語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【中東】ブロガー鞭打ちの刑 ~サウジアラビア~

2015年07月20日 | 社会
 (1)サウジアラビアの最高裁は、6月7日、ウェブサイト「フリー・サウジ・リベラルズ」(既に閉鎖)を立ち上げた同国在住のブロガー、ラーイフ・バダウィー(31歳)に対し、禁錮10年、鞭打ち1,000回、罰金100万リヤル(3,300万円)の判決を下した。
 ラーイフ・Bは、サイト上で人権問題、世俗主義について問題提起。国内の宗教指導者、宗教系大学、宗教警察などを批判。「イスラムへの冒涜」「背教者」として罪状を言い渡された。
 ラーイフ・Bは、2012年6月の逮捕以降、収監されていて、今年1月には鞭打ちの刑の一部が執行され、かつ、民衆に公開された。

 (2)国際人権団体や一部西洋諸国は、ラーイフ・Bの逮捕を「表現の自由」の侵害だと批判し、ラーイフ・Bの釈放ないし減刑を訴えている。しかし、サウジアラビア国内で同人を擁護する声は目立たない。
 さらに政府は、その訴えを索制するかのように、今年3月の閣僚議会で、内政不干渉の原則と、イスラム法に基づく人権の促進について確認している。

 (3)SNSの国籍別アカウント数で、サウジアラビアは世界でも上位と言われ、ネット上で活発な意見交換が許されているかのように見える。
 しかし、同国は宗教法の厳格な適用を含めて、イスラム社会の形成を建国理念として興った国で、イスラム世界の盟主を自認している。こうした背景に立ち、一般の犯罪や不敬罪であれば恩赦の対象とはなっても、「イスラムへの冒?」は最大級の国家反逆を意味する。よって、ラーイフ・Bの釈放ないし減刑は困難である、とされる。

 (4)また、ラーイフ・Bが「背教者」とされた点も、彼の無罪放免を困難にする。
 国際人権団体や一部西洋諸国は、ラーイフ・Bを「リベラル」な自分たち側の人間と見るかもしれないが、サウジアラビアにとって彼は、自国民、イスラム教徒だ。つまり、彼は単なる「不信仰者」ではなく、イスラムに背いた身内となる。
 国際社会がラーイフ・Bの擁護を叫べば叫ぶほど、サウジアラビアは身内の処遇を他人の物差しで決定する道理はない、との考えを強める恐れすらある。

□高尾賢一郎(上智大学アジア文化研究所客員教授)「ブロガー鞭打ちの意味」(「週刊金曜日」2015年6月26日号)
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【芭蕉】奧の細道の結びの地 ~大垣~

2015年07月20日 | 詩歌
(1)『奧の細道』末尾【注1】
 露通(ろつう)も此の湊まで出むかひて、美濃の国へと伴ふ。駒にたすけられて、大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より来り合ひ、越人(ゑつじん)も馬をとばせて、如行が家に入り集まる。前川子(ぜんせんし)、荊口(けいこう)父子、其の外親しき人々日夜とぶらひて、蘇生(そせい)の者に逢ふがごとく、かつ悦びかついたはる。旅の物うさもいまだ止(や)まざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮拝まんと又舟にのりて、
  蛤のふた見にわかれ行く秋ぞ

(2)現代語・訳(富士正晴・訳)【注2】
 露通もこの港まで出迎えて、美濃の国へと伴をさす。駒に助けられて、大垣の庄に入ると、曾良も伊勢より来り合い、越人も馬を飛ばせて、如行が家に入り集まる。前川子、荊口父子、その外親しい人々、日夜訪ねて、死んで生き返った者に会うみたいに、かつ喜びかついたわる。旅のやり切れなさもまだおさまらぬのに、長月(陰暦九月)六日になったら、伊勢の遷宮を拝もうと、またもや舟に乗って、
  蛤のふたみに別れ行く秋ぞ

(3)奧の細道結びの地【注3】
 岐阜県大垣市舟町(東海道本線大垣駅下車)
 大垣は戸田氏十万石の城下町である。芭蕉がこの地を「奧の細道」結びの地としたのは、ここにもまた、
  蛤のふたみに別れ行く秋ぞ
の旅と別れがあったからだろうと思われる。「結び」とはいっても、そこには無限に続く旅があり、別れがある、芭蕉の旅はそういう旅なのかもしれない。
 それにしても敦賀から大垣までは決して至近の距離ではないのに、芭蕉がどこをどう通って大垣に辿り着いたのかは、いまもって謎とされている。大垣に着いた芭蕉を出迎えた曾良、越人、如行、そして前川氏、荊口父子といった具合に門人たちが集い寄り、一気に芭蕉の身辺は賑わいを取り戻す。
 大垣市内の芭蕉関連地をたどると、まず駅を出て南へ三百メートルほど行き、水門川(揖斐川の支流)にそって大垣図書館の方へ右折、さらに三百メートルほどで八幡神社になる。朱塗りの橋が架かっているのですぐわかる。大鳥居をくぐった左側植込みに、
  折/\に伊吹をみては冬ごもり
の芭蕉句碑がある。昭和三十四年の建立であるが、標示も何もないため、見過ごされがちなのが残念である。
 次いで川が南へ向かうのに従ってほぼ真っ直ぐに歩み、俵橋のところで左折、散策のために作られた河岸の道を進むと伊勢・桑名に通じているという目指す「結びの地」舟町港である。住吉神社と並んで写真でおなじみの住吉燈台が立っている。江戸時代のそれらしく、古風な姿形が懐かしい。そして川面には趣きを添えるように大小二艘の舟が浮かべてある。桜並木のある対岸の高橋の西詰に、「史蹟奧の細道むすびの地」の石柱と、「い勢にまかりけるを/ひとの送りければ」の詞書を付した菱形の中の円い面に、
  蛤のふたみに別行秋ぞ  はせを
の句を刻んだ独特の形の句碑がある。この地に立つと、『奧の細道』の大旅行を達成した芭蕉と曾良をはじめ、師の大業を助けた門人たちに、大きな拍手を送りたくなる。
 なお、高橋から西へ約七百メートル歩いた左側に正覚寺があり、芭蕉の百ヶ日追善法要に建てた芭蕉塚と、「あか/\と日はつれなくも秋の風」の句碑がある。

(4)なぜ大垣は『奧の細道』の結びの地となったか【注4】
 元禄2(1689)年春に立ち、秋まで160日間、2,400kmを踏破した紀行は大垣で終わる。しかし、芭蕉はその後も伊勢、伊賀上野、京都、大津などを渡り歩き、江戸に帰ったのは翌々年の元禄4(1691)年のことだ。
 では、なぜ大垣が『奧の細道』の結びの地となったのか。
 それは、芭蕉が大垣を愛していたからだ。大垣には谷木因をはじめ、藩士にも町人にも熱狂的な芭蕉ファンが多かった。芭蕉は7年間に4回も大垣を訪れ、土地とその人びとの間に濃密な結びつきを持っていた。だから、旅を終えて5年後にようやく脱稿した『奧の細道』の結びの地として大垣を位置づけたのだ。

【注1】松尾芭蕉「奧の細道」(尾形仂・構成と文/富士正晴・訳『絵で読む古典シリーズ 奧の細道』所収)
【注2】前掲書所収
【注3】木村利行「奧の細道旅のガイド」(前掲書所収)
【注4】服部真六「『おくのほそ道』はなぜ大垣が結びの地となったか?」(山田敏弘・編『謎解き散歩 岐阜県』所収)

□松尾芭蕉/尾形仂・構成と文/富士正晴・訳『絵で読む古典シリーズ 奧の細道』(学習研究社、1998)
□山田敏弘・編『謎解き散歩 岐阜県』(新人物往来社、2013)
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン

 【参考】
【芭蕉】奧の細道の石山 ~那谷~


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする