〇委 川岸駅発行 辰野から100kmまでの急行券

1983(昭和58)年6月に、中央東線の川岸駅で発行された、辰野から100kmまでの急行券です。


   

桃色こくてつ地紋のA型大人・小児用の記急①様式で、新潟印刷場で調製されたものです。
「記急①」は発駅を記入するために空欄となっている100kmまでの急行券で、全国どの駅からの券にもできるように設備されています。
「①」は100kmまでの券という意味で、50kmまでであれば「〇05」、150kmまでであれば⑮、200kmまでであれば②、201km以上であれば③というように数字が割り当てられていました。50km刻みの区間ができたのが国鉄末期であったため、「05」だの「15」だのという数字が割り当てられたものと思われます。


この券は辰野駅から急行こまがね号で飯田線の市田駅へ向かうために購入したもので、川岸駅から辰野駅まで中央東線の普通列車に乗車し、辰野駅から実際に使用しております。
辰野駅では接続時間があまりなく、同じホームからの発車であったことから、改札鋏は入れられておりません。


   

裏面です。新潟印刷場の券は券番が5ケタになっています。

当時の国鉄では現在のように使用済の乗車券類の管理が厳しく、持ち帰ることができるかは改札掛員の裁量次第でしたが、市田駅では裏面に無効印を捺印のうえ、頂くことが出来ました。掛員によっては無効印は表面でなければダメだとか、表面左右に2か所も捺すとか、いろいろなパターンがありましたが、当時としてはかなり緩かったです。


発行駅である川岸駅は中央東線の駅で、「大八廻り」と呼ばれる区間にある駅で、現在の岡谷~塩尻間の塩嶺トンネルをくぐる「塩嶺ルート」とは異なる、大きく南へ迂回して辰野駅を経由する旧線にあります。大八廻りは当時の鉄道局長で帝国議会議員でもあった「伊藤大八」が伊那谷出身で、鉄道を伊那谷の入り口を通そうと画策し、塩尻峠ではなく辰野を迂回するルートに変更させたのが由来で、伊藤大八の名前をとって「大八廻り」と呼ばれるようになったという話を聞いたことがあります。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

鶯谷駅発行 銀河51号急行券・指定席券

1985(昭和60)年7月に東北本線鶯谷駅で発行された、銀河51号の急行券と指定席券です。


   

若草色こくてつ地紋のD型準常備式券で、東京印刷場で調製されたものです。国鉄では座席指定券を若草色(みどり色)にしたことから、緑色の座席指定券を発売する窓口ということで「みどりの窓口」が誕生したという話があります。

準常備式は発売金額に応じて右側の断片を切り取って発売する様式で、東京から大阪までは営業キロが201km以上ありますので、当時の普通急行料金では最長の「201km以上」1700円のところで切られています。売上精算は残された断片で行い、発売金額の脇にある半角数字が売上精算の際に計上する売上額となります。


   

こちらは同様式の料金改定前の見本券となりますが、国鉄東京印刷場管内で2023番というパターン番号が付与された準常備式急行座席指定券「準急ザ」と呼ばれるものになります。売上精算時には右側の断片が駅に残り、売上の「証憑(しょうひょう)書類片」として審査に回されます。


急行「銀河」号は1949(昭和24)年9月15日、戦後初の特急「へいわ」号とともに誕生した東京~大阪間の夜行急行列車で、夜の東海道を走り続けてきた名列車です。
御紹介の券が発券された1985(昭和60)年当時、東海道本線のなかでも歴代最長寿急行列車であるとともに、単独列車の愛称としては最古の列車でありました。また、オール寝台車の急行列車は「銀河」号のみであり、いかにも東海道本線の「主」といった存在感がありました。

東京~大阪間の夜行バスがまだ発達していなかった当時、東阪間の夜行列車の需要はそこそこあり、夏休み期間中などの繁忙期には指定がなかなか取りにくく、臨時の「銀河」号が東京~大阪間や品川~大阪間で増発されていました。
御紹介の券の「銀河51号」は全席指定の座席車で運転されていましたため、急行券の他に寝台券ではなく、座席指定券が同時に発行されています。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

矢岳駅発行 矢岳から50kmまで 急行券

1982(昭和57)年12月に肥薩線矢岳駅で発行された、矢岳から50kmまでの急行券です。


   

桃色こくてつ地紋のA型大人・小児用券で、門司印刷場で調製されたものです。
この券は1978(昭和53)年10月に、九州・北海道及び四国の「3島」路線区域と東北・山陽・山陰の一部区間に「50kmまで」の料金帯が設けられた時期の様式で、「九州内相互間を1回限り2日間有効」という文言が入れられています。


   

裏面です。券番のほか、発行駅名が記載されています。


当時の矢岳駅は急行停車駅であり、御紹介の券は発売駅発の急行券になりますが、乗車駅名が予め印刷された「常備」のものではなく、乗車駅名の印刷されたものよりも記入するタイプの「記急」が使用されています。
常備券があれば出札掛は手間の掛からない常備券を使用すると思いますが、この券が発行された時期の同駅の利用客数は大変少なく、また、同駅に停車する急行列車は熊本~人吉~吉松~宮崎間の急行「えびの」号2往復であることから、同駅には常備券の設備はなく、記急券での対応であった可能性があります。


   

    👈 もしかすると大きくなるのでクリック!


当時の肥薩線の時刻表になります。
矢岳駅から50kmまでの急行停車駅は、隼人方面が真幸駅と吉松駅、京町駅および小林駅で、八代方面が大畑駅、人吉駅のみであり、需要が見込めるのはせいぜい吉松駅と人吉駅というところであり、やはり常備券は設備されていなかったかも知れません。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

東京駅発行 ホームライナー津田沼号 乗車整理券

1986(昭和61)年11月に東京駅で発売された、ホームライナー津田沼号用の乗車整理券です。


   


黄褐色こくてつ地紋の車急式軟券となっています。
これは国鉄時代に発売された乗車整理券で、前回エントリーのJR東日本のライナー券の原型となるものです。


ホームライナーは国鉄末期に回送される特急列車の一部車両を開放して旅客扱いした列車で、北海道を除く殆どが座席定員制もしくは座席指定制で運転されています。
東北本線の上野駅から大宮駅までの区間の列車がその第一例目で、ホームライナー津田沼号は第二例目になります。

ホームライナー津田沼号は国鉄民営化後も運転され、末期は千葉駅まで延伸されてホームライナー千葉号になりましたが、2019(平成31)年3月のダイヤ改正で廃止されてしまっています。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

南仙台駅発行 仙台から上野まで 新幹線指定席特急券

1985(昭和60)年6月に、東北本線南仙台駅で発行された、仙台から上野までの新幹線指定席特急券です。


   


若草色こくてつ地紋のD型大人・小児用券で、東京印刷場で調製されたものです。

様式的には前回エントリーの新潟印刷場で調製された燕駅で発行されたものと同一ですが、印刷場の違いにより、活字や発行駅名の印刷の位置などが異なっています


   


裏面です。
こちらも新潟印刷場のものと同一ですが、新潟印刷場のものには1本目の列車の乗車駅名の印刷がありませんが、東京印刷場のものには乗車駅名が印刷されています。


   


新潟印刷場のものを再掲いたしました。東京印刷場のものは「仙台」と印刷されていますが、新潟印刷場のものは印刷が無く、罫線のような横黒線も引かれておりません。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

燕駅発行 燕三条から上野まで 新幹線指定席特急券

1985(昭和60)年6月に、弥彦線燕駅で発行された、燕三条から上野までの新幹線指定席特急券です。


   


若草色こくてつ地紋のD型大人・小児用券で、新潟印刷場で調製されたものです。

硬券の新幹線指定席特急券は改札口を出場しないで複数列車を乗り継ぐことに対応するためでしょうか、1975(昭和50)年3月の新幹線博多開業時の時の様式改定で列車および座席指定欄が裏面に移り、表面は乗車区間などの最小限の情報しかありません。


   


裏面です。
窓口氏が何を勘違いしてしまったのか乗車日を書き損じていますが、駅名小印を捺印して訂正してあります。


当時の燕駅は新潟交通電車線との接続駅でしたが「みどりの窓口」は置かれておらず、指定券類の発券はマルス端末のある燕三条駅に電話で問い合わせの上行われていました。
その後、民営化後の1990(平成2)年12月にみどりの窓口が開設され、硬券での指定券類の発券は行われなくなっています。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

松本車掌区乗務員発行 車急式急行券

発行年が記載されていませんが、1983(昭和58)年10月に松本車掌区(現・松本運輸区)乗務員が発行した、小淵沢から200kmまでの普通急行券です。


   


桃色こくてつ地紋の車急式軟券となっています。

キロ程で記載されているのでわかりづらいですが、新宿駅までと申告して購入しています。小淵沢では小海線からそのまま急行アルプス号に乗車していますが、この時は車急式の急行券目当てで、予め急行券を購入せずの乗車をしています。

車急式の急行券は、発券時の省力化を目的として車内補充券とは別に携帯していたもので、車内検札に来る車掌もしくは乗客専務車掌は大抵持っていました。日付と発駅を記入およびチェックし、発売金額のところで切り取って発券するものですが、車掌氏によっては赤鉛筆や赤ボールペンを使用している掛員も多く、どのような仕上がりで発券されるのか、「個体差」がありました。


乗車駅の配置についてですが、駅間に点(・)が打たれているので、一見すると駅名は横に並んでいるように見えますが、よく見ると駅順に縦に並んでおり、なぜこのような並びになってしまったのか、少々不思議な券です。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

新前橋駅発行 佐渡4号 急行券・グリーン券

1982(昭和57)年9月、新前橋駅で発行された、佐渡4号の急行券・グリーン券の一葉券です。


   


若草色こくてつ地紋のD型大人・小児用券で、東京印刷場で調製されたものです。


急行佐渡号は上野~新潟間を結ぶ急行列車で、準急列車として登場した当初は80系電車で運転されていましたが、その後165系電車に置き換えられています。
この券が発売された当時はグリーン車を4号車と5号車に連結した12両編成が4往復運転されていましたが、東北・上越新幹線が開業した同年11月のダイヤ改正にて1往復減便の3往復になり、編成もサロ1両の10両編成に減車されています。

その後、1985(昭和60)年3月のダイヤ改正によって急行佐渡号は廃止されてしまっています。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

中野駅発行 急行券 上野から201km以上

1979(昭和54)年3月に、中央本線中野駅で発行された、上野から201km以上の急行券です。


   


桃色こくてつ地紋のA型大人・小児用券で、前回エントリーで御紹介いたしました荻窪駅のものと同じ、東京印刷場で調製された様式です。

この券は前回の荻窪駅のものと版が違っているようで、「201」の部分の活字がずれて踊ってしまっています。


   


この部分を拡大してみました。東京印刷場で調製された券は比較的活字が整然としていて綺麗ですが、この券の場合、「2」の文字が下にずれてしまっており、また、「1」の文字が若干太いように見えます。この券から見るに、「201」の活字はそれぞれ1文字の活版を拾って組み合わせたもので、特活ではなかったものと思われます。
このような印刷の仕上がりは、東京印刷場で調製された末期の券としては珍しい部類であるかと思われます。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

荻窪駅発行 急行券 上野から201km以上

1980(昭和55)年4月に中央本線荻窪駅で発行された、上野から201km以上の急行券です。


   


桃色こくてつ地紋のA型大人・小児用券で、東京印刷場で調製されたものです。

乗車駅を記入する様式で、「記急③」と呼ばれる様式です。
この券は、どの駅から用として発売できる様式で、乗車駅名を空欄にしておき、発売都度、乗車駅を記入するようになっています。
小児断片にある③は「201km以上」を表し、①は「100kmまで」、②は「200kmまで」を表しており、小児用として発売した際の切り取られた小児断片が、売上精算時に解り易いようになっています。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »