チャスラフスカさん死去=「体操の名花」、金7個―74歳(時事)
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【ロンドン時事】1964年東京、68年メキシコ五輪の体操女子で計7個の金メダルを獲得したベラ・チャスラフスカさんが死去したことが31日、分かった。74歳。膵臓(すいぞう)がんを患って長く闘病し、チェコ・オリンピック委員会によると、30日に出身地プラハの病院で亡くなった。
チェコスロバキア(当時)代表として東京五輪では個人総合、平均台、跳馬で金メダル。メキシコ五輪では個人総合連覇を果たし、跳馬と段違い平行棒、ゆかでも優勝。その優美な演技は日本でも人気があり、「五輪の名花」「体操の名花」と称賛された。
女子の体操が技の難度を競うようになる前、美しさで観客を魅了した時代を象徴する選手だった。
68年に民主化運動「プラハの春」を支持し、メキシコ五輪後も反体制の姿勢を崩さなかったため、政府の監視下に置かれて不遇な時期も過ごした。89年の共産党政権崩壊後はチェコ・オリンピック委員会会長などを務め、同国のスポーツ発展に尽力した。
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旧チェコスロバキアの体操選手で、1964年東京五輪の体操競技で金メダルを獲得したベラ・チャスラフスカさんがチェコの首都プラハの病院で死去した。経歴は時事通信の記事にあるとおりで、「東京の恋人」と呼ばれたことでも知られる。
ところで、当ブログとしては、チャスラフスカさんと、旧チェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」との関わりについて、メディアと違った視点で、やや詳しく触れておきたい。
「プラハの春」とは、チェコスロバキアで1968年に起きた民主化要求運動である。当時はチェコスロバキア共産党による一党独裁の社会主義体制。アントニー・ノヴォトニー共産党第1書記による硬直した政権運営が続いていた。だが、政治・経済の改革の必要性を痛感していたアレクサンドル・ドプチェク党書記がノヴォトニーを追い落とし、みずから共産党第1書記に就任。党・政府・国民一体となった民主化改革が始まる。
この民主化改革のスローガンは「人間の顔をした社会主義」という刺激的なもので、そこには、それまでの自分たちの社会主義体制が「人間の顔をしていなかった」ことへの反省の意味が込められていたことは言うまでもない。
やがて、「プラハの春」の嵐の中で、知識人らがチェコスロバキア共産党指導部の腐敗・変質を告発する、有名な「二千語宣言」を発表する。その内容は次のようなものであった。
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初めのうち、人々の大きな信頼を享受した共産党は、次第にその信頼を捨てて、代わりに役職を手に入れ、ついにすべての役職を手中に収めて、それ以外は、何も、もはや持たなくなった。指導部の誤った路線のために、党は政党から、そしてイデオロギーによって貫かれた同盟から権力機構へと変化し、それは、出世欲の強い利己主義者、嫉妬深い卑怯者、恥知らずの人々にとってこの上ない魅力となった。
多くの労働者が、自分たちが支配していると考えている間に、特別に育成された党及び国家機構の職員の階層が労働者の名において支配していた。彼らは、打倒された階級〔当ブログ管理人注=資本家階級〕に事実上取って代わり、みずから新しい権力となった。もちろん、公平に言っておくが、彼らの中の多くの人々はこのことに気がついていた。しかし、党職員の大部分は改革に反対しており、依然として幅をきかせているのだ!
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この「二千語宣言」は、人々を資本主義による苦しみから「解放」したはずだった共産党が、社会主義の仮面をかぶった官僚(ノーメンクラトゥーラ)たちに乗っ取られ、次第に「労働者階級の党」ではなくなっていく様子を見事に批判、告発している。チャスラフスカさんは、この宣言に「署名」し、その後も「宣言」支持を撤回しなかったため、社会主義体制が崩壊するまでの間、「反体制知識人」として不遇の時代を過ごしたのである。
「プラハの春」のその後について述べておくと、結果として、ソ連はこの改革を認めなかった。レオニード・ブレジネフ・ソ連共産党書記長は「ブレジネフ・ドクトリン」を根拠に、当時、ソ連と東ヨーロッパの社会主義国家によって構成されていた「ワルシャワ条約機構」軍をチェコスロバキアに送り込み、ドプチェク第1書記を拘束。モスクワに「連行」し、改革をあきらめるよう迫ったのである。
ドプチェクは、改革路線を放棄することを条件に、党第1書記留任をソ連に認められたが、この「事件」ですっかりやる気を失い、数年後、第1書記を辞任する。プラハの春がもろくも散った瞬間だった。
ソ連がこのときワルシャワ条約機構軍派遣の根拠にした「ブレジネフ・ドクトリン」とは、「社会主義共同体の利益は社会主義各国個別の利益に優先すべきである」とするものだ。難しい表現だが、平たく言えば「東ヨーロッパの社会主義国家はおとなしくソ連の言うことを聞け」という意味だった。
それから半世紀近く経ち、東ヨーロッパの社会主義国家群も、いやそれどころか「本家本元」のソ連さえ地図から消えてしまった現在--歴史の後知恵と言われればそれまでだが--、ドプチェクが始めた改革と、チャスラフスカが署名した二千語宣言が正しかったかどうかについて、私たちは容易に答えを出すことができる。あのとき、ワルシャワ条約機構軍を送る決定をしたソ連自身が、1985年に登場したミハイル・ゴルバチョフにより「ペレストロイカ」(ロシア語で刷新を意味する改革)を始めたことを考えると、完全に正しかったのである。
歴史に「もし」は許されないが、もし「人間の顔をした社会主義」への改革の試みが成功していたら、その後の世界はまったく違ったものになったであろう。真の意味での民主主義(※)を獲得した社会主義は、ろくでもない人物しか立候補も当選もできない西側的「自由」選挙と資本主義を乗り越え、人類の理想に一歩も二歩も近づくことができたはずである。この改革を否定し、プラハの春をソ連が戦車で押しつぶしたとき、社会主義の敗北は決まったのである。
(※)ここで言う「真の意味での民主主義」とは、資本家階級を排除し、労働者階級だけに立候補資格を制限しつつ、共産党・労働者党員以外にも幅広く立候補を認める複数選挙制である。中国共産党による「革命」直後のごく短期間、中国で実際に採用されていたことがある。概念としては「人民民主主義」に近い。
ちなみに--間違いである場合は指摘していただきたいが--、独裁体制の国で、多くの市民を巻き込む大規模な民主化運動が起きたとき、それが起きた場所の地名を冠して「○○の春」という呼び方がされたのは、当ブログの知る限り、このプラハの春が歴史上最初と思われる。その後、2010年~2011年にかけての「アラブの春」など、この表現は民主化運動を表すものとしてすっかり定着したが、一方、「○○の春」と呼ばれた民主化運動で、その後、本当に春が訪れたケースはほとんどないということも、当ブログとしては忘れずに指摘しておかなければならない。
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【ロンドン時事】1964年東京、68年メキシコ五輪の体操女子で計7個の金メダルを獲得したベラ・チャスラフスカさんが死去したことが31日、分かった。74歳。膵臓(すいぞう)がんを患って長く闘病し、チェコ・オリンピック委員会によると、30日に出身地プラハの病院で亡くなった。
チェコスロバキア(当時)代表として東京五輪では個人総合、平均台、跳馬で金メダル。メキシコ五輪では個人総合連覇を果たし、跳馬と段違い平行棒、ゆかでも優勝。その優美な演技は日本でも人気があり、「五輪の名花」「体操の名花」と称賛された。
女子の体操が技の難度を競うようになる前、美しさで観客を魅了した時代を象徴する選手だった。
68年に民主化運動「プラハの春」を支持し、メキシコ五輪後も反体制の姿勢を崩さなかったため、政府の監視下に置かれて不遇な時期も過ごした。89年の共産党政権崩壊後はチェコ・オリンピック委員会会長などを務め、同国のスポーツ発展に尽力した。
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旧チェコスロバキアの体操選手で、1964年東京五輪の体操競技で金メダルを獲得したベラ・チャスラフスカさんがチェコの首都プラハの病院で死去した。経歴は時事通信の記事にあるとおりで、「東京の恋人」と呼ばれたことでも知られる。
ところで、当ブログとしては、チャスラフスカさんと、旧チェコスロバキアの民主化運動「プラハの春」との関わりについて、メディアと違った視点で、やや詳しく触れておきたい。
「プラハの春」とは、チェコスロバキアで1968年に起きた民主化要求運動である。当時はチェコスロバキア共産党による一党独裁の社会主義体制。アントニー・ノヴォトニー共産党第1書記による硬直した政権運営が続いていた。だが、政治・経済の改革の必要性を痛感していたアレクサンドル・ドプチェク党書記がノヴォトニーを追い落とし、みずから共産党第1書記に就任。党・政府・国民一体となった民主化改革が始まる。
この民主化改革のスローガンは「人間の顔をした社会主義」という刺激的なもので、そこには、それまでの自分たちの社会主義体制が「人間の顔をしていなかった」ことへの反省の意味が込められていたことは言うまでもない。
やがて、「プラハの春」の嵐の中で、知識人らがチェコスロバキア共産党指導部の腐敗・変質を告発する、有名な「二千語宣言」を発表する。その内容は次のようなものであった。
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初めのうち、人々の大きな信頼を享受した共産党は、次第にその信頼を捨てて、代わりに役職を手に入れ、ついにすべての役職を手中に収めて、それ以外は、何も、もはや持たなくなった。指導部の誤った路線のために、党は政党から、そしてイデオロギーによって貫かれた同盟から権力機構へと変化し、それは、出世欲の強い利己主義者、嫉妬深い卑怯者、恥知らずの人々にとってこの上ない魅力となった。
多くの労働者が、自分たちが支配していると考えている間に、特別に育成された党及び国家機構の職員の階層が労働者の名において支配していた。彼らは、打倒された階級〔当ブログ管理人注=資本家階級〕に事実上取って代わり、みずから新しい権力となった。もちろん、公平に言っておくが、彼らの中の多くの人々はこのことに気がついていた。しかし、党職員の大部分は改革に反対しており、依然として幅をきかせているのだ!
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この「二千語宣言」は、人々を資本主義による苦しみから「解放」したはずだった共産党が、社会主義の仮面をかぶった官僚(ノーメンクラトゥーラ)たちに乗っ取られ、次第に「労働者階級の党」ではなくなっていく様子を見事に批判、告発している。チャスラフスカさんは、この宣言に「署名」し、その後も「宣言」支持を撤回しなかったため、社会主義体制が崩壊するまでの間、「反体制知識人」として不遇の時代を過ごしたのである。
「プラハの春」のその後について述べておくと、結果として、ソ連はこの改革を認めなかった。レオニード・ブレジネフ・ソ連共産党書記長は「ブレジネフ・ドクトリン」を根拠に、当時、ソ連と東ヨーロッパの社会主義国家によって構成されていた「ワルシャワ条約機構」軍をチェコスロバキアに送り込み、ドプチェク第1書記を拘束。モスクワに「連行」し、改革をあきらめるよう迫ったのである。
ドプチェクは、改革路線を放棄することを条件に、党第1書記留任をソ連に認められたが、この「事件」ですっかりやる気を失い、数年後、第1書記を辞任する。プラハの春がもろくも散った瞬間だった。
ソ連がこのときワルシャワ条約機構軍派遣の根拠にした「ブレジネフ・ドクトリン」とは、「社会主義共同体の利益は社会主義各国個別の利益に優先すべきである」とするものだ。難しい表現だが、平たく言えば「東ヨーロッパの社会主義国家はおとなしくソ連の言うことを聞け」という意味だった。
それから半世紀近く経ち、東ヨーロッパの社会主義国家群も、いやそれどころか「本家本元」のソ連さえ地図から消えてしまった現在--歴史の後知恵と言われればそれまでだが--、ドプチェクが始めた改革と、チャスラフスカが署名した二千語宣言が正しかったかどうかについて、私たちは容易に答えを出すことができる。あのとき、ワルシャワ条約機構軍を送る決定をしたソ連自身が、1985年に登場したミハイル・ゴルバチョフにより「ペレストロイカ」(ロシア語で刷新を意味する改革)を始めたことを考えると、完全に正しかったのである。
歴史に「もし」は許されないが、もし「人間の顔をした社会主義」への改革の試みが成功していたら、その後の世界はまったく違ったものになったであろう。真の意味での民主主義(※)を獲得した社会主義は、ろくでもない人物しか立候補も当選もできない西側的「自由」選挙と資本主義を乗り越え、人類の理想に一歩も二歩も近づくことができたはずである。この改革を否定し、プラハの春をソ連が戦車で押しつぶしたとき、社会主義の敗北は決まったのである。
(※)ここで言う「真の意味での民主主義」とは、資本家階級を排除し、労働者階級だけに立候補資格を制限しつつ、共産党・労働者党員以外にも幅広く立候補を認める複数選挙制である。中国共産党による「革命」直後のごく短期間、中国で実際に採用されていたことがある。概念としては「人民民主主義」に近い。
ちなみに--間違いである場合は指摘していただきたいが--、独裁体制の国で、多くの市民を巻き込む大規模な民主化運動が起きたとき、それが起きた場所の地名を冠して「○○の春」という呼び方がされたのは、当ブログの知る限り、このプラハの春が歴史上最初と思われる。その後、2010年~2011年にかけての「アラブの春」など、この表現は民主化運動を表すものとしてすっかり定着したが、一方、「○○の春」と呼ばれた民主化運動で、その後、本当に春が訪れたケースはほとんどないということも、当ブログとしては忘れずに指摘しておかなければならない。