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中学国語指導案・少年の日の思い出研究3・論題17題の検討

2011-02-01 05:32:46 | 中高国語など指導案
2011/2/9up全ページ目次
中学国語指導案・少年の日の思い出研究3・論題17題の検討
作成日2011/02/08~09
zzrさんへ!(その2)
丁寧なお返事を有難うございました。本気ですね(笑)
数日間で調べたこと、考えたこと、書いたことがありますが、
それも混ぜながら、今回のお返事に一つずつ答える形にします。
ただし、僕の答えは「正解」ではありません。僕の解釈・見解です。
国語教員には異なる考え方を持つ人が数え切れないほどいて、日本中バラバラの授業をしています。だから、統一した学力がつかないのです。
<投稿文>
こんばんは。遅くなりました。
問題点の返答をできるかぎりでしていきます。 (zzr)
2011-02-08 00:45:31
(2)の2
授業でもここの二人称の変化に着目しよう。という発問をしました。「この場面以外では、この少年・彼・例の先生の息子・あの模範少年という表現が使われているが、ここでの感情の高ぶりの原動力はなんだろうか?」→エーミールは金持ちで道具も一級品。それに比べ僕の道具は立派ではなかった。でも、蝶に対する情熱は本物で、それをバカにされたのが我慢ならなかった。その感情が「あいつ」に込められていると考えました。
(2)の3と4
「のどぶえ」は言われてみるとおかしいなと感じました。友人とは、「殴りかかりそうになった。がよくある表現だよね?」という話はしました。実際には行動に起こしてはいなく、飛びかかりそうになるほど激怒していることを表現していると考えています。
(3)の1と2
これは授業後の反省会で、プリントと紙板書で一致していないことを指摘されて、二つの表現の違いは何だろう。一文字違うだけでどう影響するのか考えたからです。
(3)の3
本文最後のページに「学習の窓」に「翻訳作品を読み味わう」という手引きがある。この教材で海外の作品に興味を持ってもらうというねらいがあると思う。翻訳作品と言っているが、ヘルマン・ヘッセのドイツの全集にはこの作品は載っていないと聞いた。この作品はヘッセのものであるが、日本で広まったのは高橋健二さんのすばらしい日本語訳によるところが大きいと思う。よって、翻訳者の意図を個人的には優先したい。
(4)の1と2
(3)の1と2と重複しますが、ミスから生まれた考えだったので「学習のねらい」まで考えていませんでした。
(5)の1
前者は誰かに止めに入られ物理的に行動できなかったときなどに使う表現で、後者は僕の意思が入っているので(盗みを犯した後ろめたさ)表現としては適切だと判断しました。
(5)の2
生徒役の学生に「その意見は本文のどこにあるの根拠は?」と言っておきながら、自分自身の意見には根拠がなく個人の推測です。
(6)の1
作者論と作品論がわかりません。語句の解説をお願いします。
(6)の2
教材解釈(教材研究)では考慮するべきだと思います。授業で使うことがなくても、調べておくことで教材をよく知ることができると考えます。
(7)の1と2と3と4
ドイツ語のことです。(3)の3でもありましたが、ヘッセと高橋さんと意図は一致していなかった考えます。高橋さんが読者にいろいろな受け取り方をさせるため、わざと遠まわしな表現をしているのではないかと考えたからです。(書くとしたら、「なぐりかかるところだった。」一般には人間はのどぶえに攻撃をしないと思う)また、高橋さん以外の翻訳が副読本として扱われていた時期があったと認識しています。年度により言い回しが異なるというのは初耳でした。「出版社が」時代により変えていたのならば調べ並べるうちに入れる必要はないと思います。
このレポートは教材研究として提出するように言われていますが、指導案も作ったので入れようと思っています。
中学一年生に「授業する」内容・方法について論点を絞ることを徹底できていませんが、宜しくお願いします。

<まずzzrさんへ質問>
(ブログ作成上参考にしたいので教えて頂けると助かります)
 <1 なぜこのサイトに質問して下さったのですか?>
 <2 質問をしたのはこのサイトだけですか?>
もし他に質問していないのならば、他サイトに同じ質問すると情報が増え考え方を比較できてよいかも。

<投稿文への回答>投稿文は黒字・回答は茶色字とする
(2)の2「あいつ」という表現の意味
授業でもここの二人称の変化に着目しよう。という発問をしました。
「この場面以外では、この少年・彼・例の先生の息子・あの模範少年という表現が使われているが、ここでの感情の高ぶりの原動力はなんだろうか?」
→A エーミールは金持ちで道具も一級品。
B それに比べ僕の道具は立派ではなかった。
C でも、蝶に対する情熱は本物で、それをバカにされたのが我慢ならなかった。
D その感情が「あいつ」に込められていると考えました。
■1 読み間違いでは
 「A エーミールは金持ちで道具も一級品」とはどこにも書いてありません。正しくは、
 ① 収集は小さく貧弱だがこぎれいで手入れが正確
 ② 非常に難しい珍しいめずらしい技術を心得ている
 のです。この点は重要です。
 発問「ぼくはなぜ妹たちだけに収集を見せるようになったのですか」
 の理由に関わります。
 発問「エーミールだけには見せようと思ったのはなぜですか」
 の理由の読解もずれてしまいます。
2 「あいつ」という表記
 最後から二段落目・23段落で初めてぼくは「あいつ」という呼称を使います。
 しかも、全文で一度だけです。
 その二点に「あいつ」に込められた感情をより強く表現する効果があります。
 B、Cは同意見です。


(2)の3と4なぜのどぶえか・飛びかかるところだった
「のどぶえ」
は言われてみるとおかしいなと感じました。
友人とは、
「殴りかかりそうになった。がよくある表現だよね?」
という話はしました。実際には行動に起こしてはいなく、飛びかかりそうになるほど激怒していることを表現していると考えています。
■1 のどぶえ
 漢字で「喉笛」ですね。
 喉笛をかみ切る、喉笛を掻き切る、
 のように表現されることが多く、「のどぶえ」は生命を奪う急所です。
 肉食獣が噛みつき止めを刺すときの急所です。
 急所につかみかかったぼくの行為に、憎しみ以上の激しい感情が表現されています。
 また、例えば「襟首に」「胸ぐらに」よりも、
 直接「皮膚、肉体に」触れることを感じさせる表現で生々しく感じられます。
 場所を選ばぬ容赦ない行為だということです。
 もう一つ、喉笛をつかむのは、言葉を発することをできなくさせる行為です。
 「あいつ」の許せない「言葉」の元を断つ。強い表現です。
 例えば、
 発問「のどぶえに飛びかかる、と、襟首に飛びかかるの違いをノートに書きなさい」
 のようになります。
2 飛びかかるところだった
 「飛びかかる」からは全身で向かっていった様子がうかがえます。
 比べて「殴りかかる」は腕だけの動きが想像できます。
 「ぶちのめす・しめつける」もやはり「飛びかかる」よりも勢いで劣ります。
 だから「飛びかかる」がより強くぼくの感情を表現できる行為となります。
 発問は今思いつかないのでやめときます。


(3)の1と2 
「とびかかれなかった」「とびかからなかった」
1なぜこの二つの表現を思いついたのか
/2この二つの表現を問題にすることの意味・理由

これは授業後の反省会で、プリントと紙板書で一致していないことを指摘されて、
二つの表現の違いは何だろう。
一文字違うだけでどう影響するのか考えたからです。
■偶然ですね。幸運ですね。こういう小さな違いを追求するのが読解力を深めます。
問う「意味」はある気がします。とりあえず、ここまで。


(3)の3翻訳文であることの問題点
本文最後のページに「学習の窓」に「翻訳作品を読み味わう」という手引きがある。
この教材で海外の作品に興味を持ってもらうというねらいがあると思う。
翻訳作品と言っているが、ヘルマン・ヘッセのドイツの全集にはこの作品は載っていないと聞いた。
この作品はヘッセのものであるが、
日本で広まったのは高橋健二さんのすばらしい日本語訳によるところが大きいと思う。
よって、翻訳者の意図を個人的には優先したい。
■僕の考えは異なります。
「翻訳作品を読み味わう」というのは出版社の言い訳です。
四十年間、別の文学教材を発掘できなかったのです。
三年生の『故郷』(魯迅)も翻訳教材で三十年以上使われています。
どちらも優れた文章です。
『少年の日の思い出』は高橋健二訳でこそ生き残りました。
しか~し!いくらなんでも今更、魯迅はないでしょう。
まだ調べるつもりですが、教科書の「文学教材と読み物教材」には翻訳がとても多いのです。
翻訳には読解においていくつも問題点があります。
翻訳文全体もそうですが、この高橋健二訳にも問題があるそうですね。ネット上でご存知かと思います。
これらについては後述する予定です。
出版社は日本の作家の文章を発掘しろ、と言いたい。
『故郷』を好む非常に年配の(僕も年配だけど)人は頭をリフレッシュして欲しい。
教科書の「翻訳作品を読み味わう」にはやはり笑えます。 
「翻訳者の意図」については「作品論と作者論」で。


(4)の1と2「とびかかれなかった・とびかからなかった」言い換え
(3)の1と2と重複しますが、ミスから生まれた考えだったので「学習のねらい」まで考えていませんでした。
■「ねらい」については了解です。
ただし、コメント欄で触れたように、
「すんでのところで」に呼応するなら「~ところだった」と書くしかありません。
ですから、教材研究のため便宜的に書き換えて考えるなら文学表現ですから、
「その瞬間、ぼくはあいつののどぶえに、飛びかかることができなかった。」
「その瞬間、ぼくはあいつののどぶえに、飛びかかることはできなかった。」
「その瞬間、ぼくがあいつののどぶえに、飛びかかることはなかった。」
「その瞬間、ぼくはあいつののどぶえに、飛びかかりはしなかった。」
などが考えられるでしょう。
「すんでのところで」という表現は、とりあえず使用できないということです。
また、
「その瞬間、ぼくはあいつののどぶえに、飛びかかれなかった」
「その瞬間、ぼくはあいつののどぶえに、飛びかからなかった」
などでは、あっさりしすぎているようです。
 

(5)の1「とびかからなかった」が合っている
前者は誰かに止めに入られ物理的に行動できなかったときなどに使う表現で、
後者は僕の意思が入っているので(盗みを犯した後ろめたさ)
表現としては適切だと判断しました。
■「僕」ではなく本文表記は「ぼく」です。
表記にはこだわらなければなりません。
僕の答えも比較するなら後者のほうが適切、ということになります。


(5)の2「合っているか」「合っていないか」根拠を明らかにする手段はあるのか
生徒役の学生に
「その意見は本文のどこにあるの根拠は?」
と言っておきながら、自分自身の意見には根拠がなく個人の推測です。
■本文にない表現を仮に利用して、生徒に理由を考えさせることになります。
根拠は「本文中」にしかあり得ません。
「何段落の、どこどこに、ナニナニと書いてあるということは、と答えなさい」
「本文中から証拠を探しなさい」
国語授業の大原則です。
生徒が本文に書いていないことを言ったら、
「どこにそんなことが書いてありますか」
と生徒を追求します。
もし、zzrさんが推測しかできないのなら、この論題は授業できないことになります。
指導案にも書くことはできません。
比較することを諦めるしかありません。
 


(6)の1
作者論と作品論がわかりません。語句の解説をお願いします。
■「作品論」と「作家論」に言葉を変えさせてもらいます。
1 作品論
 本文だけを問題にする授業です。
 作者の生い立ちや思想は一切考える必要はありません。
 文章は書かれた時点で、作者の手から離れます。
 作者がどのような意図で表現しようが、読者に意図どおりに伝わるとは限りません。
 よく、子供が「作者に聞いてみれば」と言いますが作者がどう考えていようが無関係です。
 国語教員でも「作者はどう考えていたのか」などと言う人がいますが無駄な問いです。
 文学作品は、読者がどう感じ取ろうが、どう分析しようが自由です。
 作者は、読者の解釈を聞いて、
 「はあ、そのような読み方もあったのですか」
 と思うわけです。
 「いや、私はそんなつもりで書いたのではないから、あなたは間違っている」
 などと言っても問題にしません。
 文章に根拠を求めて、ある解釈ができる以上、作者がどう言おうがもう関係ありません。
 それが「作品論に立つ読み方・授業の仕方」です。
2 作家論
 作家の生い立ち、生きた時代、作品が書かれた時代背景などを根拠に文章を読む方法です。
 石川啄木は極貧で知られていますから、作品も苦労・不幸が主題のものが多いわけです。
 だから、啄木の人生と時代を調べなければ、啄木の短歌は読解できない。
 それが「作家論に立つ読み方・授業の仕方」です。
 高橋健二氏が、どのような「意図」で「あいつ」と翻訳したのか考えましょう。
 そのために、高橋健二について調べましょう、ということになります。
 ヘルマン・ヘッセの国や生きた時代を調べてから読んでみましょう、ということです。
どちらという決まりはありません。
僕は大学で井関義久ゼミだったので、完全な「作品論授業者」です。
文章を根拠にすることによって、文章を「読解し」「書く」力はつくからです。
立場は自分で選ぶことです。
 


(6)の2翻訳者の考えを考慮する必要
教材解釈(教材研究)では考慮するべきだと思います。
授業で使うことがなくても、調べておくことで教材をよく知ることができると考えます。
■それが最もバランスの良い立場だと思います。

(7)の1と2と3と4「原文」とは
ドイツ語のことです。
(3)の3でもありましたが、ヘッセと高橋さんと意図は一致していなかった考えます。
高橋さんが読者にいろいろな受け取り方をさせるため、
わざと遠まわしな表現をしているのではないかと考えたからです。
(書くとしたら、「なぐりかかるところだった。」
一般には人間はのどぶえに攻撃をしないと思う)
また、高橋さん以外の翻訳が副読本として扱われていた時期があったと認識しています。
年度により言い回しが異なるというのは初耳でした。
「出版社が」時代により変えていたのならば調べ並べるうちに入れる必要はないと思います。
■「研究2」の「本文表記比較」のとおり、表記も言い回しも教科書改訂の度に変わります。
同じく述べたとおり、異なる文章を検討して言い合っても無駄になります。
どの年度の、どの出版社の「教材文」を使用しているのかを明らかにしないと指導案は作れません。前述したとおり、
「高橋健二氏が、のどぶえ・飛びかかる、という表現をしたのはなぜか」
を僕は問題にしません。
高橋氏がどう意図しようと、表現の理由は、読者の僕と生徒の解釈能力に任される。
「高橋氏がわざと遠まわしな表現をしている」
か、そうでないかを確かめる方法は存在せず、文章の読解力の学習とは無関係です。
まあ、それが「作品論」ということです。
「一般的には人間はのどぶえに攻撃をしないと思う」
のはそのとおりです。
高橋健二訳の翻訳文に、よくぞこう書いた、という表現が散りばめられているので、長く読まれているのでしょう。

このレポートは教材研究として提出するように言われていますが、指導案も作ったので入れようと思っています。中学一年生に「授業する」内容・方法について論点を絞ることを徹底できていませんが、宜しくお願いします。
■いやあ、面白かったなあ。授業のことを考えるのは本当に楽しい。
zzrさんが優れた論題と熱意を示してくれたお陰です。
繰り返しますが、これで終わりにしてくださって結構です。
僕はネットで調べて、他に面白いことがあったのでもう少し続けます。
まだ、
『少年の日の思い出が長年教科書に載っているのはなぜか』
という一番目の問題が残っていますね。わざと最後に残しました。
僕は既に答えを書いてあります。
気が向いたら、またコメントしてください。
反論、疑問、派生した論題、何でも楽しみです。

あっ、
「1 数多いサイトの中でなぜこのサイトに質問して下さったのですか?」
「2 質問をしたのはこのサイトだけですか?」
は、できれば僕が頑張ったご褒美に(笑)教えて欲しいです。

―まだ勝手につづく予定―

カテゴリー別目次 ・ 記事一覧

国語授業中学少年の日の思い出
研究1・論題17題

研究2・教科書全表記比較
研究3・論題17題の検討
研究4・教科書掲載理由検討
研究5・高橋健二の戦争礼賛
研究6・中学生の頭を悪くするサイト
研究7・プロローグは削除してよい
研究8・小説と物語の違い
研究9・ヘッセノーベル賞の為か
研究10・作者論と作品論

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2 コメント

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ありがとうございました (zzr)
2011-02-09 17:00:12
hyokoさんのおかげで満足のいく教材研究レポートを書くことができました。ありがとうございました。どんなコメントが返ってくるのかワクワクの数日間でした。とても楽しかったです。
質問に答えます。
①初めのコメントにも書きましたが、少年の日の思い出の実践例をレポートに入れようと思い「少年の日の思い出 実践」とgoogle検索したら、こちらの
ブログにたどりついたので、助言がほしく投稿しました。
②はい。質問をしたのはこちらだけです。

「少年の日の思い出」が長年教科書に載っている理由は、40年間この教材に勝る文学教材を見つけることができず今に至るからです。

最後に質問してもよろしいですか?
hyokoさんはtossに所属していますか?(五色百人一首や黄金の三日間のキーワードがあったので)

新指導要領になり、自分たちが習ってきた方法で同じように子供に指導してはいけないと講義で言われた。新しい指導要領に沿った教え方を在学中に身につけたい。ありがとうございました。
返信する
hyokoです (zzrさん有難う)
2011-02-09 20:28:58
こちらこそありがとうございました。
とても楽しかったです。

28年前向山学級で1年生の授業記録を取りました。
TOSSについては時間があれば、
カテゴリー:勝手に授業研究の
「腐ったTOSS奢れる者久しからず」
をお読みください。

お元気で!
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