環境ってひとことで言いますけど、環境って何だろう?って考えたことがありますか?環境…広いですよね、いろんな意味があります。自然環境、人との付き合いという意味での環境、空間としての環境…いっぱいあります。昔は地域社会という環境がありました。井戸端会議、路地空間、路地で子供が遊んでる風景…みんな地域社会から守られていたんです。
1950年代後半の日本は住宅公団が出来て、団地が建ち並ぶようになり、家族にひとつの住宅という意味で団地の一部屋が家の単位として使われるようになりました。一度ドアを閉めれば家が「密室」になってしまったんです。この現象を一言で「プライバシー」というオブラートに包んでしまって、周りとのつまり地域社会との係わりを家族自ら遮断することになっってしまったように思えます。家族という単位が大きくクローズアップされ、その上の単位である地域社会が単位として機能しなくなった…。これって、公団の残した功罪なんじゃないだろうか?あまりにも個を重視して「見られないこと」を意識してきたけど、実は「見られること」って結構重要だったりしませんか?「見られること」によってコミュニティ=地域社会が生まれる。昔は縁側に隣の住人が結構ふらっと遊びに来たように思える。そこに井戸端会議ができ、いろいろな情報交換ができ、その大人の目が子供たちを守っている。こんな構図ができていたんじゃないかなぁ…。
我々建築家はよくコミュニティをつくろうなんて偉そうに言うことがあるけど、偉そうに説明したコミュニティって上手く機能してないのが多いんですよね。本当は自然発生する「見られる」意識が井戸端会議につながり、子供を見守る「見られる」目を産んでいたのだと思います。偉そうに言ってもダメですね…。
1950年代後半の日本は住宅公団が出来て、団地が建ち並ぶようになり、家族にひとつの住宅という意味で団地の一部屋が家の単位として使われるようになりました。一度ドアを閉めれば家が「密室」になってしまったんです。この現象を一言で「プライバシー」というオブラートに包んでしまって、周りとのつまり地域社会との係わりを家族自ら遮断することになっってしまったように思えます。家族という単位が大きくクローズアップされ、その上の単位である地域社会が単位として機能しなくなった…。これって、公団の残した功罪なんじゃないだろうか?あまりにも個を重視して「見られないこと」を意識してきたけど、実は「見られること」って結構重要だったりしませんか?「見られること」によってコミュニティ=地域社会が生まれる。昔は縁側に隣の住人が結構ふらっと遊びに来たように思える。そこに井戸端会議ができ、いろいろな情報交換ができ、その大人の目が子供たちを守っている。こんな構図ができていたんじゃないかなぁ…。
我々建築家はよくコミュニティをつくろうなんて偉そうに言うことがあるけど、偉そうに説明したコミュニティって上手く機能してないのが多いんですよね。本当は自然発生する「見られる」意識が井戸端会議につながり、子供を見守る「見られる」目を産んでいたのだと思います。偉そうに言ってもダメですね…。