語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【片山義博】民主党大敗とその教訓 ~政治の最低限の責任~

2013年01月16日 | 批評・思想
 「世界」2月号で片山義博・慶應義塾大学法学部教授/元総務大臣は、民主党大敗の原因を3つ挙げている。
 (1)消費増税という公約違反。
 (2)東日本大震災への対応の遅れ。
 (3)政治主導の失敗。

 いずれも国民の大多数がそう感じ、同じように考えている、と思う。その意味では国民の大多数の意見を集約したものであり、独自の指摘とはいえない。
 しかし、「診断」の結論より、「診断」に至るまでの民主党政権の具体的な「病状」を剔抉することで、どの政党が政権をとろうが、政治が果たすべき最低限の責任を「教訓」として総括することが、実はこの論文の眼目だ。

 (1)嘘をつくな。
 消費税を絶対上げない、と公言して2009年の総選挙を大勝しながら、嘘をついた。嘘をつく「作法」すら守らなかった。つまり、どうして約束を守れなくなったのか、その理由を言い募るわけでもなく、これだけ努力したけれど結果として約束が守れなかった、と縷々言い訳すらしなかった。野田総理(当時)は、単に、<消費税引上げは大義だと言い放ったのである>。
 民主党は「能天気」に過ぎた。野田政権のある閣僚は、消費増税について言及した上で代表者選に野田が選出されたから、消費増税は承認された、とテレビ番組で述べた。この閣僚は、代表者選はあくまで民主党内の国会議員団の議論であって、党内外の有権者には関係ないことが分かっていなかった。
 また、閣僚経験者のある実力者は、別のテレビ番組で、他の出演者からやはり公約違反を指摘されたところ、「だったら、どうやってこの財政危機を乗り越えることができるのか、教えてもらいたい。もし消費税を引き上げなくても財政運営が可能だと考えているとしたら、それは素人だ」などと見下すような態度を示していた。多くの視聴者は、そこに民主党の能天気さと傲慢を見たことだろう。
 政治の世界でも嘘はいけない。
 むろん、事情の変更は生じ得る。<ただ、その際にはその事情の変更につき有権者の理解を得るための最善の努力が求められる。それを欠いたままでやり過ごそうとしたり、まして居直ったりしてはいけない。それは政治への信頼を著しく毀損する。現に民主党は有権者の信頼を失ってしまった。のみならず、政策へのニヒリズムを生んでしまった。このたびの総選挙において、政策を二の次にした政党の野合が見られた背景にはこのニヒリズムが横たわっていると思えるのである。>

 (2)ミッションを失ってはいけない。
 補正予算で肝心なことは、千年に一度の大震災の復興に必要な予算として新たな財政支援制度を設け、それを被災地の自治体にできる限り速やかに示す必要があった。
 片山総務大臣(当時)は、地震発生後4月の段階から、復興のための本格的補正予算を早期に編成するよう、閣議や閣議後の閣僚懇談会でたびたび訴えた。しかし、その主張は日の目を見なかった。<財源のめどが立たないのに補正予算を組むことは無責任だというのが当時の野田財務大臣の主張で、それを菅総理(当時)は否定しなかったからだ。>
 野田財務大臣(当時)は「増税なくして復興なし」と主張した。<本来、災害復旧や復興のための事業は財政運営上国債を財源とするに最もふさわしい費目とされているにのもかかわらず、まるで復興を人質にとるかの如く増税を補正予算編成の条件としてしまったのである。>
 増税が決まらなければ補正予算を組まない、という主張は、救急病院に重篤な患者が担ぎこまれてきても、治療費の返済計画を提出しなければ手術にとりかからないようなものではないか、と閣僚懇談会で質すと、ある大臣は「アメリカの病院はそんなものですよ」と混ぜ返した。わが日本政府はそんなアメリカのようなことでいいのか、と駁したら、反論はなかったが、だからと言って補正予算を組もうということには至らなかった。
 ある時には、増税が国会で認められない場合には東北の復興を断念するつもりか、と問いただしたら、うつ向いたままで返事がなかった。
 別のある時は、どこかの国が攻めてきたとき、わが国は前年度剰余金と予備費の範囲内でまず応戦を試みるが、それを費消してしまったら戦費調達増税が決まるまで休戦にしてくれと交戦国に頼みに行くのか、と言ったら、一堂、大笑いしたが、それきりだった。
 結局、復興予算ができたのは、野田内閣で復興増税が決まった11月のことだった。雪深い東北では春までその予算を使った事業は執行しづらい。震災発生後ほぼ1年間、復興は足踏みを余儀なくされたことになる。民主党政権は、被災地の一日も早い復興を二の次にし、財源の確保(増税)を優先してしまった。そして、その復興予算は、成立が遅れただけではなく、使い勝手が悪かった。
 <政治はミッションを誤ってはいけない。これが民主党政権が残した貴重な教訓である。>

 (3)政治主導には人材が不可欠だ。
 復興予算がいざ成立してみると、復興とはまるで関係ないところに使い回されている。
 調査捕鯨にも支出された。グリーンピースなどによる反捕鯨活動の執拗な妨害行為に対し、敢然と立ち向かう姿勢が被災地の皆さんを励ますことになるから、復興予算を充ててもいい、という理屈だ。<よくもこんな屁理屈を素面で言えるものだと呆れかえるほかない。>
 被災地とは関係のないある国立大学に、国から復興予算が配分された。学長が文部科学省に、復興予算の趣旨とは違うのではないか、と問い合わせたら、大丈夫だから気にしないで使え、と指示が入った。
 霞が関の各省は、フック予算は被災地以外のところでも使えることになっているから問題はない、と言い張っていた。ことの発端はそうではなく、震災・原発事故への対応で使った装備の補償を想定して被災地以外にも例外的に使えるというのが出だしだった。しかるに、いつの間にか、屁理屈を捏ねて、何にでも使えるような仕掛けにしてしまったのだ。
 <あれほど財源がなければ復興のためであっても予算を組まないと言い張っていたのに、いざ増税して予算ができると、復興であろうとなかろうと、ルーズな使い方に歯止めがきかない。政府の退廃はここに極まってしまった。>
 この退廃を閣僚たちも承知の上なら、野田政権は国民・納税者と被災者を愚弄していたことになる(閣僚失格)。それとも、閣僚たちが知らないところで財務省や各省のお役人たちが勝手に使い回す仕組みをこしらえたのなら、閣僚たちは官僚になめられていたのだ(これまた閣僚失格)。
 <真の政治主導には政治家の力量とゆるぎない誠実さが不可欠という教訓ではある。>

□片山義博「民主党大敗とその教訓 ~片山義博の「日本を診る」第40回 特別版~」(「世界」2013年2月号)
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【森有正】発見が経験を創る ~経験と体験との違い~

2013年01月15日 | 批評・思想
 経験というものは、体験ということとは全然ちがう、という意味のことを前に書いたが(注三)、その根本のところは、経験というものが、感想のようなものが集積して、ある何だか漠然とした判ったような感じが出て来るというようなことではなく、ある根本的な《発見》があって、それに伴って、ものを見る目そのものが変化し、また見たものの意味が全く新しくなり、全体のペルスペクティーブが明晰になってくることなのだ、と思う。したがってそれは、経験が深まるにつれて、あるいは進展するにつれて、その人の行動そのものの枢軸が変化する、ということをももちろん意味している。その場合大切なことが二つあって、一つは、この発見、あるいは視ることの深化更新が、あくまで内発的なものであって、自分というものを外から強制する性質のものではなく、むしろ逆にそこから自分というものが把握され、あるいは定義される、ということ、と同時に、それはあくまで自分でありながら、経験そのものは自分を含めた《もの》の本当の姿に一歩近づくということ、更に換言すれば、言葉の深い意味で《客観的》になることであると思う。文学者や芸術家の創作活動というものは、こういう意味の経験の極地である、と思うし、それはある動かすことのできない構造を持った認識であると言える。認識である、というのは、自分と《もの》との関連にほかならない経験の定着に、それはほかならないからである(注四)。しかし、それは経験とは、何か文芸的創造の素材のようなものだという意味では全然ない。むしろ創造は、経験そのものの、それに対する人間の責任の証印を帯びた端的な姿の一つにほかならないのである。また、これは、本当の経験というものが文芸にたずさわる人の専売であるという意味ではもとよりない。経験をもつということは、人間が人間であるための基本的条件であり、《一つの経験は一人の人間だ》、ということである。したがって、一つ一つの経験は互いに置き換えることのできない個性をもつと共に、人間社会におけるそれであるが故にそれが《客観的に》(この言葉は誤解を招きやすいが)純化されるに従って、相互に通い合う普遍性をもって来るのである。こういう抽象的な言い方はよくないのであり、正確には自分の言いたいところを表現してくれないが、今は、適切な言葉を欠くままに、こう言っておくのである。

 (注三)拙文「霧の朝」参照。
 (注四)私がここで述べていることは、神秘的直感というようなことではない。あくまで日常の経験そのものの構造の中に現れてくる否定することの出来ない事実を指しているのである。あることが《判った》という時、それを極限まで分析する時、もう分析することの出来ないある核、ここでいう全体のペルスペクティーブの変化、主体的には視ることの変化が対象の新鮮化と共に起こることは否定しえないのである。私は、そこに神秘的直感に通ずるあるものがある、と指摘されるならば、それを否定する意志はない。

□森有正『遙かなノートルダム』(講談社文芸文庫、2012.10)所収の「ひかりとノートルダム」から引用した。なお、《 》は引用に当たって挿入したもので、原文では《 》内の言葉に傍点がつく。

 【参考】
【森有正】の見た日本 ~社会構造がもたらす日本語の限界~
【森有正】アイデンティティと「経験」
【森有正】フランスの自然、日本の自然 ~サルトル~
【旅】フランス ~ノートル・ダム~
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【森有正】の見た日本 ~社会構造がもたらす日本語の限界~

2013年01月14日 | 批評・思想
 (1)それまで外側から日本に触れていた森有正は、その戦後において、つまり「一つのイダンティテの感覚」以降、「自分がその中に在る」ことを、地球が重層的に決定されていたあのヴィジョン【注】のように鮮烈に経験するようになる。
   (a)日本Aから見えるフランス
   (b)そのフランスから見える日本B
   (c)日本Aからフランスを見ている(a)の視野に、フランスから日本Bを見ている(b)の視野が侵入した結果、日本Aからじかに見えるようになった日本B
 (c)では、同じ一つの日本が二重化している。このフェーズでは、フランスはもはや特権的な視座になりえない。<私において、自分の経験の起源を問題にするならば、それはフランスへ渡ったことではなく、父の死をめぐる私の姿勢の中に求められなければならない>ということがはっきりする。
 
 (2)森は、フランスから見える日本について、まるで自分はフランス人になったかのように書いたのではない。森は、フランスから見たその日本のなかに同時に自分が日本人として存在していることを痛感しているのだ。「一つのイダンティテの感覚」を強いるこの奇妙な、交錯した遠近法において「日本」について書いた。

 (3)森は、日本語の構造に固執して容赦のない批判的分析を展開した。フランス語に比べればまるで日本語はまだ言語になり切っていない半言語であるかのように。しかし、それは、彼の「経験」というプリンシプルが言葉と経験との関係を根柢的に問い直すものだからにほかならない。 
 森によれば、経験は名辞を定義するものだ。ひとつの自明の概念、例えば「自由」という名について「ああ、自由とはこういうことだったのか!」というような悟り(そのようなものとして直接受け取る)を経験するとき、その経験は「自由」という言葉を定義するものとなっている。このような意味での定義をもたらさないような経験を、森は経験とは呼ばない。これを体験と呼んで区別している。
 ポイントは、「自由」という名辞をあらためて定義するような経験が確実に生きられているか否かだ。森は、それを自他に徹底的に問う。経験によって言葉を定義する不断の運動に、森は思想の一切を賭けている。
 だから、この運動を「日本」に対しても貫徹しようとするとき、それを阻害し停滞させる要因が日本語の構造に見られるなら、経験による定義の運動によってこの障害を突破するために、その構造を分析する。それは、日本語がこのような構造のものである以上、日本人の経験は言葉(名辞)を定義するような「経験」にはついになりえまい、という宿命論と紙一重の分析だ。

 (4)1955年に夙に吉本隆明が明察していたとおり、<日本のコトバの論理化は、日本の社会構造の論理化なしには不可能である>【「蕪村詩のイデオロギー」】。
 この「日本の社会構造の論理化」が、森のいわゆる「経験」だ。例えば「自由」、「戦争放棄」、「個人」、「社会」、など。こうした名辞を経験によって定義する不断の運動だけが「日本の社会構造の論理化」を成し遂げる。なぜなら、森によれば、敗戦によって「終戦の詔勅」があり「平和憲法」が制定されたにもかかわらず、個々の日本人において「戦争」はまだ終わっていないからだ。「戦争放棄」という言葉も「自由」という言葉も、1962年に森自身がパリで経験したように、「カタクリ粉を湯で捏ねる」ように地道に積み上げられた運動が促した結果として一人一人の個人がそれぞれの「戦争」を終わらせるに至ったとき初めてそうした個々の経験によって定義されて、実質的に支えられるようになるのだ。憲法の文言を定義するようなそういう生活のかたちがあるのだ。
 <茶碗一つ洗うにも、ストーヴ一つたくにも、肉を一つ切るにも、それが表れてくる。茶碗一つ正しく洗えない人間がむつかしいことを論じても僕は信じないのである。上手、下手の問題ではない。正しいか正しくないかの問題である。更に問題は、それがどこまで深まるか、という問題である>【『砂漠に向かって』1966年9月18日】。
 憲法の条文について小賢しいディベートをする以前に、まず生活の正しいかたちを個々が練り上げていることが前提なのだ。それ抜きには、どれほど抜け目なく議論しようと、「自由」という言葉も「戦争放棄」という言葉も空っぽの名辞にすぎない。
 逆に、こうした基軸を見失わない限り、<宿命論に陥ることなしに、この問題を正しく論ずる>【「パリの生活の一断面」末尾の「付記」】ことは不可能ではない。ちなみに、ここでういう「この問題」とは、「日本あるいは東洋とヨーロッパ」に関する問題だ。
 森の言葉は、まさにその可能性の「暗黒な経験の坑道」を掘り進んだ。森は、経験によって既存の言葉を定義し直す運動を「日本」に対して貫徹するために、その障害となる日本人の経験の体質と日本語の構造を批判的に分析し記述していたのだ。

 【注】「カルティエ・ラタンの周辺にて」【『旅の空の下で』所収】で森有正が記した「この頃」の夢を山城むつみが整理した3つのフェーズ【「来るべき「戦後」のために」のうち「Ⅰ イダンティテの感覚」、森有正『遙かなノートルダム』(講談社学術文庫)の解説】
   (a)地球Aから見える月
   (b)その月から見える地球B
   (c)地球Aから月を見ている(a)の視野に、月から地球Bを見ている(b)の視野が侵入した結果、地球Aからじかに見えるようになった地球B

□森有正『遙かなノートルダム』(講談社文芸文庫、2012.10)の解説、山城むつみ「来るべき「戦後」のために」のうち「Ⅱ 森有正の「日本」」


 【参考】
【森有正】アイデンティティと「経験」
【森有正】フランスの自然、日本の自然 ~サルトル~
【旅】フランス ~ノートル・ダム~
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【森有正】アイデンティティと「経験」

2013年01月13日 | 批評・思想
 (1)『遙かなノートルダム』所収の9編のエッセイは、「赤いノートルダム」を除いてすべて1962年以後に書かれている。
 1962年は森有正にとって重要だ。森にとって、この年に漸く戦争が終わったからだ。日本では、1945年8月15日に戦争が終わった。<ところが、僕にとっては、今日になってやっと、《戦争》が終わりを告げたのである。>【1962年8月15日の日記】。その少し先では、<こうしてみると、僕にとって戦後は始まったばかりなのである。>とも森は記す。

 (2)(1)の年の末に、この体験を詳しく描写している【「偶感」、(『旅の空の下で』所収】。
 この日、郊外の閑散たる通りを歩いていたら、<突然、啓示が起きた>のだ。家々が、木々が、車が見えた。30年前と同じ自分に戻った。<今までは何物かにとり憑かれていて、自分自身では何も見ず、何も本当は感ぜずにいたことに気がついた。>ところが今、家々、木々、車を見ている。《接触》が急に回復した。<その事実に気がついた時、僕は、狂気が自分から立ち去ったことが判った。>・・・・1932、1933年以来、ずっと森と世界を隔てていた透明の帷が落ち、世界を直に感じることができるようになった。
 それは想像でもなく感情でもなく、一種の感覚だった。<一言でいってしまえば一つのイダンティテの感覚だった。それは稚い頃、東京の暑い日盛りに、木上りをしたり、新宿駅に汽車を見に行ったり、多摩川へ小魚をとりに行ったりしていたその子供がこの僕なのだ、という感覚だった。(中略)問題は、その子供であった僕と、今それとの同一性を突如として意識した僕との間に、何十年も介在していたもう一つの僕は一体何だったのだ、という疑問である。>かくて、戦争のもたらす狂気、人間そのものの狂気が払拭され、はじめて自分の目で、パリ、自分の周囲にあるすべてを見ることができるようになった。

 (3)森の啓示体験は、3つのフェーズに分析できる。
   (a)少年時代の森Aから愛される、すでに大人になった森
   (b)現実にすでにその大人になった森から回想される少年時代の森B
   (c)少年時代の森Aから大人になった森を想像する(a)の視野に、すでに大人になった森から少年時代の森Bを回想する(b)の視野が侵入した結果、少年時代の森Aからじかに見えるようになった少年時代の森B
 (c)では、少年時代の森がAとBとに二重化している。森有正の父(森明)は三男で牧師だったが、有正が14歳のとき、1925年に36歳の若さで亡くなった。父親が死んだあと、「私を見る目」が欠如していた、と森有正は書く【「遙かなノートルダム」】。「私を見る目」は「父の目」であると同時に「神」でもあっただろう。それが、1962年8月15日に突如として回復したのだ。まだ父親が生きていた頃の少年時代の感覚の回復は、亡父の目の復活であると同時に「神」の露頭でもあった。<私において、っじぶんの経験の紀元を問題にするならば、それはフランスに渡ったことではなく、父の死をめぐる私の姿勢の中に求められなければならない。>【「遙かなノートルダム」】

 (4)森父子の遠近法も3つのフェーズに分析できる。
   (a)森少年Aから見た父
   (b)父から見た森少年B
   (c)森少年Aから父を見た(a)の視野に、父から森少年Bを見た(b)の視野が侵入した結果、森少年Aからじかに見えるようになった森少年B

 (5)(2)の「一つのイダンティテの感覚」に戻ると、森は中年の大人としてパリ郊外の誰もいない道を歩いているのだが、精神は幼年時代にタイムスリップし、「夢」の中で子供の時間を生きている。そして、(3)-(c)のとおり、森少年が懸命に手を動かして木登りをしているこの「現在」の時制を、いわば未来が回想することになる手が突き破って露出しているのだ。
 つまり、不意に少年に戻った森は、<もみじの木によじ登った手>をたんに自分の目からだけでなく、当時はまだ生きていた「父の目」からも同時に見ているのだ。<それで思わず自分の手を見たのです。>
 父の死後失われていた「私を見る目」が回復し、自分の手を自分の目と神/父の目の二重の目で見た後には、風にそよぶプラタナスなどを、これまでまるで見たことのなかったかのように見えたことだろう。だから、森ははじめて、自分の周囲にあるものを自分の目で見ることができるようになった。《接触》が急に回復した・・・・父との、神との。
 それが「一つのイダンティテの感覚」だ。
 この転回的な出来事が、1932、1933年から1945年の敗戦後もずっと持続していた森の裡の戦争を、ようやく終わらせたのだ。これは無論、それまで森が「カタクリ粉を湯で捏ね」続けていたからこそ、その「混濁した半流動体」状の世界が「ある瞬間からおもむろに透明になり始め」たのだ。それは1962年の或る朝、不意に起こった。森の「戦争」が「一つのイダンティテの感覚」とともに終わった。そして、森の戦後が始まった。(3)、(4)の2つの遠近法が交錯するあの特異な感覚は、、来るべき「戦後」の遠近法なのだ。

□森有正『遙かなノートルダム』(講談社文芸文庫、2012.10)の解説、山城むつみ「来るべき「戦後」のために」のうち「Ⅰ イダンティテの感覚」

 【参考】
【森有正】フランスの自然、日本の自然 ~サルトル~
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【IT】フェイスブック衰退の後にSNSの未来はあるか

2013年01月12日 | 批評・思想
 (1)Facebook は、2004年に立ち上げられ、2012年10月、その利用者は10億人を越えた。
 しかし、すでに「熱は冷めた」「パーティは終わった」という声が出始め、米国では2012年上半期の利用者数が1.1%下落した。世界14ヵ国でも、「微増か現象」の時代に入った。

 (2)インターネット業界の1年は、かつての10年に匹敵するほど動きが速い。Facebook を始めとするソーシャル・メディアは、まだ表層に浮上していない新潮流に飲み込まれる。Facebook は、今後5~10年で消滅する。【エリック・ジャクソン・「アイアンファイア・キャピタル」創業者】
 この予言の背景に、Facebook のモバイル分野における広告業務への出遅れがある。モバイル専用広告業務の開始は012年6月で、Facebook すらインターネット業界の先を読めていなかったことを証明した。

 (3)米国では、すでに写真投稿へ関心が移った。画像を共有できるSNS「ピンタレスト」が好例だ。写真で人に思いを伝えられるサイトに人気が集まっている。Facebook はその波を察知し、2012年4月、スマートフォン向け写真共有アプリ「インスタグラム」買収を発表した(8月下旬、米連邦取引委員会承認)。

 (4)いまでもFacebook やツイッター利用者は膨大だが、自己顕示欲が幾重にも重なり合った場は、一種の虚像の投影だ、と思う利用者は少なくない。それが米国を始めとする先進国における利用者数減少に反映している。 ⇒ 今後、広告を「クリック」する人が減少する。 ⇒ 収入の8割を広告に頼るFacebook にとって打撃となる。

 (5)Facebook もツイッターも1日に億単位の書き込みがあるが、企業や組織がブランド力を高めようとSNSを利用する努力は、もう効を奏しない。5年前のほうが、むしろ影響力を行使できた。いまはソーシャル・メディアで金儲けしようと考えないほうがよい。インターネット業界で成功者と呼べるのは、ごく僅かでしかない。【ダン・シュワーベル・「ミレニアム・ブランディング」社共同経営者】
 数多くのSNSが登場し、多くの情報が蓄積されているが、プラットフォーム(機器を動かすハードウェアやソフトウェアの基幹部分)が幾つもあるため、ある時期にくると寡占が進む。淘汰されていく。【イーリス・ローマン・「ソングザ」創立者】

 (6)SNSで伝達される情報は、無料だが、生産性がない。ハードウェアを販売するわけではない。主な役割は、あくまでコミュニケーションの仲介だ。
 SNSのサイトは、大脳のシナプスに刺激を与え、一時的な歓喜をもたらすが、完結した話としての要素が含まれていないので、長期的な重要性がない。21世紀の半ばに向けて、人の心はこうした刹那的なセンセーショナリズムに満たされていくのかもしれない。【スーザン・グリーンフィールド・オクスフォード大学薬理学部教授】
 SNSは、閃光のように社会に光を放つが、沈着冷静に状況を把握すると、自然淘汰されていく運命にあるかに見える。

□堀田佳男「フェイスブック衰退の後にSNSの未来はあるか」(「文藝春秋オピニオン 2013の論点」、文藝ムック、2013.1)
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【経済】金融緩和がいきつくはてのインフレ ~日銀引き受け~

2013年01月11日 | ●野口悠紀雄
 (1)2013年の日本経済は、厳しい状況に置かれている。<例>製造業の海外移転は大企業のみならず部品メーカーを始めとする中小企業もこれに続く。

 (2)こうした状況に対して本来必要なのは、経済構造の改革、規制緩和による新しい雇用機会創出だ。
  (a)ただし、こうした政策は、すぐには効果をもたらさない。
  (b)その半面、退出しなければならない産業や企業は、大きな痛み(<例>失業)を経験しなければならない。

 (3)金融緩和は、当面の直接的なコストはゼロだ。したがって、政治的には最も採りやすい。
 しかし、金融緩和するだけで経済の改革が実現できるはずはない。事実、これまで金融緩和が進められてきたにもかかわらず、実体経済に何の影響も及ぼさなかった。
 【理由】日本経済の低迷が続いた。 ⇒ 投資需要がない。 ⇒ 資金需要がない。 ⇒ 日本銀行がマネタリーベースを増やしてもマネーストックが増えない。 ⇒  実体経済に何の影響も及ぼさない。
 総選挙で自民党が圧勝後、大幅な金融緩和に向けた政策が採られることを期待して値上がりした株式市場が忘れているのは、まさにこのことだ。

 (4)他方、財政再建の行方はまったく絶望的だ。
 【理由】これ以上の消費税率引き上げはほぼ不可能だし、相続税などの増税は多額の税収を期待できないし、社会保障制度の抜本的改革は行われそうもなくて社会保障支出は増大を続け、他の歳出も膨張し続け、国債発行も増加し続ける。

 (5)日銀に対する国債購入の圧力は今後ますます強まる。毎年の新規国債発行額のすべてを日銀が購入するような事態になる。
 しかし、日銀が現在方式での国債購入を際限なく続けることができるか、疑問だ。応札額が買い入れ予定額に届かない「札割れ」はすでに何回か生じている。
 これまで深刻な問題が生じなかったのは、ユーロ危機で南欧国債から逃避した資金が日本に流入しているからだ。
 現在の状況は「国債バブル」状態だ。金利高騰は、深刻な影響をもたらす。(a)現在方式での国債購入を進められなくなる。(b)国債価格の暴落によって銀行に巨額の損失が発生する。メガバンクは保有国債の短期化を図っているが、地方銀行・生命保険会社は長期国債の保有が多いので、問題が生じる可能性がある。
 かくて、日銀引き受けが検討される。 ⇒ 実施されると、財政規律がこれまでにも増して弛緩する。 ⇒ 国債発行額はとめどもなく増加する(悪循環の発生)。

 (6)日銀の目標(消費者物価上昇率1%)は、従来方式の国債購入を続ける限り、達成できない。
 むろん、2%も達成できない。
 物価上昇率は、金融政策とは無関係に決まるからだ。<例外>原油価格上昇(近い将来には起こりそうもない)。
 物価上昇率目標はいつになっても達成できず、「国債購入を無制限に続ける」ことを正当化することになる。
 金融緩和の本当の目的は、物価上昇率引き上げではなく、経済活性化でもなく、日銀が国債を購入することなのだ。

 (7)それが仮に(5)の日銀引き受けまで進んだ場合、インフレが引き起こされることが予想される。 ⇒ 資本逃避が生じる。
 現時点で資本逃避が生じていないのは、(a)ユーロ圏からの資金(南欧国債からの流出資金)が日本に流入しているからだ。また、(b)米国が金融緩和を進めているため、米国への資本流出が抑制されているからだ。
 しかし、(a)、(b)のいずれかが大きく変わると、事態は大きく変わる((a)も(b)も状況変化は現実にあり得る)。 ⇒ 資本が流出する。 ⇒ 円安が進む。 ⇒ 輸入価格が高騰する。 ⇒ インフレが輸入される。 ⇒ 国債の実質価値は減少する(長期金利が高騰する)。
 実は、財政危機から脱出する唯一の方法は、これだ。しかし、資本逃避は、いったん始まると加速するので、止められなくなる。2011年以降、日本の証券市場には巨額の短期資金が流入している(日本国債の外国人保有率が高まった)ので、このシナリオは現実的なものだ。
 日本経済は、いま重大な岐路に立たされている。

□野口悠紀雄「金融緩和で日本経済は海図なき航海に出る ~「超」整理日記No.642~」(「週刊ダイヤモンド」2013年1月12日号)
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【心理】組織の論理とアイヒマン実験 ~ブラック企業の心理学~

2013年01月10日 | 心理
  

 (1)ブラック企業が新卒の若者をあの手この手を使って追い出すテクニックを見ていると、こういうことをやらかす上司たちは、よほど冷酷非情、フランケンシュタインのような人物のように見えてくる。つまり、例外的な人物であると。
 しかし、そうとも言えない。この「フランケンシュタイン」も、家に帰ればよき夫、よきパパであったりもする。
 「フランケンシュタイン」たちも、ブラック企業という企業の中で、組織の論理に従って動いているにすぎない。
 ブラック企業内の若者も、自分が追い出される立場に立っていなければ、追い出される若者を目撃しても、黙って見送り、自分がその立場に立たなくてよかった、とホッとしたりする。

 (2)ひとは集団の中で、個人でいるときには想定できない行動をとる。これを実証した名高い実験が、ミルグラム実験【注1】だ。「アイヒマン実験」とも呼ばれる。

 (3)イェール大学のスタンレー・ミルグラムは、1961年、学習に対する罰の効果を調べる、という目的で次のような実験をおこなった。
 被験者は、新聞広告によって募集した。郵便局員、高校教師、セールスマン、エンジニア、肉体労働者などふつうの住民296名の応募があり、このなかから被験者が選ばれた。
 教師役となった被験者(X)は、学習役となった別の被験者(Y)に単語の対を読みあげて学習させる。次に、Xは最初の単語を4つの単語と並べて読みあげ、Yに正解を言わせる。Yが間違えると、ただちに電気ショックで罰を与える。Yが確実に電気ショックを受けるよう、両腕はイスに固定され、拘束されていた。
 電気ショック送電器には、30個のレバースイッチが付いていて、左から右に15ボルトから450ボルトまで送電できる。「かすかなショック」「「中程度のショック」「強いショック」「非常に強いショック」「危険-すごいショック」などと表示されていた。 Xは、次のように指示された。Yが間違えるたびに電気ショックを与える。間違えるたびに電気ショックの水準を一つあげる。ショックを与える前にレバースイッチの表記を読みあげる。30番目の450ボルトの水準に達っしたら、この水準で実験を続ける。
 Xが最高の450ボルトで2回続けると実験は停止された。
 なお、Xは実験開始前に45ボルトのサンプル・ショックを受けるので、XはYの痛みを実感できる。
 実験者は、Xが実験の続行を嫌がっても、Xが従うまで(1)「お続けください」、(2)「実験のために、あなたが続けることが必要です」、(3)「あなたが続けることが絶対に必要です」、(4)「迷うことはありません。続けるべきです」・・・・という順で勧告し続ける。Xがどうしても実験者に従わない場合は実験が中止される。
 Yは、じつはサクラであった。事前に入念な演技指導がおこなわれた。
 Yは、75ボルトのショックを受けるまでは不快感を示さず、ちょっとだけ不平をもらす。電圧が上がると不平が増える。120ボルトになると大声で苦痛を訴える。135ボルトでは苦しいうめき声となる。150ボルトでは「もう嫌だ!」と絶叫する。180ボルトでは「痛くてたまらない」と叫ぶ。270ボルトでは金切り声になる。300ボルトでは絶望的な声になる(実験ではこのあたりでXは実験者の指示をもとめたが、無答は誤答であるので、ショックを与えるように指示された)。315ボルトではすさまじい悲鳴をあげる。330ボルトでは無言になる。
 精神科医、大学院生、教員など100名にXの行動を予測させた。Xの大部分は、150ボルトの水準にいくまでに実験を止めるだろうし、最高のショック水準にいくのはせいぜい千人に一人くらいだ、という予想だった。
 ところが、40名のXのうち26名は、単に実験者が命令しただけで450ボルトの致死水準のショックをYに与えつづけた(Xはいらだち、ためらう様子を見せはした)。

 (4)ミルグラムは、XとYとの距離の要因をいれた実験など延べ11の実験をおこなった。
 追試は45年間おこなわれなかった。
 2006年、バーガが第5実験(学習者が心臓の懸念を表明する音声フィードバック条件)の追試をおこなった。40名の教師役被験者(X)のうち、150ボルト以上の電気ショックを与えたのは、28名であった。ミルグラムの第5実験では40名中33名であり、わずかに少ないだけであった。
 「ミルグラムの服従実験は、社会システムに組み込まれた一塊の人間を、あまりにも生々しく浮き彫りにした」【注2】

 (5)「アイヒマン実験」には、先行実験がある。1951年、米国のアッシュは、集団における同調性の実験をおこなった。集団の圧力に屈すると、行動にどのような歪みが生じるかを調べたのだ【注3】。
 このとき、アッシュの助手を務めたのがミルグラムだ。

 (6)誰もが権威に負けて服従するわけではない。盲従しないでいることのできる条件が、少なくとも2つある【注4】。

 【注1】スタンレー・ミルグラム(岸田秀訳)『改装新版 服従の心理:アイヒマン実験』(河出書房新社、1995)
 【注2】ブラック企業は若者を壊すが、じつはブラック企業の担い手(上司たち)も壊す。冷酷非情に部下に犠牲を強いて戦果をあげたリーダーが後に自殺した事実を、ーヴ・グロスマンは『戦争における「人殺し」の心理学』で報告している【「【読書余滴】リーダーの条件 ~ミルグラム実験と組織~」】。
 【注3】「書評:『心理学で何がわかるか』
 【注4】「【読書余滴】権威に盲従しない者 ~「アイヒマン実験」から~

□今野晴貴『ブラック企業 ~日本を食いつぶす妖怪~』(文春新書、2012)の第4章「ブラック企業の辞めさせる「技術」」

 【参考】
【本】ブラック企業 ~日本を食いつぶす妖怪~
【本】ブラック企業の実態
【社会】若者を食い潰すブラック企業 ~傾向と対策~
【本】ブラック企業の「辞めさせる技術」 ~「民事的殺人」~
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【本】ブラック企業の「辞めさせる技術」 ~違法すれすれ~

2013年01月09日 | 社会
 (1)雇用契約終了には、(a)退職、(b)辞職、(c)解雇の3パターンがある。
 合意による(a)に対して、(b)と(c)は紛争含みだ。
 (c)には、客観的に合理的な理由(社会通念上相当であると認められる理由)が必要だ。「合理的な理由」は、①普通解雇(労働能力)、②整理解雇(経営上の必要)、③懲戒解雇(労働者の行為)・・・・の3つに類型化される。いずれも厳しい規制がかかっている。
 ①は、(ア)疾病、(イ)勤務成績、(ウ)労働者の適正・・・・などを問題とする場合だが、会社側のさまざまな努力にもかかわらず改善の可能性がない場合にしか認められない。
 ②は、(ア)解雇の経営上高度な必要性(企業全体の赤字など)、(イ)解雇回避努力、(ウ)人選の合理性、(エ)労働組合・当事者との協議・・・・の4要件が求められる。これも厳しい規制が課せられている。
 ③は、適用される場合が就業規則に明記されていることと、その内容の合理性と厳格な適用が求められている。

 (2)(1)-(c)に対する規制が、使用者にとって法的なリスクだ。
 (1)-(c)-①は、将来にわたる教育可能性などが総合的に判断されるため、会社側はそう容易には裁判で勝てない。
 また、ブラック企業はそのほとんどが好業績であり、新卒を大量に採用するということは、拡大基調にある。よって、(1)-(c)-②-(ア)があてはまる企業はほとんどない。また、大量に採用し続けるかぎり、(1)-(c)-②-(イ)の回避努力を一切行っていないことになる。だから、(1)-(c)-②が認められることは殆どない。
 要するに、法的には、新卒の大量解雇は絶対に不可能だ。
 だから、解雇せずに辞めさせる「技術」が必要になる。つまり、(1)-(c)ではなく、(1)-(a)、(1)-(b)に持っていく「技術」だ。
 恐るべきは、ブラック企業が(1)-(a)、(1)-(b)の形式を手に入れるため、若者を意図的に鬱病に罹患させるという事実だ。

 (3)(1)-(c)を避ける退職勧奨は、1990年代後半から2000ン年代初頭の大規模なリストラで、「早期退職」という形で行われてきた。退職者には好条件が提示された。退職勧奨はあくまで(1)-(a)であり、同意を必要とするから、こうした交渉が行われるのは当然だった。
 しかし、ブラック企業の退職勧奨は、これとは全く異なる。退職の特典がないだけならまだしも、いじめ、嫌がらせ、パワハラによって自ら辞めるように仕向けていくのだ。
 本来、退職勧奨は、しつこく行ったり、やり方が暴力的なら、「勧奨」と見なされず、退職強要とされる。「同意」の形式をとっても無効とされるし、損害賠償の請求も可能になる。
 ブラック企業は、ここまで熟知して、ただ退職を求めるのではなく、自己都合退職を自ら行うように追い込む。これによって、退職を要求したという形式すら失われ、早期離職した若者のほとんどが自己都合退職扱いとなっている。そして、自己都合退職には社会的制裁を与えられる。
 自己都合退職への追い込みとは、自分から辞めるしかないと思う状態への追い込みだ。仕事上の命令や訓練の一環であるかのように偽装しながら若者を追い込んでいく。
 <例>絶対にこなすことができないノルマを課し、これができない場合に「能力不足」を執拗に叱責する。
 ひとたび鬱状態になれば、「辞めたほうがいいのではないか」という「アドバイス」も親切なものに聞こえてくる。
 むろん、こうしたハラスメント自体は違法行為だ。法的には、(a)命令や訓練の真の目的がハラスメントであれば、使用者の権利濫用となるし、(b)命令や訓練が(仮に真に営業目的だったとしても)やり方過剰であれば違法になり得る。(a)は立証困難だから、実際には(b)に焦点があてられる。特に、業務と関係ない人格を傷つけるような発言は、いかに叱責であろうとも認められない。だが、実際には圧倒的な力の格差と恐怖によって、ほとんどの場合自分から辞めてしまう。鬱病に罹患しても、その責任を争うことなどできない。

 (4)これらの手法がひどくなると、「民事的殺人」と呼び得る状況にまで至る。
 職場のことを思い出すだけで過呼吸になる。涙が止まらなくなる。声が出せなくなる。鬱病になる。人間の破壊が極限まで進むと、権利行使の主体となりえないほど完全に破壊されてしまう。
 ブラック企業がこれを行う動機は、「選別」の場合があるし、「使い捨て」の場合もある。「無秩序」の場合には、上司が気に入らない部下を意図的に鬱病にして辞めさせるケースもよくある。
 リーマンショックを境に、こうした行為が広がった。内定切りや派遣切りが問題になっている一方、入社したばかりの社員に対して容赦ないいじめ、パワーハラスメントが吹き荒れた。

 (4)辞めさせる「技術」の高度化
   (a)カウンセリング方式・・・・個別面談で抽象的な「目標管理」を行い、自己反省を繰り返させる。カウンセリングを通じて、「怠惰な人生」など自己の内面を否定させ、自ら退職に追い込む手法だ。
   (b)特殊な待遇の付与・・・・「みなし社員」「準社員」「試用期間」など、辞めることを前提とした呼称を設けることで、自分から辞める決意を促す方式だ。<例>「退職かみなし社員かを選びなさい」といった選択を迫る。ひとたび「辞めるはずの正社員」になったら、会社の中で「村八分」の扱いを受ける。法的には、待遇の変化は会社からの一方的な契約解除である「解雇」の通告と同じ効果を持つが、労働者の目にはあたかも「自分の選択」であるかのように映り、事態が転倒して見えてしまう。ために、労働者は解雇が自己責任であるかのような思いに至る。心理トリックを用いた洗練された手法。
   (c)ノルマと選択・・・・ノルマについて規制はない。どこまでが適正か、法的、社会的に不明確だ。ために、ノルマの達成・非達成は労働者の能力や業務方法の問題に落とし込まれ、結果、自己都合退職に追い込まれてしまう。研修や「再教育」を形式的にだけ行って、「能力がない」ことの根拠にする場合もある。
   (d)その他(ソフトな退職強要)・・・・あからさまなハラスメントは行わない。ただひたすら、会社に「居づらくなる」方法をとる。<例>「どうしたいの?」と定期的に言葉をかけ、居続けたにくい雰囲気とプレッシャーを与える。「仕事ができないなら、違う仕事を紹介できるけれど」とか、「私だったら採らない」とか言い、上司らが退職を「求めている」というニュアンスを伝えつづけることで居づらくさせる。

□今野晴貴『ブラック企業 ~日本を食いつぶす妖怪~』(文春新書、2012)の第4章「ブラック企業の辞めさせる「技術」」

 【参考】
【本】ブラック企業 ~日本を食いつぶす妖怪~
【本】ブラック企業の実態
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【社会】若者を食い潰すブラック企業 ~傾向と対策~

2013年01月08日 | 社会
 (1)これまでの企業のパワハラやリストラ問題と違う。
 ブラック企業は、社員を単なる「コスト」としてしか考えていない。初めから使い捨てることを前提に大量採用し、大量解雇する。経営状態のよしあしに関係なく、会社が不要と判断したら退社させる。やめさせるための手段として組織的、恒常的にパワハラを行う。

 (2)もともと日本の大企業には、ある一時点で見れば、ブラック企業的要素があった。戦後、大企業は終身雇用制、年功賃金を守る代わりに社員を猛烈に働かせた。経済成長期には、それでも「ウィン・ウィン」の関係が成立していた。
 バブル崩壊以降、この関係がそれが徐々に変化していった。企業は社員の雇用と生活を守れなくなったのに、サービス残業を強いる労働環境が残った。見返りのある滅私奉公が、見返りのない滅私奉公に変わっていった。
 ブラック企業は、社員を徹底的に滅私奉公させ、見返りをまったく保障しない。ほころびかけた日本型雇用の「おいしいところ取り」をしているようにも見える。しかも、不景気が長引く中、新卒対象の労働市場は買い手側有利の状況が続く。社員を辞めさせても、いくらでも簡単に補充できる。

 (3)被害を受けるのは個々の若者だけではない。日本の社会とその未来も被害を受けている。
 長時間労働やパワハラによって、ブラック企業を実質的に解雇(形式的に自己都合退職)させられた若者の多くが、鬱病などのメンタルヘルス疾患を発症する。しかし、形式上は自己都合退職だから、労災は申請できない。雇用保険でも不利益を被る。再就職は難しく貧困層に陥る人が続出する。こうした治療費や生活保護費などの経済的負担が、社会全体に押しつけられる。

 (4)ブラック企業の手口は巧妙さを増している。食い詰めた弁護士や社会保険労務士が企業をたきつける例がある。また、それまでちゃんとしていた企業が、経営問題をきっかけにブラック化するケースも出ている。
 2011年度の個別の労働紛争の相談の件数は、過去最多の約25万6千件。うち解雇による相談件数は減少したが、自己都合退職に関する相談件数は約2万6千件で前年度比28.1%増加、嫌がらせ・いじめなどの相談件数は約4万6千件で16.6%増加した。

 (5)ブラック企業のわなに陥らないようにするために、企業研究の徹底や、志望先の労働条件や離職率をきちんと確認すること。だが、就職難の折、学生は内定をとるのに精いっぱい。大学側も一人でも多く就職させるのに必死でこれといった有効策はない。

 (6)ブラック企業を見分ける目安の一つは、長く働いている女性社員が多数いるかどうかだ。出産、育児などの負担が多い女性が働ける企業であれば、まず安心だ。
 そして、万が一、入社した企業がブラック企業だと思ったら、早めに専門機関に相談すること。客観的に見てブラック企業の可能性が高いとわかったら、退職するのが現実的な対処だ。法的に企業の違法行為を争うことができるが、そのまま会社に残って病気になったら元も子もない。辞めるリスクより辞めないリスクの方が大きい。

□記事「若者を食い潰すブラック企業」(2013年1月5日付け朝日新聞(be report」))

 【参考】
【本】ブラック企業 ~日本を食いつぶす妖怪~
【本】ブラック企業の実態

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【森有正】フランスの自然、日本の自然 ~サルトル~

2013年01月07日 | 批評・思想
 1966年から1967年にかけて雑誌「展望」に断続的に載った3つのエッセイ「霧の朝」「ひかりとノートルダム」遙かなノートルダム」は、単行本『遙かなノートルダム』(筑摩書房、1967)で読み、同題(角川文庫、1983)で再読し、同題(『森有正エッセー集成3』、ちくま学芸文庫、1999、所収)でまた読み返し、このたび講談社文芸文庫入りしたことで、またまた手に取った。

 森有正の「経験」は分かりやすい概念ではないが、臨床心理学に携わる人なら、ピンと来るかもしれない。加賀乙彦は、精神医学を論じたどこかで森有正の「経験」に言及していた。

 ここでは、日本の自然とフランスのそれとの違いについて森有正を引用する。
 日本の自然が人間も自然もない関係、対立のない関係にあって、それは自然が人間の感情に彩られているからだ、と森は整理する。森の議論を俳句で例示してもよいだろう。<鳥どもも寝入つてゐるか余呉の海>【八十村路通】から<翡翠の飛ぶこと思ひ出しげなる>【中村草田男】まで。
 他方、フランスの自然はあくまで自然として其処にあって、人間はその自然の一部という関係であり、その孤独があってこそ人間に固有の「経験」が生まれてくる、と森は言う。

 <秋、晴れた空、紅葉、古寺、谷川、これだけ言えば、フランスの秋も日本の秋も変わりはないように見える。しかし実際にそこにいてみると、何という大きな違いだろう。それはよい、悪いの問題ではない。自然までがちがう。それはどういうことだろう。一度だけ来日中のサルトルに会ったことがあるが、日本では自然までが違う、と言っていた。そしてサルトルは、自然は一つの筈だが、とつけ加えた。だからかれは、そう言った時、風土のちがいを決して忘れているわけではないのだ。そういうものを考慮に入れても、日本の自然はいかにも特殊だ、と言いたかったのだと思う。私にとっては、それは日本の自然は人を孤独にしない、という点に要約できると思う。人間の感情があまりにも深く自然に浸透している。そういう感じである。どういう風景を見ても、それと直接触れることができない。そこには先人によって詠まれた和歌や俳句がすでに入りこんで来る。日本の自然は余りにも人によって見られており、また日本人は、そういう温か味のある自然を求めているようである。そしてこれは人間と人間との関係がそこに投影されているだのだと思う。だからそれは人を孤独にしない。フランスではその逆のようである。自然はあくまで自然としてそこに在る。そういう自然の中に入る時、人は孤独になる。そしてこの関係は、人間同士の間にも投影される。人間はあくまで自然存在を強く帯びており、その孤独の中から人間経験が生まれてくるのである。>【「遙かなノートルダム」】。

 孤独の中から。
 だから、<世界何十億の人がいようとも、その人の数だけの異なった経験があるわけであり、それは並大抵のことではないのである。>【同】

□森有正『遙かなノートルダム』(講談社文芸文庫、2012.10)
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【本】震える牛 ~安い食品の危険~

2013年01月06日 | 小説・戯曲
 映画や本(ミステリーなど)を5点法で評価する例を時々見かける。
 あの1点・・・・5点は、「比率尺度」ではあるまい。乗除の演算はできない。5点は1点の5倍評価できる、とは言えない。「間隔尺度」ですらないだろう。平均をとっても意味がない。せいぜい「順序尺度」ではあるまいか。5点は4点よりも良く、4点は3点よりマシ、といった尺度だ。

 ここでは、小説の評価は二分法で行う。
 とても奇妙な言い方になるが、もし仮に私=「語られる言葉の河へ」管理人1がその小説をまだ読んでいないと仮定した場合、私=「語られる言葉の河へ」管理人2=未読の私に対してその小説を読んでみるとよいと薦める場合には○で、読まなくてよいと斬って捨てる場合は×とする。

  ○ 読んでみてよい小説
  × 読まなくてよい小説

 他人に薦めることは考えていない。性格や好み、生活歴や読書環境が一人ひとりによって違う以上、万人に推薦できる小説なぞない。
 A・ティボーデによれば、スタンダリアンは『赤と黒』党と『パルムの僧院』党にハッキリと分かれるそうだ。同じスタンダール愛好者でもそうなのだから、ましてや、スタンダールを好むか嫌うか不明な人に『赤と黒』を薦めるわけにはいくまい。

 ところで、この二分法によれば、『震える牛』は○だ。
 ミステリーだから、あまり細かいことは書けないが、食の問題が犯行の動機づけに大きく関係している。食の問題とは、簡単にいえば「安かろう、悪かろう」ということだ。例えば、
 <例1>売価500円の牛肉・・・・店の利益が出るためには原価は100円以下、そうなると安い輸入牛肉でもまず無理で、混ぜものと添加物を増やした代用肉になる。メニュー表示に100%ビーフとあっても、老廃牛の皮や内臓から抽出した「たんぱく加水分解物」でそれらしい味を演出している。そこに牛脂を添加して旨味を演出するから一応100%らしい食べ物になっているだけのこと。
 <例2>3個250円のおにぎり・・・・原価80円程度。間違いなく古々米が原料で、乳化成分、ブドウ液糖、増粘多糖類を加えていなければ、とても食べられるシロモノにはならない。
 <例3>小エビの載った海鮮サラダ・・・・次亜塩素酸ナトリウムという消毒剤、アスコルビン酸ナトリウムという酸化防止剤のプールに浸けている。サラダの野菜が1日経っても黒ずんだりしないのは、ちゃんと理由がある。

 フィクションに書かれた話なので、鵜呑みにする必要はない。しかし、読んでいるうちに胃が落ち着かなくなってきて、突っ込んで調べてみたくなる人もいるだろう。
 T.S.エリオットは、チェスタートンを論じて、純文学より大衆小説のほうが影響力が大きいと言った。
 少なくとも食の問題に関して、『震える牛』は読者に影響力を発揮すると思う。

□相場英雄『震える牛』(小学館、2012.2)
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【本】アマチュア書評の妙味 ~ネット書評の意義~

2013年01月05日 | ノンフィクション
 書評の対象となる本に関して、あるいは本の背景に関して蘊蓄があると、あるいはちゃんと調べていると、「書評」は生彩が増すし、読んで面白い。
 例えば、ペトリ・サルヤネン『白い死神』。評者は、土屋敦だ。

 土屋は、まず「書評」の前半で、本の内容を紹介する。それによれば、本書は、フィンランド軍の狙撃手、シモ・ヘイヘに対するインタビューの記録だ。ヘイヘが活躍した舞台はソ連との「冬戦争」だった。零下30~40℃の厳寒と寒風のなか、スコープを使わないで400m先のターゲットにあてた。狙撃の成果は、記録されたもので542人。インターネット上、歴代スパイナーの最高位に位置づけられる、うんぬん。一部ネット上では有名、とも土屋はコメントする。
 土屋は、「書評」に「「ムーミン谷のゴルゴ13」の実像」と副題をつける。言い得て妙だ。

 ここまでは、本の内容の、つまりインタビュイーの簡潔かつ上手な紹介だし、それにとどまるが、この「書評」ですごいところは、本書の背景の解説に後半のほとんどを充てている点だ。つまり「冬戦争」と現代フィンランド史について、彼我の兵力差、フィンランド軍の必死の防戦、「雪中の奇跡」、数々の英雄たち、さらにフィンランドをとりまく当時の国際情勢まで、鮮やかに整理してのける。
 もしかすると、現代フィンランド史を語りたかったから『白い死神』をとりあげたのではないか、と思わせるくらいの力の入れようだ。

 その甲斐はあったと思う。読者は、このいささかバランスを欠いた「書評」のおかげで、ペトリ・サルヤネンにも、フィンランドにも関心を掻き立てられる。
 桑原武夫は『文学入門』で、小説を読むのはインタレストからだ、と言ったが、これはノンフィクションだって事情は同じだ。
 「「ムーミン谷のゴルゴ13」の実像」の筆の置き方もよい。学力世界第1位、繁栄している国第1位、低失業率、高福祉国・・・・と今のフィンランドが与える印象を指摘し、<それはいわば、生まれたての赤ん坊が、生死にかかわるような危機と試練に晒され続け、そのなかで常に命を賭したギリギリの選択を続けて勝ち取ったものである。>と締めくくる。この「印象」は欧州経済危機で少し事情が変わったが、むろん、ここでは些事というしかない。

 こうした思い入れが伝わってくる「書評」が、『ノンフィクションはこれを読め!』にはほかにもある。この本は面白いぞ、ここが面白いぞ、という「書評」もあるが、概して、思い入れが抑制された筆致で記されたもののほうがインパクトが強いと思う。
 要するに、『ノンフィクションはこれを読め!』の「書評」は玉石混淆なのだが、もともとネットで公表された「書評」を抜粋したものだから、厳格な注文はつけないでおこう。要は、一読してよかった、という本が紹介されていればよい。なかに、感服させられる「書評」があったら儲けものなのだ。編著者も書肆もそういう考え方からか、値段も手ごろな1,300円だ。読み捨てても苦にならない価格だ。 
 そういえば、『ノンフィクションはこれを読め!』には本の価格が明記されていない。刊行年も漏れている。これはアップ・ツー・デイトな読書案内としては不親切だ。
 
□成毛眞・編著『ノンフィクションはこれを読め! ~HONZが選んだ150冊~』(中央公論新社、2012.10)

 【参考】
【本】まず事実、何よりも事実 ~ノンフィクションの魅力(1)~
【本】HONZが選んだ150冊 ~ノンフィクションの魅力(2)~
【本】HONZのシロウト書評の限界 ~原発事故~
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【本】HONZのシロウト書評の限界 ~原発事故~

2013年01月04日 | 震災・原発事故
 書評は一定の実務的経験ないし学問的蓄積のある人が、その専門分野の本を論じるのが本来の姿だと思う。さもないと、問題が十分に掘り下げられなかったり、ネットでも入手できる基本的な情報が看過されたりして、かえって本の価値を貶める。原発事故をテーマにした本は、殊に問題点を見逃しやすいように思われる。
 
 「HONZが選んだ150冊」には、 震災・原発事故に関する本が5冊とりあげられている。
  (1)河北新報社『河北新報のいちばん長い日』
  (2)彩瀬まる『暗い夜、星を数えて ~3・11被災鉄道からの脱出~』
  (3)宮台真司ほか『IT時代の震災と核被害』
  (4)鈴木智彦『ヤクザと原発』
  (5)岩佐『仮設のトリセツ』

 (4)は、「語られる言葉の河へ」でもとりあげた。このときは、福島第二原発の汚染に着目したし、潜入が情報隠蔽を暴く一手段という観点から拾いだしているから、本書の表題となっているヤクザについて部分的にしか触れていない【注1】。ただし、除染・廃炉ビジネスに関連して、本書にもう一度言及している【注2】。
 震災・原発事故のような大きな問題・テーマは、個々の本ごとに論じるより、複数の本を横断的にとりあげるほうが、読者の知見を増やすに役立つと思う。1冊ずつ論じる書評は、どうしても限界がある。
 それでも、評者が論じる主題(ここでは原発ないし原発事故)について浩瀚な知識と広い視野を持っていればよいのだが、原発ないし原発事故に詳しいアマチュア書評家など、滅多にいないだろう。
 はたして、「HONZが選んだ150冊」で(4)を論じた内藤順は、ツボをはずしている。<かつてヤクザの分類に博徒系、的屋系などと名伽藍で、「炭鉱暴力団」という項目が存在していた。暴力という原始的、かつ実効性の高い手段は、国策としてのエネルギー政策と常にセットとして昔から存在しており、原発への関与もその系譜の中に位置するものなのだ。>といいセンまで迫りながら、<たしかに暴力団や放射能は怖い。しかし、事実を知らないということは、もっと怖いことでもある。>などいうモラリスト的感想に帰着させてしまっている。だから、<光は闇より出でて、闇より暗し。>などという意味ありげな、しかし何を言っているのかわからない警句で締めくくる醜態を露呈するのだ。

 原発作業員が直面している問題は、関連する新聞記事をすこし丁寧に追跡すれば、「怖い」で済ませられないことがすぐわかったはずだ【注3】。そして、この国の将来は、事故を起こした原発がぶじ廃炉にもっていけるかどうかにかかっていること、そのためには技術を持った作業員が安定的に確保されるかどうかに拠ることが分かったはずだ。ところが、原発作業員は、福島第一原発事故より前から、使い捨てにされてきた。その事実は、今では広く知られている【注4】。原発にも原発事故にもシロウトの当方でさえ、それくらいは知っている。
 書評した内藤は、せめてネットで平井憲夫氏の告発を読むくらいの労力はかけるべきであった。

 【注1】「【震災】原発>福島第二原発の汚染 ~ヤクザと原発~
 【注2】「【原発】停止しても25兆円儲ける原子力ムラ ~除染・廃炉ビジネス~
 【注3】「【原発】作業員の不足と待遇格差 ~政府の無為無策~
 【注4】「【震災】原発で働く作業員の現実
 
□成毛眞・編著『ノンフィクションはこれを読め! ~HONZが選んだ150冊~』(中央公論新社、2012.10)

 【参考】
【本】まず事実、何よりも事実 ~ノンフィクションの魅力(1)~
【本】HONZが選んだ150冊 ~ノンフィクションの魅力(2)~
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【81】02 情熱の危機

2013年01月04日 | ●アランの言葉
 <情熱や情熱の危機は、冷静な吟味によって幾分は調節されるが、また同時に年齢の加減でも冷めるものだ。>【序言】

□アラン(小林秀雄・訳)『精神と情熱に関する八十一章』(創元ライブラリ、1997)
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【81】01 精神と情熱に関する八十一章

2013年01月04日 | ●アランの言葉
 これから1年間、折に触れて引用する。単なる引用にとどめるつもりだが、多少の注釈、多少の所見を付するかもしれない。なお、引用は(5)の順序どおりではない。
 <凡例>
 (1)テイストは、小林秀雄・訳『精神と情熱に関する八十一章』(創元ライブラリ、1997)である。
 (2)テキストからの引用は、< >で示す。
 (3)タイトルの「【81】01」は、ブログで『精神と情熱に関する八十一章』について書くのが1回目を意味する。
 (4)本文の「【01-01】」は、(5)に記す目次の「第一部第一章」を意味し、「【解説】」は中村雄二郎による「小林秀雄訳・アラン『精神と情熱に関する八十一章』について」を意味する。
 (5)目次は、次のとおり。

    まえがき
    序言
    第一部 感覚による認識
      第一章 感覚による認識のなかにある予想 
      第二章 錯覚 
      第三章 運動の知覚
      第四章 感覚の教育
      第五章 刺激
      第六章 空間
      第七章 感覚と悟性
      第八章 物
      第九章 想像
      第十章 異なった感覚による想像
      第十一章 観念の連合
      第十二章 記憶
      第十三章 からだのなかの痕跡
      第十四章 連続
      第十五章 持続の感情
      第十六章 時間
      第十七章 主観的なものと客観的なもの

    第二部 秩序ある経験
      第一章 あてどのない経験
      第二章 観察 
      第三章 観察者の悟性
      第四章 類推と類似
      第五章 仮設と憶測
      第六章 デカルト讃
      第七章 事実
      第八章 原因
      第九章 目的
      第十章 自然の法則
      第十一章 原理
      第十二章 メカニスム
    第三部 推理による認識
      第一章 言語 
      第二章 会話
      第三章 論理学あるいは修辞学
      第四章 注釈
      第五章 幾何学
      第六章 力学
      第七章 算術と代数学
      第八章 むなしい弁証法
      第九章 形而上学的推論の調査二つ三つ
      第十章 心理学
    第四部 行為
      第一章 判断 
      第二章 本能
      第三章 宿命論
      第四章 習慣
      第五章 決定論
      第六章 精神と身体の一致
      第七章 自由意志と信念
      第八章 神と希望と慈愛
      第九章 天才
      第十章 懐疑
    第五部 情熱
      第一章 幸福と倦怠 
      第二章 賭博熱
      第三章 恋愛
      第四章 自愛
      第五章 野心
      第六章 貪欲
      第七章 人間ぎらい
      第八章 妄想症
      第九章 恐怖
      第十章 怒り
      第十一章 暴力
      第十二章 涙
      第十三章 笑い
    第六部 道徳
      第一章 勇気 
      第二章 節制
      第三章 誠実
      第四章 正義
      第五章 再び正義(つづき)
      第六章 再び正義(つづき)
      第七章 権利と力
      第八章 知恵
      第九章 魂の立派さ
    第七部 儀式
      第一章 連帯関係 
      第二章 礼儀
      第三章 結婚
      第四章 礼拝
      第五章 建築
      第六章 音楽
      第七章 演劇
      第八章 狂信
      第九章 詩と散文
      第十章 公の力
   訳者後記
   あとがき
   小林秀雄訳・アラン『精神と情熱に関する八十一章』について・・・・中村雄二郎 

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