学芸員のちょっと?した日記

美術館学芸員の本当に他愛もない日記・・・だったのですが、今は自分の趣味をなんでも書いています

エドヴァルド・ムンク

2007-10-08 22:10:35 | 展覧会感想
エドヴァルド・ムンクは、ノルウェーの画家です。ムンクといえば、今にも画面から絶叫が聞こえてきそうな《叫び》や、子供から大人へ変わる人間の不安定な心を表現したとされる《思春期》が代表作です。高階秀爾氏は、ムンクの絵画を「かぎりない沈黙のなかで、ひそかに運命の糸が紡がれているという、人間を越えた神秘の世界へのつながりが色濃く見られる」(近代絵画史 下 中公新書)と評しています。これまで、ムンクを評する言葉として「不安」、「絶望」、「嫉妬」などが挙げられますが、高階氏は「神秘」の言葉を当てはめており、大変に興味深いことです。

国立西洋美術館で「ムンク展」を見学しました。この展覧会は、ムンクの「装飾性」をキーワードに企画が練られています。私は、ムンクの露骨なほどの内面表現が、果たして、一見ミスマッチとも思われる「装飾性」とどのように関わるのかに関心がありました。

第1章は「生命のフレーズ」として、自身のアトリエや展覧会において、どのように絵画を展示したのかを紹介しています。ムンクは、絵画の展示に試行錯誤をしたらしく、何度も架け替えを行い、模索を続けたとのこと。「生命のフレーズ」の後は、依頼を受けた個人の邸宅や劇場、大学講堂などの装飾を紹介しています。

ところが、展示を見ていくうちに、私はしだいにムンクの装飾性は理解しにくいと感じるようになりました。これは展覧会の解説が悪いという旨の意味ではなく、そもそも日本人である私に西欧の装飾性は理解できるのかと考えたのです。西欧では、邸宅に絵画を展示する場合、これでもかと壁面の余白を埋めるかの如く、羅列していきます。一方、日本は、たとえば床の間を想像していただければわかりますが、掛け軸を1点掛けて、余白の美を楽しみます。床の間の壁一面に掛け軸は飾りませんね。つまり、装飾の感覚に関しては、西欧と日本では、全くの間逆なのです。私は、意識をしすぎるのかもしれませんが、ムンク(に限らず西欧)の装飾性を、日本人であるが故に、はっきりとつかみ切れないことに、少し歯がゆい思いを抱きました。

さて、本展覧会の代表作《不安》は、無表情で骸骨に衣装を着せただけのような人物たちが正面に向かって立ち、彼らの背後には、どろどろとつかみどころのないゆがんだ空間が存在しています。私が見る限り、この《不安》が描かれた1890年代が、ムンクのピークではなかったでしょうか。なぜなら、のちの劇場や講堂の装飾には、《不安》のような、ときには激しすぎるほどの力が伝わってこないためです。「装飾」のテーマに限定されていたとはいえ、どうしても力を失ってしまったような印象があります。色に関して。心の暗い内面を色で表現する場合、黒、紺、紫を想像しますが、ムンクはそれに加えて赤と黄の組み合わせを好んで用いているようです。その組み合わせが、一種の明かりとなって、暗い内面を照らすような効果が見られます。それが先述した、高階氏が「神秘」の言葉を使った理由の1つなのかもしれません。

この展覧会は、装飾性の問題、不安の心理、死の意味など、様々な問題が凝縮された企画だと思います。高度な宿題を得られる方もいらっしゃるかもしれません。そんなややこしい問題を抜きにしても、ムンクの代表作がこれだけ見られるのも大変に貴重な機会ですので、見学をお勧めします。