趣味で蒐集した「きっぷ」を見て考えたこと、とか…
JR直営の印刷場名は国鉄時代の印刷場名を使用します。
古紙蒐集雑記帖
燕駅発行 燕三条から上野まで 新幹線指定席特急券
1985(昭和60)年6月に、弥彦線燕駅で発行された、燕三条から上野までの新幹線指定席特急券です。
若草色こくてつ地紋のD型大人・小児用券で、新潟印刷場で調製されたものです。
硬券の新幹線指定席特急券は改札口を出場しないで複数列車を乗り継ぐことに対応するためでしょうか、1975(昭和50)年3月の新幹線博多開業時の時の様式改定で列車および座席指定欄が裏面に移り、表面は乗車区間などの最小限の情報しかありません。
裏面です。
窓口氏が何を勘違いしてしまったのか乗車日を書き損じていますが、駅名小印を捺印して訂正してあります。
当時の燕駅は新潟交通電車線との接続駅でしたが「みどりの窓口」は置かれておらず、指定券類の発券はマルス端末のある燕三条駅に電話で問い合わせの上行われていました。
その後、民営化後の1990(平成2)年12月にみどりの窓口が開設され、硬券での指定券類の発券は行われなくなっています。
松本車掌区乗務員発行 車急式急行券
発行年が記載されていませんが、1983(昭和58)年10月に松本車掌区(現・松本運輸区)乗務員が発行した、小淵沢から200kmまでの普通急行券です。
桃色こくてつ地紋の車急式軟券となっています。
キロ程で記載されているのでわかりづらいですが、新宿駅までと申告して購入しています。小淵沢では小海線からそのまま急行アルプス号に乗車していますが、この時は車急式の急行券目当てで、予め急行券を購入せずの乗車をしています。
車急式の急行券は、発券時の省力化を目的として車内補充券とは別に携帯していたもので、車内検札に来る車掌もしくは乗客専務車掌は大抵持っていました。日付と発駅を記入およびチェックし、発売金額のところで切り取って発券するものですが、車掌氏によっては赤鉛筆や赤ボールペンを使用している掛員も多く、どのような仕上がりで発券されるのか、「個体差」がありました。
乗車駅の配置についてですが、駅間に点(・)が打たれているので、一見すると駅名は横に並んでいるように見えますが、よく見ると駅順に縦に並んでおり、なぜこのような並びになってしまったのか、少々不思議な券です。
新前橋駅発行 佐渡4号 急行券・グリーン券
1982(昭和57)年9月、新前橋駅で発行された、佐渡4号の急行券・グリーン券の一葉券です。
若草色こくてつ地紋のD型大人・小児用券で、東京印刷場で調製されたものです。
急行佐渡号は上野~新潟間を結ぶ急行列車で、準急列車として登場した当初は80系電車で運転されていましたが、その後165系電車に置き換えられています。
この券が発売された当時はグリーン車を4号車と5号車に連結した12両編成が4往復運転されていましたが、東北・上越新幹線が開業した同年11月のダイヤ改正にて1往復減便の3往復になり、編成もサロ1両の10両編成に減車されています。
その後、1985(昭和60)年3月のダイヤ改正によって急行佐渡号は廃止されてしまっています。
中野駅発行 急行券 上野から201km以上
1979(昭和54)年3月に、中央本線中野駅で発行された、上野から201km以上の急行券です。
桃色こくてつ地紋のA型大人・小児用券で、前回エントリーで御紹介いたしました荻窪駅のものと同じ、東京印刷場で調製された様式です。
この券は前回の荻窪駅のものと版が違っているようで、「201」の部分の活字がずれて踊ってしまっています。
この部分を拡大してみました。東京印刷場で調製された券は比較的活字が整然としていて綺麗ですが、この券の場合、「2」の文字が下にずれてしまっており、また、「1」の文字が若干太いように見えます。この券から見るに、「201」の活字はそれぞれ1文字の活版を拾って組み合わせたもので、特活ではなかったものと思われます。
このような印刷の仕上がりは、東京印刷場で調製された末期の券としては珍しい部類であるかと思われます。
荻窪駅発行 急行券 上野から201km以上
1980(昭和55)年4月に中央本線荻窪駅で発行された、上野から201km以上の急行券です。
桃色こくてつ地紋のA型大人・小児用券で、東京印刷場で調製されたものです。
乗車駅を記入する様式で、「記急③」と呼ばれる様式です。
この券は、どの駅から用として発売できる様式で、乗車駅名を空欄にしておき、発売都度、乗車駅を記入するようになっています。
小児断片にある③は「201km以上」を表し、①は「100kmまで」、②は「200kmまで」を表しており、小児用として発売した際の切り取られた小児断片が、売上精算時に解り易いようになっています。
いでゆ號 準急行券
1951(昭和26)年3月に熱海駅で発行された、いでゆ號(号)の準急行券です。
桃色こくてつ地紋のA型大人・小児用券で、東京印刷場で調製されたものと思われます。
当時の国鉄では、急行(普通急行)列車よりも格下の準急(準急行)列車というものがあり、御紹介の券はその当時の準急行券になります。
戦前の準急列車は運賃以外の料金が不要で、急行列車よりやや劣る速度で走るという現在の快速列車のような位置づけでしたが、戦後になって登場した準急列車は、急行列車として運転するには車両設備が不十分であるという設定の列車ではありましたが、準急料金という料金が設定されていたという点が異なっていました。
この券が発行されたころのいでゆ號は、伊東~東京間を毎週日曜日に上りのみ運転されていた客車列車で、同年の夏ごろには土曜日にも下り列車も運転されるようになり、80系電車による電車準急列車になって行ったようです。これが、今の特急踊り子号に発展するようになります。
裏面です。当時の準急行券は座席の指定はありませんでしたが、列車については指定されていたようです。しかし、準急行券の末期のものは、列車名の指定はないようです。
〇ニ 上野駅発行 大宮から一ノ関・北上・盛岡まで 新幹線自由席特急券
1982(昭和57)年月に「〇ニ」上野駅で発行された、大宮から一ノ関・北上・盛岡までの新幹線自由席特急券です。
桃色こくてつ地紋の千切り軟券となっています。恐らく、共同印刷もしくは凸版印刷等の民間印刷場へ委託されたものと思われます。
着駅の表記が「一ノ関・北上・盛岡」となっておりますが、前回エントリーの硬券に記載されておりました「一ノ関・盛岡間」と内容は同一であり、料金も同じ3,800円となっています。
この券は、上野駅で、新幹線リレー号に乗り込む前の旅客に対して発売する目的で設備されたもので、国鉄OBの再就職口になっていた日本交通観光社(日交観、現・ジェイアールバステック)がホームやコンコースで発売していたものです。
新幹線自由席特急券を所持しないまま新幹線リレー号に乗車してしまう東北・上越新幹線利用客に対して、上野駅でリレー号に乗り込む前に新幹線自由席特急券を購入させることによって、新幹線特急料金収入を大宮駅に取られないようするという、独立採算制が採られていた国鉄内部の事情によるものであったと推測されます。
品川駅発行 大宮から一ノ関・盛岡間まで 新幹線自由席特急券
1982(昭和57)年9月に、東海道本線品川駅で発行された、大宮から一ノ関・盛岡間までの新幹線自由席特急券です。
桃色こくてつ地紋のA型大人・小児用券で、東京印刷場で調製されたものです。
昭和57年と言いますと東北新幹線が開業して間もない頃で、当時の東京側の始発駅は工事の関係で大宮駅となっていました。そのため、今まで在来線特急の始発駅であった上野駅から新幹線に乗車することが出来なかったため、上野駅から大宮駅間については、暫定的に「新幹線リレー号」という列車で連絡されておりました。
今でこそ品川駅からJRを利用して東北新幹線に乗車する旅客は東京駅もしくは上野駅で乗り継ぐのが一般的ですが、当時は大宮駅が一番近い駅でしたため、大宮駅発の新幹線自由席特急券が設備されていました。
恐らく、もし当初から東北新幹線が東京駅まで開通していたら、品川駅に大宮駅から乗車する新幹線自由席特急券の常備券が設備されなかっただろうと思われます。
上諏訪駅発行 自由席特急券 上諏訪から200kmまで
昭和58年1月に上諏訪駅で発行された、上諏訪から200kmまでの自由席特急券です。
桃色こくてつ地紋のA型大人・小児用券で、新潟印刷場で調製されたものです。
この時、乗車券は別に飯田線の鼎(かなえ)駅から東京都区内まで購入しておりましたため、特急券のみ購入しています。
来月16日に実施されるのダイヤ改正では、中央東線で運転されている特急「あずさ」がすべて停車している上諏訪駅において、上下各1本が通過することになります。また、松本方の隣駅である下諏訪駅では停車本数が上下計16本から計4本と大幅に減少し、他に岡谷駅が上下計32本から計28本、富士見駅が上下計11本から計4本と減ることになっています。
これは新宿~松本間の時間短縮を図るのが目的で、そのためには諏訪地方各駅を犠牲にしなければならないというJR東日本の方針があるようで、新宿方の隣駅である茅野駅だけは上下計36本すべての停車を維持させ、新宿方面からの利用者を茅野駅で降りて普通列車に乗り換えさせ、その代わりに接続する普通列車の時刻を見直して乗換時間を短縮させたようです。
これには地元の経済や行政の関係者から「住民生活や観光、経済などに影響が大きく、納得できない」と反発の声が上がっており、諏訪広域連合と諏訪地方の各市町村議会、商工会議所・商工会、観光協会などの代表がJR東日本長野支社を訪れ、停車本数減少を伴うダイヤ改正の見送りを要請したようですが、JR東日本からの回答は「ご理解いただきたい」の一言であったと地元紙が報じています。
〇簡 行川アイランド駅発行 自由席特急券
前回エントリーでJR東日本外房線の〇簡 行川アイランド駅で発行された東京山手線内ゆきの片道乗車券を御紹介いたしましたので、今回は国鉄時代に発行された同駅からの自由席特急券を御紹介いたしましょう。
昭和55年2月に発行された錦糸町・東京までの自由席特急券です。桃色こくてつ地紋のA型券で、やはり大人専用券となっています。
現在ではこの区間はB特急料金が適用されていますが、昭和55年当時はまだB特急料金の制度はありませんでした。
当時の国鉄は昭和53年10月から、急行列車を全廃もしくは減便して特急列車に変更もしくは増発した区間において、100kmを超える区間の特急料金を、指定席1,200円・自由席1,000円に割引することとし、これは「特定特急料金」ではなく「特定区間の特急料金」となりました。特定区間の設定は、総武・内房・外房・成田・鹿島線の全区間と、上野⇔水戸・上野⇔宇都宮・上野⇔高崎、新宿⇔甲府、郡山⇔仙台、出雲市⇔益田、新宮⇔紀伊田辺、高知⇔中村、松山⇔宇和島の各区間で、昭和55年4月九州内各駅相互間を自由席で旅行する場合という区間が追加されたと記憶しています。この券は特定の区間に該当していましたので、特定区間用の特急券になります。
国鉄時代およびJR初期において、簡易委託駅で発行する乗車券類は、委託契約形態によるものと思われますが大人・小児用券の設備がない駅が多く、同駅発の乗車券類についても大人専用券と小児専用券は見かけますが、大人・小児用券は未見であり、恐らく設備されていなかったのではないかと思われます。
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