今日は三連休の中休みです。いつもより早めのブログ更新です。
昨日、郡山市立美術館で開催されている「広重 二大街道浮世絵展」を見学しました。歌川広重(1797-1858)の「木曾街道六拾九次」、「東海道五拾三次」、「江戸近郊八景」、「近江八景」の名作が展示されています。
私は「東海道五拾三次」に関しては、これまで何度か見たことがありましたが、それ以外ははじめての観覧です。私は浮世絵の画面から香る江戸の匂いに引き込まれ、じっと絵に食い入るように見ていました。近づいてみたり、遠目からみたり…。すると、ちょっと気がついたことがありました。浮世絵の画面のなかに、入れる必要の無いものがあるのではないかということにです。
たとえば、「東海道五拾三次」における≪丸子≫には、茶店でとろろ汁を食す旅人が描かれています。ふと、視点をずらし、茶店の裏手をみると、鍬が何気なくそっと置かれているのです。旅人と茶店だけで十分事足りるのに、どうしてそんな小物を入れたのでしょう。あるいは「木曾街道六拾九次」の≪下諏訪≫では、宿場でおいしそうにご飯を食べる人たちが描かれています。ここでも画面左に目を移すとと、お風呂に入ってくつろいでいる男性の姿があります。この男性がなくとも、絵として成り立つのでは?と疑問に思いました。ほかにも探せばきりがありません。建物の高台から往来を歩く人々をのぞく男性、わざわざ補修中のお城を書いてみたり。
考えてみるに、おそらく広重は、画面の中にさりげないものを加えることで、生活感を盛り込みたかったのでしょう。広重の絵に登場する人間たちは、誰もが生き生きとしています。自分も旅をしているような不思議な感覚すら覚えます。現在を生きる我々ですらそう感じるのですから、江戸時代に生きた人々は広重の絵にさぞ引き込まれたことでしょう。このような演出を考える広重という人間に興味がわきました。
明日も再び広重展のご紹介。江戸近郊八景、近江八景、そして幻のスケッチブックに感じたことを書く予定です。
昨日、郡山市立美術館で開催されている「広重 二大街道浮世絵展」を見学しました。歌川広重(1797-1858)の「木曾街道六拾九次」、「東海道五拾三次」、「江戸近郊八景」、「近江八景」の名作が展示されています。
私は「東海道五拾三次」に関しては、これまで何度か見たことがありましたが、それ以外ははじめての観覧です。私は浮世絵の画面から香る江戸の匂いに引き込まれ、じっと絵に食い入るように見ていました。近づいてみたり、遠目からみたり…。すると、ちょっと気がついたことがありました。浮世絵の画面のなかに、入れる必要の無いものがあるのではないかということにです。
たとえば、「東海道五拾三次」における≪丸子≫には、茶店でとろろ汁を食す旅人が描かれています。ふと、視点をずらし、茶店の裏手をみると、鍬が何気なくそっと置かれているのです。旅人と茶店だけで十分事足りるのに、どうしてそんな小物を入れたのでしょう。あるいは「木曾街道六拾九次」の≪下諏訪≫では、宿場でおいしそうにご飯を食べる人たちが描かれています。ここでも画面左に目を移すとと、お風呂に入ってくつろいでいる男性の姿があります。この男性がなくとも、絵として成り立つのでは?と疑問に思いました。ほかにも探せばきりがありません。建物の高台から往来を歩く人々をのぞく男性、わざわざ補修中のお城を書いてみたり。
考えてみるに、おそらく広重は、画面の中にさりげないものを加えることで、生活感を盛り込みたかったのでしょう。広重の絵に登場する人間たちは、誰もが生き生きとしています。自分も旅をしているような不思議な感覚すら覚えます。現在を生きる我々ですらそう感じるのですから、江戸時代に生きた人々は広重の絵にさぞ引き込まれたことでしょう。このような演出を考える広重という人間に興味がわきました。
明日も再び広重展のご紹介。江戸近郊八景、近江八景、そして幻のスケッチブックに感じたことを書く予定です。