語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【片山善博】【五輪】新国立競技場をめぐるドタバタ ~舛添知事にも落とし穴~

2015年07月17日 | ●片山善博
 (1)2020年東京オリンピックのメイン会場(新国立競技場)の建設が迷走している。
 まず、建設オペレーションを統括する最高責任者は誰なのか、よくわからない。
 森喜朗・オリンピック組織委員会会長が随所に登場するが、どうみてもこの人ではない。
 施設の運営主体とされる日本スポーツ振興センター(JSC)の理事長も、実質的な責任者ではなさそうだ。当事者能力がとんとない(印象)。
 この問題が取り沙汰されるたびに文部科学大臣が記者会見で責任者然とした発言を繰り返している。しかし、いわくつきの基本設計コンペなどはJSCが実施しており、工事の発注も文科省が担うわけではないから、大臣が正式な責任者だとはいえない。

 (2)この種の巨大プロジェクトを進めるにあたり、この期に及んで最高責任者が内外に分かるかたちで決まってないことは致命的だ。全体を統括し、進行を総合的に管理する機能が欠如しているからこそ、後で物議をかもす基本設計がまかり通るような事態が起こる。事業計画額がべらぼうに増えることになったり、肝心の時までに完成する見込みが立たないのではないかと失笑を買ったりもする。
 船頭多くして山に上るだ。
 どんなものをどう再建するかもあいまいなまま、さらに言えば、こんなことになるなら改修して使うのが現実的だったかもしれないのに、元の競技場は早々と壊してしまった。今となっては取り返しのつかないことだ。その責任はいったい誰がとるのか。
 これは戦争の時に最高司令官がいないようなものだ。戦闘は場当たり的で、後先のことを考えていない。部隊は一見連携しているように見えても、実は単なるもたれあいにすぎず、まるで統率がとれていない。たまに作戦が功を奏した時には、みんなが自分の功績を誇ろうとするが、いざ窮地に陥ると責任を逃れようとする。

 (3)無責任の典型例の一つが、東京都に対する建設費のつけ回しだ。国は建設費のうち500億円ほどを負担せよ、と東京都に迫っている。
 舛添知事が取り敢えず国の要求を拒んだのは至極当然だ。
 そもそも国と自治体との財政秩序を国の都合で乱すようなことがあってはならない。そのため国がその権限に基づき責任を持って処理すべき事務については、その経費は全額国庫が負担するものと定められている。これが国と自治体との財政関係の原則だ。

 (4)国にしてみれば、新国立競技場は国の施設だといっても、そもそもオリンピックを主催するのは東京都なのだから、そのメイン会場の建設費について都に応分の負担をさせても罰は当たらない、との感情論もあるだろう。
 そこで、あくまで一般論だが、そのような場合には国と自治体とが相談の上、本体工事はすべて国が負担する一方、周辺の道路などの整備は自治体の負担で実施する、というような協力体制をとることはよくある。
 舛添知事も、「東京都からの支出が法的に認められるのは、(競技場周辺整備の)50億円程度」との認識を示したという。それなら常識の範囲内だ。
 だが、国はそんな「はした金」では納得できない、もっと寄越せ、と言いたいに違いない。
 一時、東京都から相応の金を出させるための法整備について文部科学大臣が言及したことがあった。しかし、国が自治体に対して無理やり負担を押し付けることは地方財政法で禁じられているから、そんなことはできない。

 (5)では、東京都が自主的に国に協力して資金提供する場合はどうか。
 議会でそのための予算が承認されれば取り敢えずできないことはない。しかし、それによって、舛添知事は大きなリスクを抱え込むことになる。現時点ではあくまで可能性の問題だが、場合によっては、自分の財産を身ぐるみ剥がされる可能性がある。東京都の納税者からの住民監査請求とそれに続く住民訴訟によって、知事が個人的に責任を追及されかねないからだ。

 (6)住民監査請求とは、自治体の職員によって違法または不当な公金の支出があったと認められる場合、住民なら誰でも、かつ、一人ででも、その支出によって生じた損害を補填するために必要な措置を講じるよう、当該自治体の監査委員に請求することができる、とする地方自治上の制度だ。
 このたびの例に置き直してみると、ここにいう
   「職員」とは桝水知事のことであり、
   「損害を補填するために必要な措置」とは、違法または不当に支出した金額を「職員」=舛添知事に賠償させる
ことを意味している。

 (7)住民監査請求を認められなかった請求者は、それを裁判所に持ち込むことができる。これも地方自治法によって、住民ないし納税者の権利として認められている住民訴訟の仕組みが活用できるのだ。
 監査委員と違って、裁判官たちに「情」は通じない。
 むろん、訴訟ではおよそ500億円の支出の違法性などが争われるが、知事が責任を追及される可能性は大いにある。国の施設を建設するために、都の公金を支出することは、地方財政法に違反している、との論は十分成り立つからだ。
 しかも、経緯から言って、国は当初の建設費の目算が大きくはずれ、そのツケを東京都にしわ寄せしたのではないか、との疑念がぬぐえない。国の失政のツケは国が始末すべきであって、その尻ぬぐいのために都民のお金を供出するいわれはない。違法性の論拠は、一段と高まるはずだ。

 (8)もし、住民訴訟の結果、500億円の支出が違法ないし不当だとなった場合、舛添知事は500億円そのままかどうかはさておき、個人では到底払えそうもない莫大な金額を東京都から請求される。
 決して公金を渡したわけではないし、そもそも予算を通じて議会の承認手続きをとっているにもかかわらず、どうして個人的に弁償しなければならないのか。・・・・現行制度がそうなっているからには、従わざるを得ない。
 よかれと思って軽い気持ちで予算に盛り込んだところ、住民訴訟によって一文無しになることもある。
 このことを、全国の首長はよくよく心得ておくのが身のためだ。

□片山善博(慶應義塾大学教授)「新国立競技場をめぐるドタバタ --舛添知事にも落とし穴か ~日本を診る第69回~」(「世界」2015年8月号)
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 【参考】
【五輪】工事遅れや費用増大、責任のなすり合い ~新国立競技場~
【五輪】が都民の生活を圧迫する ~汚染市場・アパート立ち退き~
【五輪】公共事業のためか? ~メッセージの発信、新しい試みを~
【原発】放射能の海で「おもてなし」 ~2020年東京五輪~
【原発】東京放射能汚染地帯 ~オリンピック競技候補会場~
【原発】放射能と東京オリンピック招致



【詩歌】三好達治「艸千里濱」

2015年07月17日 | 詩歌
 われ嘗て(かつて)この國を旅せしことあり
 昧爽(あけがた)のこの山上に われ嘗て立ちしことあり
 肥(ひ)の國の大阿蘇(おほあそ)の山
 裾野には青艸(青草)しげり
 尾上(おのえ)には煙なびかふ 山の姿は
 そのかみの日にもかはらず
 環(たまき)なす外輪山(そとがきやま)は
 今日もかも
 思出の藍にかげろふ
 うつつなき眺めなるかな
 しかはあれ
 若き日のわれの希望(のぞみ)と
 二十年(はたとせ)の月日と 友と
 われをおきていづちゆきけむ
 そのかみの思はれ人と
 ゆく春のこの曇り日や
 われひとり齢かたむき
 はるばると旅をまた来つ
 杖により四方をし眺む
 肥の國の大阿蘇の山
 駒あそぶ高原(たかはら)の牧(まき)
 名もかなし艸千里濱

 *

●永田満徳「三好達治ー阿蘇詩ニ篇

 <「艸千里浜」は、一篇全体が古風な印象を与える詩で、その古風さ(註6)は、用語の面だけでなく、音律の面にも構成の面にも現われている。特に三行以下の三行と語尾の三行とはみごとに呼応していて、五音・七音の音律で構成された定型詩といった観がある。試みに数回復唱してみれば、五七調のもつ歯切れのいい音律上の美と極めてシンメトリカルな均衡美を味わうことができるだろう。ルビの振り方にしても、例えば「外輪山」をソトガキヤマと言い、「高原」をタカハラと読ませるところに、古態に倣おう(註7)とする並々ならぬ努力の跡が見られる。この詩は、「大阿蘇」の詩との対比によっても明らかだが、伝統的和歌文芸の構造に近く「彼の古典詩風をもっともよく代表するものの一である」(吉田精一角川版『三好達治詩集』鑑賞)といえる。
 (中略)この詩では、「大阿蘇の山」の風景的特色が見晴るかす眺望の中からパノラマ撮影のように一つの見落としもなく描き出されている。そしてさらに、その中から浮かび上がる外輪山は、「今日も」また〈山紫水明〉(「日本人の郷愁」)の言葉のごとく淡い藍色に染まっている。この風景は眼前の事実に違いないのだが、単なる事実そのものの色ではなく、「思出の」と冠することで〈追憶〉の叙情にまぶされている。つまり、かつて『測量船』から四行詩への転移について語ったときの「詩歌は、私にとつては、最も単純な、最も明瞭な何ものか」(「ある魂の径路」)という気息はなく、視界に入るものすべて、ここでは「思出の藍」色のフィルターを通した心象風景によって写し出されている。
 三好の明瞭な眼を「かげろ」わせたものは何かと言えば〈思出〉の心の痛みとして堆積した二十年にもわたる不如意な実生活の数々に他ならない。壮年に達した三好の脳裏には、現代詩の変革に胸を躍らせた若い日の希みや、三十一歳で天逝した無二の親友梶井基次郎、そして心ならずも結婚を断念せざるをえなかった心の恋人萩原アイ(朔太郎の妹)のこと(註8)などが走馬燈のように去来したのではなかろうか。ふと人生を振り返ってみた時、それらの出来事は現在の自分から遥かかなたに消え去って「うつつなき眺め」のなかにある。人によっては、その際痛苦の思いにとらわれるだろう。このような心象風景は、数年後『花筐』に収めた四行詩「かへる日もなきいにしへを/こはつゆ艸の花のいろ/はるかなるものみな青し/海の青はた空の青」(「かへる日もなき」)に進展(註9)し、〈思出〉の痛みが幾分薄れて、美しく装われていくことになる。
 従って、最後の句は、悲しみを誘うものなどない(艸千里〉だが、「かなし」という唯一の主観語にこの時の心情のすべてが託されたとみるべきで、おそらくは島崎藤村の「歌哀し佐久の草笛」(「小諸なる古城のほとり」)の詩句(註10)とともに、失われたものへの哀惜の思いをこめて「名もかなし艸千里浜」とうたわれたものであろう。(下略、註・略。)>

□三好達治「艸千里濱」(『艸千里』、四季社、1939)
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 【参考】
【詩歌】】三好達治「大阿蘇」
【詩歌】三好達治「湖水」
【詩歌】三好達治「雪」
【詩歌】三好達治「春の岬」
【詩歌】何をうしじま千とせ藤 ~牛島古藤歌~
【読書余滴】ミラボー橋の下をセーヌが流れ ~母音~