四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

金剛寺 -比企氏墓所-(埼玉県川島町)

2016年11月27日 | 神社仏閣


金剛寺と比企氏

山号を清月山元光院、新義真言宗の寺で、川島町中山にあり比企氏の館跡と伝えられている地にあります。
金剛寺と比企氏との関係は、当地の開発領主であり、比企能員の娘婿であった中山為重まで遡ります。
比企氏の乱(建仁2年1203)で、北条方に敗れた比企一族がことごとく滅ぼされるなかで、能員の子円顕(当時2歳・俗名能本)と
時員(能員の子)の子員茂はまだ母のお腹の中にいたことから生き長らえることとなります。円顕はのち父能員(法名長興)、母(法名妙本)の
菩提を弔うため、鎌倉に日蓮宗の本山「長興妙本寺」を開基した人物です。員茂は出生後、岩殿山観音堂別当に養育され、のち北面の武士(院の
御所の北面に詰め、院中の警護にあたった武士)となり、承久の乱(承久3年1221)では、敗れた順徳院に従って佐渡に渡り、寺泊兵衛尉と
改名しています。
員茂の子員長は、頼家の娘竹御所と従兄弟関係にあり、比企・吉見・高麗郡等を所有していたことから、その縁で密かに越後より比企郡中山に移り、
のち子孫代々がこの地に居住したといわれています。こうした背景から比企能員の子孫と言われる比企政員(1525~1575)、
子の則員(1557~1616)が金剛寺を中興開基しています。この地が比企氏館跡といわれるゆえんです。政員の法名は清月、則員の法名は元光です。

(埼玉県立嵐山史跡の博物館発行 「比企の中世・再発見」から ■金剛寺と比企氏 の項を引用転載)

※ 能員・・よしかず  能本・・よしもと  時員・・ときかず  員茂・・かずしげ  兵衛尉・・ひょうえのじょう


そんな金剛寺に比企氏の墓所があるということで訪ねてみましたが、比企氏の館跡という観点からもみるべきであったにもかかわらず、墓所のみに気をとられて、ここでも見落としを・・・




表入口と山門




本 堂   数年前に建て替えられたようです
本堂左手に一般の墓所 右手方向に比企氏の墓所があります




本堂に掲げられている「金剛寺」の扁額




この説明板は一応撮ってきただけです




鐘 楼   梵鐘は最近の作のようです




大日堂  比企一族の位牌堂  左の道が墓所へ




大日堂 




比企氏と歴代墓地の説明板




比企氏墓所
左側の墓は近世のもので左端に比企家現在の墓がありますが撮影は控えめにさせていただきました




比企氏代々の墓




比企久員の墓




比企稚久の墓




比企重員の墓




比企義久の墓




比企則員の墓








結局は墓所のみを見て来ただけで、館があったころの遺構と思われる空堀跡を見ることなく帰って来てしまいました。
正直のところは空堀跡のことは帰宅後知ったわけでして・・・

訪問日:2016(平成28)年11月16日(水)

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。