語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【震災】原発>政財官メディアの無定見 ~メディア批評~

2011年08月19日 | 震災・原発事故
 「原発ルネッサンス」は、3・11を経験した今、まことに奇っ怪な響きを持っている。この用語が国際的な枠組みの中で日本に移植されたのは、北海道洞爺湖サミット(08年7月)においてのことだ。地球温暖化=低炭素社会の実現をスローガンに、クリーンなイメージで復権する、というレトリックが用いられた。
 政権末期の自民党は、自らの失政が招いた「失われた20年」のつけを清算すべく、発展途上国に原発技術を輸出しようと企てた。この企ては、政権交代後の民主党に引き継がれた。新成長戦略の柱になった。
 そこに福島第一原発の事故だ。このルネッサンスはあだ花だった。これが世界的評価だが、肝心の日本ではどうか。これほどの破局を目の当たりにしてもなお、「政財官メディア」の無定見は底なしだ。

 メディアが直ちに回復しなければならないのは、言葉の軽重に係る感度だ。
 3・11後に再読して苦笑を禁じえないものの一つに、平成21年度版「原子力白書」がある。原発の役割の充実と拡大に向けて楽天的に課題を列挙している。「①54基の原子力発電所がエネルギー安全保障と温室効果ガス排出抑制に貢献しており、②新潟県中越沖地震を踏まえた各原子力施設の耐震安全性の再評価、③諸外国と比較して低水準にある原子力発電所の設備利用率の改善」うんぬん。
 これは、あり得たかもしれない現実または夢だ。
 それにしても、メディアは、なぜこんな野放図な物言いを放置してきたのか。

 最新の「メディア総研」の特集は「大震災・原発事故とメディア」だ。ここに再録された「原子力PA方策の考え方」は、チェルノブイリ原発事故(86年)で人気急落した原発の巻き返しを図るべく日本原子力文化振興財団が91年3月に作成した(科学技術庁が委託)。
 「停電は困るが、原子力はいやだ、という虫のいいことをいっているのが、大衆であることを忘れないように」「主婦は反対派の主張に共感しやすい」
 原子力推進派は、みごとに愚民思想の持ち主だ。男性中心主義者だ。
 映像メディアをどう動かすか、という箇所では、
 「NHKのは批判色が強かったり、くせがありすぎる。もっとフェアに作れないか。民放の方がよいのではないか」
 あのNHKでさえ急進的と見える彼らの目は、いったい何を見るための目なのか。
 「事故の時こそ広報の好機」というのが彼らの「原子力文化」だそうだ。破局の後に何を言い出すのだ。

 震災から2ヵ月以上経ってから、斑目春樹・原子力安全委員長は発言した。「3月11日以降のことが全部取り消せるんだったら、私は何を捨てても構いません」(NHKスペシャル「原発危機 第1回 事故はなぜ深刻化したのか」、6月5日)
 なんと軽く浅薄な言葉だ。この人物の頭には「責任」という概念が存在していない。

 それから1ヵ月ほど経って、菅直人首相が「脱原発」を言い出した。市民の感覚からすれば遅すぎたが、政治家たち(政党の差が見られないので一括りにする)が蜂の巣をつつく大騒ぎになった。レイムダックの首相の延命策だ、となじるのが精いっぱい。
 メディアは、首相退陣の理由を問わず、ただ退陣時期のみを問う世論調査に狂奔した。
 こうしたときに政治部記者がしたり顔で永田町の風評を語る。菅首相が「脱原発依存」と言い出したのは、世論の70%が「脱原発」だから、それに迎合しただけだ、うんぬん。この記者が70%の側に立っていたら、「迎合した」とは言わず、「民意を反映した」とでも言ったはず。
 経団連は、「原発を止めるなら国外に拠点を移す」と凄んでみせた。脱原発のデモに襲いかかる民族派がいる一方で、脱原発なら国を捨てる、とすねる企業人がいる。
 メディアは、それを無批判にリピートするだけだ。  
 3・11以降、メディアは不正確な情報、不確かな記憶に依拠し、議論の場としての機能を放棄し、被災者に寄り添うことさえしなくなった。メディアの「全言論喪失」だ。

 朝日新聞新聞の連載シリーズ「原爆と原発」の初回、「原子力二つの顔」(7月22日)にこんなエピソードが紹介された。
 ここ数年、NGO団体ピースボートは、広島・長崎の被爆者が世界を一周しながら、原爆の恐ろしさをしてもらう企画を続けてきた。今年の航海は、寄港する先々で、「原爆の被害に遭った日本が、なぜあれほど原発を持っているのか」と聞かれ、被爆者たちは言葉を詰まらせた。
 3・11後になっても、原爆と原発が放射能被害で通底していることを言葉にできない私たち日本人がいる。

 今、NHKが削除を要求しても、いや要求すればするほどYouTube上に亡霊のように甦る番組がある。現代史スクープドキュメント『原発導入のシナリオ』(94年3月)だ。原発がどのような経緯で米国から日本にもたらされたか、その理由、人脈、波及効果などを克明に描く。
 米国は、ビキニ事件を奇貨として、日本を核の傘ですっぽり覆ってしまった。それを裏でしかけた大物保守政治家がいまだにメディアに影響力を行使している。彼らには、原爆であれ原発であれ核を管理できる、という奢りがある。だから、「原子力の平和利用」という欺瞞が、「原発ルネッサンス」という奇っ怪な観念に行きついたのだ。本来ルネッサンスは破局の後に構想される根源的なムーブメントであるべきだが、この国では、再生を掲げて破滅を招く、という最悪の選択をしつつある。

 以上、神保太郎「メディア批評 ~連載第45回~」(「世界」2011年9月号)に拠る。
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