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大黒摩季、6年ぶり活動再開へ

2016-06-20 21:27:17 | 芸能・スポーツ
大黒摩季6年ぶりに活動再開…手術で子宮腺筋症完治(スポーツ報知)

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 子宮疾患の治療のため活動休止中だったシンガー・ソングライターの大黒摩季(46)が、6年ぶりに歌手活動を再開させることが19日、分かった。5年にわたる投薬治療と手術の結果、子宮腺筋症が完治したため復帰を決意。原点回帰の思いが強く、8月に故郷の北海道で復活ライブを行う。

 大黒は2010年11月から子宮疾患と不妊治療のため、歌手活動を休止して投薬などを続けてきたが、昨年11月の手術で子宮腺筋症が完治したのを受け、満を持して復帰を決断した。

 約6年ぶりの歌手活動再開に決意のコメントを寄せた。「現役時代の自分がどんなだったのかも忘れてしまう程に離れた世界故、焦らずゆっくりと。再び歌える喜びをかみ締めながら一歩一歩、着実に、新たな大黒摩季を創っていきたい」。妊活は継続するが、一時中断して音楽を最優先に進んでいく。「私が音の世界に戻ることで、心の過労がルーティーンになってしまっている同年代はもちろん、思うように生ききれない殺伐とした世の中の体温が、1℃でも上がってくれたら最高です」と熱いパフォーマンスを約束した。

 昨年の手術後から、リハビリと並行してボイストレーニング、体力づくりなど復帰に向けた準備を開始。発売は未定だが、精力的に制作活動に取り組み、新曲のレコーディングも始めている。長年酷使してきた声帯も休養中に回復し、歌声を聴いたレコード会社関係者は「全盛期の歌声だね」と太鼓判を押すほど。一番の魅力だったハイトーン・ボイスもよみがえった。

 原点回帰として、92年のデビュー時から99年まで在籍したレコード会社「ビーイング」とタッグを組み、地元の北海道から復活の第一歩を踏み出す。8月11日にファンクラブ限定ライブ(札幌・ベッシーホール)、同13日にはライジングサン・ロック・フェスティバル(石狩湾新港樽川ふ頭)に出演する。大黒は「幼い子供が立ち上がり、歩き始めた―、それくらいの心もとない境地ながら、ファンの皆さんとのいとしく熱いライブを描くとじっとしてもいられない」と心待ちの様子。「故郷の温かい懐に抱かれながら、この胸が張り裂けんばかりに蓄電したロックエネルギーを大放出し、思う存分大きな音と戯れて熱いスタートを切りたい」と気合を込めた。

 ◆大黒 摩季(おおぐろ・まき)1969年12月31日、札幌市生まれ。46歳。92年に「STOP MOTION」でデビュー。同年「DA・KA・RA」が110万枚のセールスを記録。「あなただけ見つめてる」「夏が来る」「ら・ら・ら」などヒット曲多数。03年11月に一般男性と結婚。活動休止中は新人アーティスト育成や北海道・長沼中学校の新校歌「希望の丘」を寄贈した。
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長年の大黒摩季ファンを公言してきた当ブログ管理人にとって、これはかなり嬉しいニュースだ。場合によっては今年一番嬉しいニュースかもしれない。病気で仕方ないとはいえ、無期限活動休止から6年を過ぎ、そろそろ復帰は無理かな……と思い始めた矢先だった。

驚いたのは、復帰がビーイングからだということ。ビーイングは大黒摩季にとって、自分の才能を見いだしてくれた恩義あるレコード会社である一方、初期にはバックコーラスばかりでなかなかデビューさせてもらえなかった。しびれを切らした大黒摩季が、「STOP MOTION」の録音テープを置き土産に、米国に飛んでしまったこともあるほどだ(ちなみに、このときの録音テープを大黒摩季の米国滞在中に聴いた社長が、大黒摩季を呼び戻したことが、後にデビューにつながる)。

会社の方針で、メディア露出はダメ、ジャケットの顔写真に正面からのものはないなど、制約も多かった。90年代後期に「充電期間」を置いた後は東芝EMIに移籍、ビーイングを離れた。そのような経緯をたどっているだけに、ビーイングからの復帰というのはかなりの「サプライズ」と言えよう。

『長年酷使してきた声帯も休養中に回復し、歌声を聴いたレコード会社関係者は「全盛期の歌声だね」と太鼓判を押すほど。一番の魅力だったハイトーン・ボイスもよみがえった』とは、にわかには信じがたいが、これが事実なら、かなり期待できると思う。

メディア露出がほとんどないため、「作詞作曲担当、ビジュアル担当、歌担当と大黒摩季は3人いる」などという都市伝説が流れた時期もあった。それだけに、1997年8月1日、レインボースクエア有明で行われた初の野外ライブに参加したときの興奮と感動は、20年近く経った今も忘れることができない。ライブ中盤に入った夜8時、「ミュージックステーション」の生中継が入った。「大黒摩季って、ホントにいたんだね~」と驚いたように言う司会のタモリの姿が有明のスクリーンに映し出され、会場がどっと沸いたのを覚えている。今はビックサイトなどの建物が建ち並ぶ有明地区が、開発途上でまだ更地に近かった、今からは考えられない時代だった。

ちなみに、当ブログ管理人は九州の地元で就職4年目の年だった。この有明ライブのためだけに、九州から上京した。進学でも就職でも地元を出たことがなかった私が、生まれて初めて東京を訪れたのがこの有明ライブの時だった。どうしても乗ってみたかった、九州初東京行きの寝台特急に初めて乗ったのもこのとき。そういう意味では、今も思い出がたくさん詰まった忘れられないライブだった(このときはまだ、半年後に自分が転勤で横浜勤務になるなんて、まったく思っていなかった)。有明ライブが終わってすぐ、私は大黒摩季ファンクラブの会員になった。ファンクラブなるものに籍を置くのも、これが初めての体験だった。

「充電期間」を終え、東芝EMIに移籍した後の大黒摩季は、ビーイング時代からは想像もできないほど露出も増え、ファンにとってはそれまでの「神秘的な存在」から「身近なロックアーティスト」に姿を変えた。だが、それと引き替えるように声量は下がり、迷走が始まった。2000年代終わり、無期限休業に入る直前には、過去の自分の楽曲さえキーを下げなければ歌えないほどで、ファンを続けるのが最もつらい時期だった。アルバムが出るたびに、ファンを続けていけるか、何度も自信を失いかけた。当ブログの過去ログにも、かなり辛辣なことを書いている時期がある。

無期限活動休止に入った後、私はいつしか1年1回更新のファンクラブも更新せず、自然退会するままに任せてしまった。90年代終わりの「充電期間」にもやめたいと思わなかったファンクラブを辞めてしまうほど、大黒摩季から心が離れた時期もあることを、正直に告白しなければならないだろう。

大黒摩季をはじめビーイングの黄金時代だった90年代はまた、日本の音楽シーンの黄金時代でもあった。小室哲哉にけん引され、ミリオンセラーが次々と飛び出し、CDが飛ぶように売れた時代だった。だが、大黒摩季が活動休止に入る頃、様相は一変し、CD売上は冬の時代に入っていた。大黒摩季が抜けてしまった「穴」を埋める存在は、芸能界・音楽界に見当たらなかった。2010年代の日本の音楽シーンには「歌手」はいても「アーティスト」は不在だった。

大黒摩季が活動休止してから、私は音楽自体を聴かなくなり、次第に身の回りの生活から音楽が消えていった。車を運転しながら聴くFMラジオも、せっかくの高音質がもったいなく思うほど情報番組ばかりになり、音楽番組は激減した(ややもすると、音質の良くないAMラジオのほうがよく音楽を流している)。印象にも記憶にも残らない「J-POP」ばかりの日本の音楽シーンに、もし今、大黒摩季がいてくれたら……と思ったことは、この間、一度や二度ではなかった。その思いは、無期限活動休止から時間が経てば経つほど強まっていった。その意味では、私もまた心の奥底で、大黒摩季が帰ってくるのを待っていたのだと思う。

帰るべき場所があり、ファンがいつまでも待ってくれている。その場所に、病気を完治させ、満を持して帰る。これ以上の幸せはないと思う。復帰のパートナーにビーイングを選んだのも、何となく感覚的に理解できる。大黒摩季にとって、過去に色々あったとしても、帰るべき場所であるとともに、自分の最もよき理解者。きっと、明るい未来が待っていそうな気がする。とりあえず、8月13日の「RISING SUN ROCK FESTIVAL 2016 in EZO」には参加したいと思う。

ファンクラブにも、おそらく復帰することになるだろう。ただ、無期限活動休止の6年間にも、大黒摩季を見捨てず、我慢してずっと待っていたファンのみなさん、ファンクラブに留まって復帰を信じて待っていたファンのみなさんからすると、私は「落伍者」だし、「最も苦しいときに支えてあげなくて、何がファンなのか」という人がもしいたら、その咎めは甘んじて受けるしかないと思っている。でも、こうして復帰のニュースを聞くと、やっぱり戻りたい。会場が一体となって、ひとつの家族のようだったあの「輪」の中に、戻りたくて戻りたくて仕方なくなってきたのだ。こんな私を、ファンとして、再び迎えてくれるなら、大黒摩季と同じように「原点」に戻って、また1からやり直す道を私に与えてほしいと思っている。

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