十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

一法寺の一法の意味

2009年04月19日 | 共生

  一法寺の一法は私の戒名である。一法の寺と意味で一法寺と名づけた。昭和56年4月8日、兵庫県新温泉町久斗山にある安泰寺で先々代の住職渡部耕法老師から戒を受け老師の一字が入った一法という名をいただいた。


 一法の意味としては渡部老師から説明を受けた訳ではないが、私としては次のごとく理解している。


 「一心一切法 一切法一心」 を略したもの。一心と一切法がイコール。一心とは前回書いたように「自己生命の実物」それが一切法、ありとあらゆる事物と一つなのだということ。自己と世界が一体だということ。


 一心一切法 といえば、自己生命が宇宙全体に展開していく感じがするし、一切法一心 という時宇宙が自己自身に収斂してくる感じがあるように思う。 


 大した名前をつけてもらったと思っているが、別に名前が付こうが付かなかろうが誰でも「一心一切法 一切法一心」を生きているのだということである。


 注:法とは岩波の仏教辞典によると、仏教では種々の意味に用いられ、1)法則、正義、規範 2)仏陀の教法 3)徳、属性 4)因 5)事物の5種があると記述されているが、一切法という場合は事物のことである。  

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仏典は「行」へのガイドブック

2009年04月19日 | 佛教

 原始仏典といわれるものも釈尊の没後数百年を経て編纂されたものであり、我々に馴染みの大乗仏典は釈尊の没後5、6世紀も経って編纂され、膨大な仏典は後世の人間の創作物といってよい。どこが釈尊の直説かこれまた議論のあるところである。


 しかし、首尾一貫しているところは内山興正老師のいう「自己生命の実物」について、説かれているということ、そうでなければ仏教にならない。ところがどうでもよいような作り話がいっぱい入り込んでいるのも事実で、まともに受け取ればとんでもない方向に向いてしまう。

 「自己生命の実物」も、その表現は当初は釈尊の使われた「自己」であり、「自心」となり、そして、心、一心、唯心、空、不二、如、如々、如是、如実、如実、如来、如来蔵、真如、恁麼、不可得、法性、法身、法界、仏性、涅槃、中道、一乗、実相、妙有、畢竟空、法住、法位、不二法門、般若、不
生不滅、一乗、空性、円成実、自性清浄心(順不同)などと表現されるようになった。

 このようにいろいろの表現がありニュアンスも違うけれども、たった一つの「自己生命の実物」のこと。しかし、言葉でどう表現しても表現のしようのないが「自己生命の実物」であるから、実物はただ実物する、つまり「行」しかないというところに行き着かざるを得ないのである。


 澤木興道老師は「一切経は坐禅の脚注である」と言われている。

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