(1)歴史的激動の中で、思わぬ人物が時の人になることがある。セルゲイ・アクショーノフ・クリミア自治共和国首相(41歳)もその一人だ。
アクショーノフは、1972年11月2日、モルドバ(当時ソ連を構成)にて生。1993年、シンフェロボリ(クリミア)の高等政治軍事建設学校卒業。食料品関連企業に勤務。2008年頃から、親ロシア運動を開始。2010年、クリミア自治共和国最高会議議員に当選。全クリミア社会政治運動「ロシアの統一」の指導者を務め、今年2月27日、首相に就いた。
(2)クリミア自治共和国のロシア連邦編入に係る住民投票(3月16日実施見込み)【注1】では、編入が支持される可能性が高い。
しかし、ウクライナ中央政府の了承がなく、ロシア軍が展開する下で行われる住民投票の結果は、国際基準に照らして有効とは見なされない。
よって、クリミアの離脱を承認するのはロシアだけだろう。ロシアの傀儡国家たる南オセチアとアブハジアも承認するかもしれない。しかし、そうなると、クリミア国家の怪しさが一層際立つ。
(3)クリミアでは、(a)ロシア人、(b)ウクライナ人、(c)クリミア・タタール人が三つ巴の対立関係にある。歴史的経緯も複雑だ。
(c)は、ロシアのタタールスタン共和国に居住するタタール人とは全く別の民族で、クリミアにもともと住んでいたが、第二次世界大戦末期、1944年、スターリンによって「対敵(ナチス・ドイツ)協力民族」というレッテルを貼られ、中央アジアに強制移住させられた。(c)の住んでいた土地には、(a)や(b)が入植した。この当時、クリミアはロシア共和国に属していた。
1954年、フルシチョフ・ソ連共産党第一書記(当時)が、クリミアをロシアからウクライナに移管した。これは、ソ連政府によるウクライナ宥和政策の一環で、ペレヤスラフ協定(1654年にウクライナ・コサックのヘトマン(棟梁)国家がモスクワ大公国の保護下に入ることを認めた)締結300周年を記念する。もっとも、当時はソ連の解体を誰も想定していなかった。だから、この措置は国内の境界線変更に過ぎなかった。
1960年代末から、(c)に対する追放が段階的に解除された。本格的に(c)がクリミア半島に帰還したのは、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長による「歴史の見直し」が進められた1980年代末のことだ。
しかし、クリミアには既に(a)や(b)が居住していたため、土地をめぐって(c)vs.(a)、(c)vs.(b)の対立が深刻になった。
ソ連崩壊後は、クリミア半島の軍港セバストポリの帰属をめぐって、ロシアとウクライナの関係が緊張した。
また、(c)の間にはイスラム原理主義過激派の影響が及び始めた。
(c)は、クリミア半島の人口の13%を占め(27万人)、スンニ派イスラム教徒で、古都バフチサライには約10のモスクがある【注3】。
(4)日本や欧米の報道には現れないが、もっとも懸念されるのはクリミアの先住民(クリミア・タタール人)が、アクショーノフ首相に対してどのような態度を取るか、だ【注2】。
クリミア・タタール人に対する対応をロシアが誤ると、深刻な民族対立に発展する危険性がある。
【注1】記事「クリミア議会、住民投票に向け「独立」宣言 通信社報道」(朝日デジタル 2014年3月12日)
【注2】記事「タタール人、ロシア警戒 クリミア、少数派の先住民 強制移住の歴史に怒り」(朝日デジタル 2014年3月10日)
【注3】このくだり、前掲記事。
□佐藤優「「動乱の半島」クリミアの三つ巴の対立 ~佐藤勝の人間観察 第60回~」(「週刊現代」2014年3月22日号)
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【参考】
「【佐藤優】ウクライナにおける対立の核心 ~ユリア・ティモシェンコ~」
「【ウクライナ】とEU間の、難航する協定締結に尽力するリトアニア」
「【佐藤優】ロシアとEUに引き裂かれる国 ~ウクライナ~」
アクショーノフは、1972年11月2日、モルドバ(当時ソ連を構成)にて生。1993年、シンフェロボリ(クリミア)の高等政治軍事建設学校卒業。食料品関連企業に勤務。2008年頃から、親ロシア運動を開始。2010年、クリミア自治共和国最高会議議員に当選。全クリミア社会政治運動「ロシアの統一」の指導者を務め、今年2月27日、首相に就いた。
(2)クリミア自治共和国のロシア連邦編入に係る住民投票(3月16日実施見込み)【注1】では、編入が支持される可能性が高い。
しかし、ウクライナ中央政府の了承がなく、ロシア軍が展開する下で行われる住民投票の結果は、国際基準に照らして有効とは見なされない。
よって、クリミアの離脱を承認するのはロシアだけだろう。ロシアの傀儡国家たる南オセチアとアブハジアも承認するかもしれない。しかし、そうなると、クリミア国家の怪しさが一層際立つ。
(3)クリミアでは、(a)ロシア人、(b)ウクライナ人、(c)クリミア・タタール人が三つ巴の対立関係にある。歴史的経緯も複雑だ。
(c)は、ロシアのタタールスタン共和国に居住するタタール人とは全く別の民族で、クリミアにもともと住んでいたが、第二次世界大戦末期、1944年、スターリンによって「対敵(ナチス・ドイツ)協力民族」というレッテルを貼られ、中央アジアに強制移住させられた。(c)の住んでいた土地には、(a)や(b)が入植した。この当時、クリミアはロシア共和国に属していた。
1954年、フルシチョフ・ソ連共産党第一書記(当時)が、クリミアをロシアからウクライナに移管した。これは、ソ連政府によるウクライナ宥和政策の一環で、ペレヤスラフ協定(1654年にウクライナ・コサックのヘトマン(棟梁)国家がモスクワ大公国の保護下に入ることを認めた)締結300周年を記念する。もっとも、当時はソ連の解体を誰も想定していなかった。だから、この措置は国内の境界線変更に過ぎなかった。
1960年代末から、(c)に対する追放が段階的に解除された。本格的に(c)がクリミア半島に帰還したのは、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長による「歴史の見直し」が進められた1980年代末のことだ。
しかし、クリミアには既に(a)や(b)が居住していたため、土地をめぐって(c)vs.(a)、(c)vs.(b)の対立が深刻になった。
ソ連崩壊後は、クリミア半島の軍港セバストポリの帰属をめぐって、ロシアとウクライナの関係が緊張した。
また、(c)の間にはイスラム原理主義過激派の影響が及び始めた。
(c)は、クリミア半島の人口の13%を占め(27万人)、スンニ派イスラム教徒で、古都バフチサライには約10のモスクがある【注3】。
(4)日本や欧米の報道には現れないが、もっとも懸念されるのはクリミアの先住民(クリミア・タタール人)が、アクショーノフ首相に対してどのような態度を取るか、だ【注2】。
クリミア・タタール人に対する対応をロシアが誤ると、深刻な民族対立に発展する危険性がある。
【注1】記事「クリミア議会、住民投票に向け「独立」宣言 通信社報道」(朝日デジタル 2014年3月12日)
【注2】記事「タタール人、ロシア警戒 クリミア、少数派の先住民 強制移住の歴史に怒り」(朝日デジタル 2014年3月10日)
【注3】このくだり、前掲記事。
□佐藤優「「動乱の半島」クリミアの三つ巴の対立 ~佐藤勝の人間観察 第60回~」(「週刊現代」2014年3月22日号)
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【参考】
「【佐藤優】ウクライナにおける対立の核心 ~ユリア・ティモシェンコ~」
「【ウクライナ】とEU間の、難航する協定締結に尽力するリトアニア」
「【佐藤優】ロシアとEUに引き裂かれる国 ~ウクライナ~」