断もあったと思うのだが、一方でSARAH関係者は、「何千回、何万回も書き換えができるDVD-RWやDVD-RAMの場合、何をもって私的複製に使われないと判断するか難しい」と率直な心情を吐露している。

 著作権者の権利を守るために創設された補償金制度は、いま見てきたように運用面において限界に達しているというべきだろう。ましてやHDD内蔵音楽プレーヤーやパソコンのHDDに課金するなど論外である。実際には全てのパソコンユーザーが音楽や動画をHDDに記録するわけではなく、この方のように自作データの記録のみに記録媒体を使う人だって多いにもかかわらず、およそデータを記録できる機器には全て課金ということになりかねないからだ。

 今回の事件はDVDメディアだったからこの程度で済んだものの、これがipodなどの機器類となれば、文書郵送料と天秤にかけてでも補償金を取り戻した方が得だということになり、怒れるユーザーからの返還請求書がSARAH事務局の机の上に山と積まれる事態になりかねない。

 こんなばかげた事態が現実になりかねないipod課金の要求を、小委員会が認めなかったのは当然である。音楽業界は、いい加減「自分たちが栄えさえすればそれでいい」と言わんばかりの、エゴむき出しの要求はやめてはどうか。

3.消費者の立場から~買った後には使う自由を!

 そもそも物を買うということはその物に関する所有権、独占使用権を手に入れるというのに等しい。所有権を手に入れれば、あとはそれをどう使おうが所有者の自由だというのがビジネスの鉄則であり、私的所有を認める資本主義経済の原則であると思うのだが、著作物は、公共的サービスなどを除けばその原則が当てはまらないほとんど唯一の例外だろう。購入後もコピーはするな、貸すな、譲渡するな、他の機器に移動させて外に持ち出すなと実にやかましい。

 いい加減にしてくれよ、というのが筆者の思いである。著作物には著作者の生活がかかっているのだから、というのは理解できる。しかし、例えば料理研究家がテレビ番組で自分が発明した料理のレシピを紹介したとしよう。このとき、視聴者がそのレシピを真似てその料理を作ったとしても、料理研究家には著作権料などビタ一文入らないのである。テレビの出演料くらいはもらえるだろうが、それならアーティストだってもらっており、アーティストにはそれに加えて著作権料という別の収入が加わるのである。なぜアーティストだけなのか、考えてみると不思議な話ではないか。

 それに、その料理研究家のレシピに習って作った料理を食品メーカーが商品にしたとして、それを買った後は買った人の自由にできる。どこかの国の強欲な音楽業界のように「自分で食べる以外の目的(例えば他人に食べさせるなど)に使用する場合には追加費用を払え」などという話も聞かない。ますますおかしいという思いが募る。

 詳しい内容は筆者も思い出せないが、アメリカには、音楽などの著作権商品を買った消費者は、ある程度の範囲内(同一家庭内?)でコピー含め、自由にそれを使って良い、とする内容の「フェア・ユース法」があるそうだ。フェア・ユースとは直訳すれば「公正使用」という意味であり、日本的に言えば「著作物の公正な使用に関する法律」という題名にでもなるだろうか。日本でもそろそろこの手の法律を制定すべき時期に来ているのかもしれない。

 もしそれで著作権者が生活に困る事態になるようであれば、購入時の価格を彼らの生活を維持できる水準に引き上げればよいのだ。「このCDを死ぬまで自由に使う権利をあなたに与えますので、その代償として10,000円ください」という制度を作るのである。その代わり、消費者のためにもアーティストのためにもならない再販制度(制作物価格維持制度)は廃止し、市場原理に委ねるのだ。そうすれば、良い物は売れて値段が高くなり(あるいは価格高騰を押さえるために追加生産され)、売れない物は余って安くなる。ユーザーは付けられた価格を見て買いたいと思うなら買えばいいし、それが高いと思うなら買わなければいいだけの話である。これらの制度を導入してもなお生活に困る著作権者が出るとしたら、その人は所詮その程度だったのであり、諦めもつくだろう。

4.アーティストの立場から~そもそも著作権は誰のものか

 そもそもわれわれユーザーはなぜ音楽CDや映像DVDを買うのか? 音楽を聴きたいから、映像を見たいから買うのであり、メディアという物理的な媒体をコースターやカラスよけにするために金を出して購入しているわけではない。

 言い換えればわれわれは、好きな作曲家が作った音楽、好きな歌手が歌っている曲、好きな監督が撮影し、見たい俳優が出演している映画…等々に対して金を払い、購入する。「原著作者」はこれら作曲家、歌手、俳優、監督たち(以下まとめて彼らをアーティストという)なのである。「原著作者」などという言葉をわざわざ使わなくても、アーティストこそ著作権者であり、JASRAC、芸団協、レコード協会、SARAH等の団体は彼らの「代理人」に過ぎないということが解る。

 彼らが得ている「著作権料」もアーティストが稼ぎ出しているものだ。アーティストたちがある日突然「私たち、今日からもう作りません/歌いません/演じません」と「スト突入」宣言したらどうなるだろうか。彼らが作らず、歌わず、演じもしないとしたら、「代理人」たちの収入の道も絶たれてしまう。かといって代理人たちには、彼ら彼女らアーティストに代わって収入を作り出す能力はないから野垂れ死にである。これが一般企業なら、組合員がストをすれば、管理職がある程度その仕事を代替し、100%とは行かないまでも10%の生産を維持することはできるかもしれないが、芸能界はそうは行かない。高度な専門性・個性・独創性を持った仕事になればなるほど、管理者/代理人がそれを代替できる可能性はそれだけ低くなるのである。

 芸能界のこの構造を天下に知らしめたのが、2004年夏に起きた「歌姫」こと浜崎あゆみさんのエイベックス離脱騒動である。彼女の育ての親であるエイベックス専務が辞任したのに伴い、浜崎さんが「彼のいないエイベックスはエイベックスではない」として離脱を表明した事件で、ご記憶の方も多いだろう。浜崎さんの離脱発表で、エイベックス社は株価が一時暴落するなどの非常事態になった。結局、最後はいったん辞任した専務を呼び戻すことによって浜崎さんの移籍は中止となったが、ファンからの絶大な支持を得ているアーティストとはいえ、人間としては当時、弱冠25歳に過ぎなかった女性の動向が会社の運命を左右するほどの騒動を引き起こしたのである。

 いかに芸能界が「代替の利かない世界」であるかをよく示してくれた事件である。レコード会社や映像配給会社の利益もまたコンテンツがあってこそ初めて生まれる。アーティストが「スト宣言」をしたら、レコード会社が歌詞を書き、曲を書き、歌うことは不可能なのだから彼らもやはり倒れてしまうのである。

 とはいえ、これらレコード会社・映像配給会社が「代理人」たちと違う点もある。これら企業が録音・録画のための設備、機材を提供し、録音・録画後はそれらのコンテンツをCD・DVDなどの媒体に記録し、あるいはネット配信を通じて世に送り出すなどの形で著作物の制作・販売に協力している点である。アーティストあっての業界とはいえ、これらの企業の協力がなければ著作物を制作し、世に送ることができないこともまた事実であり、従ってこれら企業が著作権料の一部を得る権利があるという主張には筆者も同意する。

 JASRAC・芸団協・レコード協会などの団体が何を根拠に著作権料を得るのかに戻るが、彼らにもこれらレコード会社・映像配給会社の連合体として、これらの企業の利益を代表しているからだという主張はあるだろう。ただ、代理人とはあくまでも本人あっての代理人であり、彼らが代理をすることが直接間接にアーティスト本人に福利をもたらすような代理の仕方でなければならない。

 そう考えるなら、今のやり方がとてもアーティストのためになっているとは思えないのだ。ユーザーが負担した補償金が、電機メーカー・メディア製造メーカーからSARAHに集められることは前述したとおりだが、文化庁作成の資料によれば、SARAHが自分の取り分を引いた後、著作権の啓発・普及などの「共通目的事業」用に20%を充て、残りの8割をJASRAC36%、芸団協・レコード協会が32%ずつの割合で分配するという。アーティスト個人に渡る額はさらにこのうちの一部なのだから、数%の可能性もある。コンテンツを作り出しているのがアーティストだという観点に立てば、あまりにもこの比率は少ないように思われるし、コンテンツの制作・販売に直接協力し、彼らも「共同制作者」の一部と考えられるレコード会社の連合体…レコード協会の取り分が、制作活動に直接従事しないJASRACの取り分より少ないというのも納得が行かないのである。

5.結論~代理人の権限縮小・スリム化のための「構造改革」を

 どうやら真相にだいぶ近づいてきたように思う。これらの考察を通じ見えてきたことは、代理人に過ぎない「権利者団体」がアーティスト本人のためだと言いながら、実際には自分たちにとって利益が最大になるように行動しているのではないかということである。もっと端的に言えば、「権利者団体」が消費者・アーティストに寄生し、その双方を食い物にすることで自らの利益を最大にしているのではないかということだ。

 しかし、考えてみれば、このような例は彼らに限ったことではなく、枚挙にいとまがない。国民のためだと言いながら私利私欲に走る「国民の代表」や公僕たち。弱者のためだと言いながら弱者を食い物にする「自称社会福祉団体」。そして、被後見人のためだと言いながら、被後見人が判断能力がないのをいいことに自己の利益を図る後見人…似たような例は古今東西の歴史からいくらでもひもとくことができる。全ては自分の役割を忘れた結果である。しかし、「過去にもあったことなのだから仕方ない」で済ませることはできない。諦めは何の成果も生まないからだ。現状がおかしいと思うなら声を挙げなければ何も始まらない。

 「権力のあるところに情報も必然的に集まるからわれわれは官公庁や企業を取材するのだ」とマスコミ関係者が言うのを筆者は聞いたことがある。それは一面では事実ではあるが、本来は順序が逆であって、情報や資金を多く集めた者が支配権を持つようになり、それが権力に転化すると言った方が正しいであろう。誰かに自分の代理を依頼する者は、自分にその能力がないから代理人を立てるのである(違う言い方をすれば、自分より能力の劣る者に自分のやるべきことを代わって実行させるくらいなら、自分がやったほうが早いのだから誰もそんな人間を代理人に立てたりなどしない)。だから代理人は依頼者より高い能力を持つのが普通であり、それがより多くの情報・資金を持つようになったとき、本人に対する権力に転化する。もともと社会というのは代理人が権力に転化しやすい構造になっている、と言っていいだろう。だからこそ代理人たる者は常に自らの役割を忘れることなく、本人のことを第一に考える謙虚さを持たなければならないのである。

 「権利者団体」も同じである。筆者は権利者団体という表現はそもそも間違いであり、権利者の代理組織と書くべきだと思っている。しかもこれら「権利者団体」は社団法人、つまり公益法人である。公益法人は公共の福祉のために働くべきであり、それが実行されないのであれば「構造改革」が必要である。仕事量には関係なく、役所・管理組織は限りなく肥大し続けるという「パーキンソンの法則」もよく知られている。消費者・アーティストが多額のコストを払わされている原因が権利者団体の肥大化にあるのなら、思い切ったスリム化・整理も必要である。

 音楽業界を初めとするコンテンツ業界がこのまま消費者不在の方針をとり続けるなら、残る道は「ジリ貧」しかないだろう。最近、オリコン等のチャートを見ていると、1位の曲でも2万枚とか3万枚しか売れていない時があり、驚かされる。1位が3万枚なら10位まで全部合計しても30万枚に満たないのだから深刻な数字である。一方で、報道によれば日本初の本格的な音楽ダウンロードサービスである「iTunesミュージックストア」がわずか4日間で100万曲のダウンロードを記録したという。これらの数字が何を語っているかもはや言うまでもない。音楽が聴かれなくなったわけではなく、良い曲が作られなくなったわけでもないのにCDの売り上げだけが不振なのは「音楽業界へ静かに抗議するための不買運動」か、そうでないとしても「CDなどの物理的記録媒体から、それらを介さないオンラインダウンロードサービスへと変化する市場ニーズに対応しきれず、時代遅れのCD媒体にこだわり続けた」業界へのしっぺ返しの可能性が高いということである。ジリ貧はもはや可能性ではなく現実になり始めているのだ。

 音楽業界を初めとする著作権管理団体は、これまでその実像が明らかになったことがなく、それだけにこれまで外部から批判を受けることがほとんどなかったように思う。この拙文は、もしかすると自称「権利者団体」に対する初めての本格的な批判になるかもしれない。該当者、関係者にとっては耳の痛い話もあるかもしれないが、ipod課金も自分たちのことしか考えていない制度だからうまくいかないのである。ここはひとつ筆者の拙い批判の声にぜひ耳を傾けていただきたいと思う。
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<関連サイト>本稿執筆に際し、以下のサイトを参考にしました。
私的録画補償金、初の返還額は8円

私的録音・録画補償金制度では誰も幸せになれない

「特集:私的複製はどこへいく?~対談 小寺信良×津田大介(2)――音楽ファンとレコード会社の“思い”は、なぜすれ違うのか

補償金制度廃止論にまつわる明と暗

人はなぜ音楽を買うのか

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