語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【社会】「工藤会」脱税容疑逮捕で暴力団の資金が枯渇するか

2015年07月19日 | 社会
 (1)画期的な捜査、前代未聞の逮捕・・・・という声もあがっている。
 6月16日、福岡県警が野村悟(68)・「工藤会」(特定危険指定暴力団)総裁を脱税容疑で逮捕した。下部団体による組の上納金に着目し、4年分の上納金およそ10億円のうち、2億2,700万円を野村個人の所得隠しとして摘発したのだ。【注1】

 (2)暴力団組織において、親分や上部団体への上納金は、周知のとおりだ。
 <例>山口組(日本最大の暴力団組織)・・・・直系の「直参」2次団体は、100万円前後の「会費」を本部に払わねばならない。
 工藤会も、傘下団体をいくつも抱え、上納金は年に2億4,000万円。新聞報道によれば、個々の組員が所属する下部団体の組織に上納し、そこから吸い上げるシステムになっている。 
 <「組員は3ランクに分かれている。Aランクは1人20万円、Bランクは15万円、Cランクは5万円。この組の場合は、Aが1人、Bが2人、Cが12人だから集金額は月110万円」。工藤会系の下部団体に対する捜査に携わった経験のある福岡県警幹部は解説する。>【注2】

 (3)暴力団担当の刑事は、常に資金源を追いかけている。
 <例>2005年に山口組直参組織を固く捜索(ガサ入れ)した際、次のような収穫があった。ガサは何回かに分けて行ったが、1回目に金庫に3千数百万円を見つけて押収、2回目(3日後)にも金庫に3千数百万円を見付けて押収した【大阪府警の元捜査員】。
 首相官邸にある監房機密費みたいなものか。大物ヤクザの自宅や事務所には、急な物入りに備え、常に一定の現金が眠っているらしい。捜査当局は、そこを狙い、組織の資金の流れを解明しようとしてきた。

 (4)仮にこうして現金を発見して押収しても、それ自体を罪に問うことはできなかった。なぜなら、暴力団組織そのものが法人格のない任意団体だからだ。
 暴力団関係者が絡んだ脱税の摘発は、皆無ではないが、捜査対象はフロント企業など法人に限った話だった。
 もとより実態は、子分が親分に上納しているのだが、当人が組のカネだと言えばそれまでで、個人所得と立証するのは至難の業だ。実際、町内会の会費と同じく会長が勝手に使えるものではない、とシラを切られたら、それ以上追求できなかった。
 過去、暴力団の上納金システムを脱税として摘発したケースが皆無かごく稀れなのは、上納金を組長の個人所得として認定、立証するのが非常に困難だからだ。

 (5)このたびの工藤会に対する捜査は、(4)の壁をぶち破った。
 そこまで踏み切ったのは、警察当局の熱意の裏返しかもしれない。が、半面、危うさも見え隠れする。
 福岡県警は、側近の金庫番のメモから、野村「工藤会」総裁の個人所得だ、と認定した。そのメモに、高級車の購入や遊興費に使ったことを示す記載があるらしい。
 上納金の脱税事件が成立すれば、暴力団が壊滅的な痛手を被るのは間違いない。
 しかし、メモや状況証拠だけで、個人のカネと立証できるか。やはり、公判は揉めそうだ。 

 【注1】指定暴力団工藤会(本部・北九州市)の「上納金」などをめぐる脱税事件で、福岡県警は7月9日、工藤会総裁でトップの野村悟容疑者(68)=殺人罪などで起訴=ら2人を所得税法違反容疑で再逮捕し、同市小倉南区八幡町の無職山中千代子容疑者(60)を同容疑で新たに逮捕し、発表した。すでに起訴された分を含め、野村容疑者が申告しなかった所得は2010年からの5年間で約8億1千万円にのぼり、県警は約3億2千万円を脱税したとみている。野村容疑者の逮捕は昨秋以降、6回目。【記事「工藤会トップ再逮捕 「上納金」7100万円脱税容疑」(朝日新聞デジタル 2015年7月9日)】
 【注2】記事「工藤会脱税容疑事件:上納金にランク…年2億4000万円」(毎日新聞 2015年6月23日)
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□森功「上納金は「所得」か? 工藤会・脱税容疑逮捕で暴力団の資金が枯渇する ~ジャーナリストの目 第257回~」(「週刊現代」2015年7月4日号)
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【旅】ストックホルム市庁舎

2015年07月19日 | □旅
 中央駅を出て東へ向かい、橋をわたると、クングスホルメン島である。けぶる霧雨の奥に優美な建物が浮かびあがった。鋭塔が典雅にそそり立ち、近づくにつれ、赤煉瓦の壁をおおう蔦が目に入ってくる。市庁舎である。
 レセプション会場は、「黄金の間」であった。ノーベル賞授与式会場ともなるよし。羊羹状に細長く、広さは小学校の体育館ほど。四壁には1,900万枚の金箔が燦然と輝く。正面の大きなモザイク画は、市の守護神「メラーの女王」である。赫っと目を見開き、髪毛を逆だて、右手に笏杖、左手に王冠、膝に市庁舎を載せている。側壁には、誕生から死に至る人生の7つの相を象徴する7つの人物画。あるいはまたハープを奏でる天使たち。
 ストックホルム市長の挨拶についで、市議会議長が壇上に立ち、
 「スコール(乾杯)!」
 中央のテーブルには、塩漬けにしんの薄切り、くんせい鰻、にしんストレーミングの冷肉、杜松の実をいれたハム、くんせいトナカイ、香辛料と薬味を加えた魚の切身、サラダ、チーズ、グラタン。
 肩に手がおかれ、ふり向くとO先生が傍らの青年をさし示した。
 たちまち時が過ぎる。グラスが幾度か空になり、テーブルのめぼしい料理は消えさった。
 幾組かのカップル、グループが連れだって、部屋をあとにした。私たちもまた、庁舎の散策にまわった。壮重にして瀟洒な「青の間」。市に侵攻した夷敵を踏みしだく聖ストックホルムの神像が鎮座する会議室。百の小さなアーチが組み合わされた丸天井・・・・。
 闇がホンのすこし、忍び寄ってきた。庭に降りたつと、さ緑の芝生の上を青白い光が流れ、おちこちに大理石の女神像たち。官能的だが、奔放ではない。繊細で、かぼそさすら感じさせる。
 腕時計を見ると、20時半。晴れていれば、初夏の空は深夜にいたっても明るく、宇宙が透けて見えるような紺色におおわれているはずだ。
 折しも雨はあがり、高層雲の背後から薄明がにじみでていた。風がひややかな夜気を運び、ほてった頬をなぶる。庭を区切るメラーレン湖は玄妙な光をたたえ、対岸の灯が妙に孤独な光を投げかけていた。

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【芭蕉】奧の細道の石山 ~那谷~

2015年07月19日 | 詩歌
 山中(やまなか)の温泉に行くほど、白根(しらね)が嶽(たけ)あとに見なして歩む。左の山際(やまぎは)に観音堂あり。花山の法皇三十三所の順礼(じゆんれい)とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置(あんち)し給ひて、那谷(なた)と名づけ給ふとや。那智(なち)・谷組(たにぐみ)の二字を分ち侍りしとぞ。奇石さま/゛\に、古松植(う)ゑならべて、萱(かや)ぶきの小堂岩の上に造りかけて、殊勝(しゆしよう)の土地なり。

  石山の石より白し秋の風
  いしやまのいしよりしろしあきのかぜ

  *

●山本健吉『芭蕉全発句』(講談社学術文庫、2012)
 八月五日、芭蕉と北枝(ほくし)は昼時分に山中を発って那谷の観音に詣でた。紀行には「山中の温泉に行ほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付け給ふとや。那智・谷組の二字をわかち侍りしとぞ。奇石さま/゛\に、古松植ならべて、萱ぶきの小堂岩の上に造りかけて、殊勝の土地也」とある。これは山中に行く途中に訪ねたように書いているが、実際は山中から小松へ引き返すその途中に立ち寄ったのである。寺には石英粗面岩質の凝灰岩から成る灰白色の岩山があり、岩窟に観音を祀ってある。その白く曝された石よりも吹き過ぎる秋風はさらに白い感じがする、と言った。秋に白色(無色)を配する中国の考え方に基づいて秋風を白いと感じ、「色なき風」とも言っているが、この時、芭蕉が秋風を白いと感じたのは、曾良と別れた悲しみが気持ちの底にあって、索漠とした孤独な思いがその感を深くしたのであろう。多くの注釈がこの「石山」を近江の石山ととり、石山寺の石より那谷寺の石がさらに白いという意味にとっているが、そういう比較は詩としてナンセンスである。

●安藤次男『芭蕉百五十句 俳言の読み方』(文春文庫、1989)
 秋を白帝・素秋と云い、秋風を素風と云う。やまとことばは、この素風を「色なき風」と訳した。「吹きくれば身にもしみけるあきかぜを色なき物と思ひけるかな」(『古今和歌六帖』)、「物思へば色なき風もなかりけり身にしむあきの心ならひに」(『新古今和歌集』)。白はもともと色ではないからうまい訳語だとは思うが、「色なき風」では俳言にならない。と云って、「白し秋の風」では無くもがなの説明である。「石山の石より」と、実をさぐったところに工夫といえば工夫のある句だが、どうも上々の作とは見えぬ。
 面白く読ませる手立がどこぞに設けられているのではないか、と思って、『ほそ道』那谷のくだりの前後を見直していると気がつく。北枝を伴って芭蕉が山中から那谷へ赴き、曾良は大聖寺へ向けて立ったのは、八月五日である。それを『ほそ道』は、小松から山中の湯へ赴く途で那谷寺に参拝したふうに書いている。七月二十七日相当だが、曾良の「日記」によれば多太八幡に「あなむざんや甲の下のきり/゛\す」を奉納したのも、同じ二十七日である。その足で小松を立ったのだろう。
 『ほそ道』が那谷の句文を、道行の事実と違えて、「きり/゛\す」の句から続けて配したのは、充分に理由のあることだ。「石山」の句は「きり/゛\す」の句のこころ、情のうつり、と読んでよい。
 那谷寺は天正年間兵火によって堂塔を焼失したが、加賀藩主前田利常が再建し、寛永建築代表作として知られる。古義真言宗の名刹である。山内は灰白色に暴(さ)れた奇岩に富み、実盛首実検の哀話を俳諧地に取れば、さしづめこの「秋の風」は「甲の下のきり/゛\す」の化生(けしょう)だろう。その程度の照応の気転がはたらかなくて俳諧師がつとまるはずもない。
 この句を、曾良との別離の悲みが詠ませたものだと尤もらしく説く人があるけれど、『ほそ道』にとって、別れなどなくてもこれは当然作られるべき句で、第一、八月五日に詠まれた証拠などどこにもない。たぶん後年の作だろう。

□松尾芭蕉『奧の細道』(岩波文庫、1979)
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【詩歌】三好達治「駱駝の瘤にまたがつて」

2015年07月19日 | 詩歌
 えたいのしれない駱駝の背中にゆさぶられて
 おれは地球のむかふからやつてきた旅人だ
 病気あがりの三日月が砂丘の上に落ちかかる
 そんな天幕(てんと)の間からおれはふらふらやつてきた仲間の一人だ
 何といふ目あてもなしに
 ふらふらそこらをうろついてきた育ちのわるい身なし児(ご)だ
 ててなし児だ
 合鍵つくりをふり出しに
 抜き取り騙(かた)り掻払(かつぱら)ひ樽ころがしまでやつてきた
 おれの素姓はいつてみれば
 幕あひなしのいつぽん道 影絵芝居のやうだつた
 もとよりおれはそれだからこんな年まで行先なしの宿なしで
 国籍不明の札つきだ
 けれどもおれの思想なら
 時には朝の雄鳥(をんどり)だ 時には正午の日まはりだ
 また笛の音だ 噴水だ
 おれの思想はにぎやかな祭のやうに華やかで派手で陽気で無鉄砲で
 断っておく 哲学はかいもく無学だ
 その代り駆引もある 曲もある 種も仕掛けも
 覆面(ふくめん)も 麻薬も 鑢(やすり)も 匕首(あひくち)も 七つ道具はそろつてゐる
 しんばり棒はない方で
 いづれカルタの城だから 築くに早く崩れるに早い
 月夜の晩の縄梯子(なはばしご)
 朝には手錠といふわけだ
 いづこも楽な棲みかぢやない
 東西南北 世界は一つさ
 ああいやだ いやになつた
 それがまたざまを見ろ 何を望みで吹くことか
 からつ風の寒ぞらに無邪気ならつばを吹きながらおれはどこまでゆくのだらう
 駱駝の瘤にまたがつて 貧しい毛布にくるまつて
 かうしてはるばるやつてきた遠い地方の国々で
 いつたいおれは何を見てきたことだらう
 ああそのじぶんおれは元気な働き手で
 いつもどこかの場末から顔を洗つて駆けつけて乗合馬車にとび乗つた
 工場街ぢや幅ききで ハンマーだつて軽かつた
 こざつぱりした菜つ葉服 眉間(みけん)の疵(きず)も刺青(いれずみ)もいつぱし伊達で通つたものだ
 財布は骰ころ酒場のマノン・・・・
 いきな小唄でかよつたが
 ぞつこんおれは首つたけ惚れこむたちの性分だから
 魔法使ひが灰にする水晶の煙のやうな 薔薇のやうなキッスもしたさ
 それでも世間は寒かつた
 何しろそこらの四辻は不景気風の吹きつさらし
 石炭がらのごろごろする酸つぱいいんきな界隈だつた
 あらうことか抜目のない 奴らは奴らではしつこい根曲り竹の臍(へそ)曲り
 そんな下界の天上で
 星のとぶ 束の間は
 無理もない若かつた
 あとの祭はとにもあれ
 間抜けな驢馬が夢を見た
 ああいやだ いやにもなるさ
 --それからずつと稼業は落ち目だ
 煙突くぐり棟渡り 空巣狙ひも籠抜けも牛泥棒も腕がなまつた
 気象がくじけた
 かうなると不覚な話だ
 思ふに無学のせゐだらう
 今ぢやもうここらの国の大臣ほどの能もない
 いつさいがつさいこんな始末だ
 --さて諸君 まだ早い この人物を憐れむな
 諸君の前でまたしてもかうして捕縄はうたれたが
 幕は下りてもあとはある 毎度のへまだ騒ぐまい
 喜劇は七幕 七転び 七面鳥にも主体性--けふ日のはやりでかう申す
 おれにしたつてなんのまだ 料簡もある 覚えもある
 とつくの昔その昔 すてた残りの誇りもある
 今晩星のふるじぶん
 諸君にだけはいつておかう
 やくざな毛布にくるまつて
 この人物はまたしても
 世間の奴らがあてにする顰めつつらの掟づら 鉄の格子の間から
 牢屋の窓からふらふらと
 あばよさばよさよならよ
 駱駝の瘤にまたがつて抜け出すくらゐの智慧はある
 --さて新しい朝がきて 第七幕の幕があく
 さらばまたどこかで会はう・・・・

□三好達治「駱駝の瘤にまたがつて」(『駱駝の瘤にまたがつて』、創元社、1952)
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 【参考】
【詩歌】三好達治「甃のうへ」
【詩歌】三好達治「艸千里濱」
【詩歌】】三好達治「大阿蘇」
【詩歌】三好達治「湖水」
【詩歌】三好達治「雪」
【詩歌】三好達治「春の岬」
【詩歌】何をうしじま千とせ藤 ~牛島古藤歌~
【読書余滴】ミラボー橋の下をセーヌが流れ ~母音~