東京駅発行 東京から101km以上 普通列車グリーン券

前回エントリーで上りの「大垣夜行」用として発行された101km以上用の普通列車グリーン券を御紹介致しましたので、下り列車用として発行された101km以上用の普通列車グリーン券を御紹介致しましょう。


   

1983(昭和58)年8月に東京駅で発行された、東京から101km以上用の普通列車グリーン券です。
若草色特殊共通券紙の印発機券で、キレート印字式のものになります。管理人が名古屋へ行く際に使用したものになります。

コレクション用として硬券のグリーン券を購入するのですが、印発機で発行された券も蒐集したいと考え、珍しく印発機券を購入した次第です。
東京駅には当時としては新型の熱転写式印発機が導入されていた頃と思いますが、急速に引退していた旧式のキレート印字式の印発機がまだ残されておりましたので、敢えてこの機器のある窓口で購入したように記憶しております。

当時はすぐに印字が消えてしまう感熱式券と違い、キレート式券は保存性が良かったので安心していましたが、購入してから38年が経過してかなり退色が出てしまっています。

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大垣駅発行 大垣から101km以上 普通列車グリーン券

前回エントリーの「JR東日本 品川駅発行 快速「ムーンライトながら」号指定席券」でムーンライトながら号の指定席券を御紹介いたしました。

記事の中で、
> 東京駅〜大垣駅間で運行されていた「大垣夜行」を前身とした、長い伝統を誇る東海道線の座席夜行列車
と申し上げましたが、座席夜行列車時代の同列車はグリーン車2両を連結した165系で運転されており、普通車の4人が膝を突き合わせて向かい合うボックスシート車に対し、グリーン車はシートピッチの広い回転リクライニングシートとなっており、大変人気がありました。
グリーン車に乗車するにはグリーン券が必要でしたが、座席指定制ではなかったため、事前に購入して乗車しても、混雑時には満席で利用できないこともあり、混雑時には着席できるまでスリルのある列車でした。ただし、満席で使用できなかったときは専務車掌がグリーン券に「不使用証」という証明をしてくれましたので、下車後に駅で全額払い戻されました。


   

1983(昭和58)年5月に大垣駅で発行された、101km以上の普通列車グリーン券です。若草色こくてつ地紋のA型大人専用券で、名古屋印刷場で調製されたものです。この時代のグリーン料金では小児料金は廃止されていましたので、普通列車グリーン券には大人専用券しかありません。

この券は大垣から101km以上の区間を利用できるグリーン券ですが、同駅から101km以上利用できる普通列車のグリーン車は上りの「大垣夜行」しかありませんでしたので、ほぼ上り大垣夜行東京ゆき専用の券であったことになります。

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南仙台駅発行 仙台から上野まで新幹線指定席特急券

1985(昭和60)年6月に東北本線南仙台駅で発行された、仙台から上野までの新幹線指定席特急券です。


   

若草色こくてつ地紋のD型大人・小児用券で、東京印刷場で調製されたものです。
当時の特急や急行列車用の座席指定券類は若草色(みどり色)の地紋となっており、特にマルス端末用の特殊共通券紙がみどり色であったことが、現在の「みどりの窓口」の由来となったと言われています。

当時の南仙台駅では新幹線用の指定券は硬券による発券となっており、わざわざ硬券特急券を入手したいがため、特急券を仙台駅で購入せず、レンタカーで立ち寄った南仙台駅で購入した次第です。

新幹線用の指定席特急券は、表面には乗車区間や料金など、必要最小限の情報しか記載されておらず、座席指定などの情報は裏面に記載するようになっていました。


   

裏面です。
左から縦書きで乗車日が記載され、その右側には座席指定情報が2段書きで記載できるようになっています。これは、改札内での途中駅を一部通過する速達タイプの列車は「やまびこ」号と、途中すべての駅に停車する各停タイプの「あおば」号相互間の乗換をした場合を考慮したものとなっています。


現在の東北新幹線には「あおば」号という列車はありません。これは、JR化後の1995(平成7)年に「あおば」号のうち東京駅~那須塩原駅間だけ走っていた列車の名前を「なすの」号として分離されたことからはじまりました。
東京駅~那須塩原駅間の運転では「あおば」の名前の由来だった青葉城がある仙台を通らないため、那須塩原駅の北西側に広がる(那須野原)にちなんだ「なすの」号になったと言われています。
そして長野行新幹線(北陸新幹線の高崎駅~長野駅間)が開業した1997(平成9)年に、JR東日本は新幹線の列車名を、通過駅の区別ではなく「行先」によって分けることとし、東北新幹線は、東京駅~仙台駅・盛岡駅間を走る列車が「やまびこ」号、東京駅~那須塩原駅間の列車が「なすの」号に統一され、これにより「あおば」号が廃止されています。
これはいろいろな名前があって分かりにくいと利用者から苦情が寄せられていたことによるそうなのですが、これによって「あおば」号は初めて廃止された新幹線の列車名になっています。

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青森駅発行 おおぞら1号 特急券

1980(昭和55)年1月に青森駅で発行された、函館から札幌までのおおぞら1号特急券です。


   

若草色こくてつ地紋のD型大人・小児用券で、仙台印刷場で調製されたものです。
列車名・乗車区間・発車時刻などがすべて予め印刷されている券で、国鉄部内では「常備特急券」と呼ばれていましたが、蒐集家の間では「完全常備券」として大変人気があります。


当時の青森駅は関東や関西からの優等列車が発着し、また、青函連絡船の桟橋がある本州の玄関駅でありますので、当然ながらすでに券売機や指定券端末の類は揃っていましたが、この券は硬券で発券されています。

これは、当時のマルス端末はメンテナンスなどができるよう、夜の22時頃からシステムが停止していたのですが、この券が発券されたのが深夜帯であったため、予めマルス端末で座席を抜いておいて台帳を作成し、発券の都度消しこみをしながら硬券で発売していたためです。
通常の駅であればみどりの窓口は夜間営業していないため、マルス端末を夜間停止していても問題ないのですが、青森駅は夜間でも列車が運転されて青函連絡船との接続をしていたため、夜間でも指定券購入の需要があったわけです。

この券もそのような事情の中で発売されたものですが、正月3が日の列車でありましたが、元日の夜に里帰りする旅客は年内に比べればはるかに少なく、辛うじて「飛び込み」でも特急券を購入することが可能でした。しかしながら、窓側の席はなく、通路側の「C席」になってしまっています。


   

実際、時刻表を見てみますと、おおぞら1号は函館駅を04時45分に発車し、札幌を経由して14時55分に釧路駅に到着しますが、この列車に乗車するには青森駅を深夜の00時35分に出航する第1便か、00時10分に出航する第11便に乗船するのがスタンダードであり、それらの旅客がおおぞら1号の特急券を購入していなければ、青森駅に着いてから、乗船までの待ち時間に購入する需要があったため、このような措置が取られていたものです。
ちなみに、11便は「桧山丸」という、俗に言う「津軽丸型」の一般的な船型の船舶ではなく、航送専用船を改造したグリーン船室や寝台設備の無い船舶が充当され、普通船室以外の設備を希望する旅客から敬遠されていました。


   

函館駅を04時45分に発車したおおぞら1号は、定刻通りであれば札幌駅に08時55分に到着することになっており、時間的にそれなりの需要がある列車でした。

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室蘭駅発行 連絡船経由の乗継割引特急券

以前御紹介したかと思いますが、1966(昭和41)年7月に室蘭本線室蘭駅で発行された連絡船経由の乗継割引特急券です。


   

青色こくてつ地紋のC型大人専用券で、札幌印刷場で調製されたものです。

「(甲の1)」片は東室蘭駅から函館駅までの特急おおぞら号の乗継割引特急券で、「(甲の2)」片は青函航路下船後の青森駅から上野駅までの特急はつかり号の特急券になります。


   

裏面です。裏面は券番しかありません。


1961(昭和36)年のダイヤ改正より、本州と北海道の特急を連絡船を跨いで1枚の特急券で発売する「結合特急券」制度が行われていましたが、結合特急券制度は御紹介の券が発行される約3か月前の1966(昭和41)年3月のダイヤ改正で廃止され、その代替制度として、東北線・奥羽線経由の特急と北海道の特急または急行をその日のうちに、もしくは翌日に青函航路を介して乗り継ぐ場合、北海道の特急または急行の料金が半額になるように変更されています。この制度は四国向けにも導入され、東海道・山陽線の特急「瀬戸」号と四国島内の特急または急行をその日のうちに、または翌日に乗り継ぐ場合にも適用されるようになっています。


ところで、御紹介の券はC型券ですが、うまい具合にダッチングで2枚共所定の位置に打印されています。当初はゴム印かと思ったのですが、よく見ますと(甲の1)片と(甲の2)片の間の点線部分にハサミで切れ目を入れ、器用にダッチングを入れているのです。


   

このように切れ目が入っています。
全く折り目なくダッチングが入れられており、恐らくこの券を発行した出札掛員は、通常でもC型券への日付の打印をこのようにしていたのかも知れません。このような状態で残されているC型券はかなり少ないと思われます。

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〇委 川岸駅発行 辰野から100kmまでの急行券

1983(昭和58)年6月に、中央東線の川岸駅で発行された、辰野から100kmまでの急行券です。


   

桃色こくてつ地紋のA型大人・小児用の記急①様式で、新潟印刷場で調製されたものです。
「記急①」は発駅を記入するために空欄となっている100kmまでの急行券で、全国どの駅からの券にもできるように設備されています。
「①」は100kmまでの券という意味で、50kmまでであれば「〇05」、150kmまでであれば⑮、200kmまでであれば②、201km以上であれば③というように数字が割り当てられていました。50km刻みの区間ができたのが国鉄末期であったため、「05」だの「15」だのという数字が割り当てられたものと思われます。


この券は辰野駅から急行こまがね号で飯田線の市田駅へ向かうために購入したもので、川岸駅から辰野駅まで中央東線の普通列車に乗車し、辰野駅から実際に使用しております。
辰野駅では接続時間があまりなく、同じホームからの発車であったことから、改札鋏は入れられておりません。


   

裏面です。新潟印刷場の券は券番が5ケタになっています。

当時の国鉄では現在のように使用済の乗車券類の管理が厳しく、持ち帰ることができるかは改札掛員の裁量次第でしたが、市田駅では裏面に無効印を捺印のうえ、頂くことが出来ました。掛員によっては無効印は表面でなければダメだとか、表面左右に2か所も捺すとか、いろいろなパターンがありましたが、当時としてはかなり緩かったです。


発行駅である川岸駅は中央東線の駅で、「大八廻り」と呼ばれる区間にある駅で、現在の岡谷~塩尻間の塩嶺トンネルをくぐる「塩嶺ルート」とは異なる、大きく南へ迂回して辰野駅を経由する旧線にあります。大八廻りは当時の鉄道局長で帝国議会議員でもあった「伊藤大八」が伊那谷出身で、鉄道を伊那谷の入り口を通そうと画策し、塩尻峠ではなく辰野を迂回するルートに変更させたのが由来で、伊藤大八の名前をとって「大八廻り」と呼ばれるようになったという話を聞いたことがあります。

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鶯谷駅発行 銀河51号急行券・指定席券

1985(昭和60)年7月に東北本線鶯谷駅で発行された、銀河51号の急行券と指定席券です。


   

若草色こくてつ地紋のD型準常備式券で、東京印刷場で調製されたものです。国鉄では座席指定券を若草色(みどり色)にしたことから、緑色の座席指定券を発売する窓口ということで「みどりの窓口」が誕生したという話があります。

準常備式は発売金額に応じて右側の断片を切り取って発売する様式で、東京から大阪までは営業キロが201km以上ありますので、当時の普通急行料金では最長の「201km以上」1700円のところで切られています。売上精算は残された断片で行い、発売金額の脇にある半角数字が売上精算の際に計上する売上額となります。


   

こちらは同様式の料金改定前の見本券となりますが、国鉄東京印刷場管内で2023番というパターン番号が付与された準常備式急行座席指定券「準急ザ」と呼ばれるものになります。売上精算時には右側の断片が駅に残り、売上の「証憑(しょうひょう)書類片」として審査に回されます。


急行「銀河」号は1949(昭和24)年9月15日、戦後初の特急「へいわ」号とともに誕生した東京~大阪間の夜行急行列車で、夜の東海道を走り続けてきた名列車です。
御紹介の券が発券された1985(昭和60)年当時、東海道本線のなかでも歴代最長寿急行列車であるとともに、単独列車の愛称としては最古の列車でありました。また、オール寝台車の急行列車は「銀河」号のみであり、いかにも東海道本線の「主」といった存在感がありました。

東京~大阪間の夜行バスがまだ発達していなかった当時、東阪間の夜行列車の需要はそこそこあり、夏休み期間中などの繁忙期には指定がなかなか取りにくく、臨時の「銀河」号が東京~大阪間や品川~大阪間で増発されていました。
御紹介の券の「銀河51号」は全席指定の座席車で運転されていましたため、急行券の他に寝台券ではなく、座席指定券が同時に発行されています。

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矢岳駅発行 矢岳から50kmまで 急行券

1982(昭和57)年12月に肥薩線矢岳駅で発行された、矢岳から50kmまでの急行券です。


   

桃色こくてつ地紋のA型大人・小児用券で、門司印刷場で調製されたものです。
この券は1978(昭和53)年10月に、九州・北海道及び四国の「3島」路線区域と東北・山陽・山陰の一部区間に「50kmまで」の料金帯が設けられた時期の様式で、「九州内相互間を1回限り2日間有効」という文言が入れられています。


   

裏面です。券番のほか、発行駅名が記載されています。


当時の矢岳駅は急行停車駅であり、御紹介の券は発売駅発の急行券になりますが、乗車駅名が予め印刷された「常備」のものではなく、乗車駅名の印刷されたものよりも記入するタイプの「記急」が使用されています。
常備券があれば出札掛は手間の掛からない常備券を使用すると思いますが、この券が発行された時期の同駅の利用客数は大変少なく、また、同駅に停車する急行列車は熊本~人吉~吉松~宮崎間の急行「えびの」号2往復であることから、同駅には常備券の設備はなく、記急券での対応であった可能性があります。


   

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当時の肥薩線の時刻表になります。
矢岳駅から50kmまでの急行停車駅は、隼人方面が真幸駅と吉松駅、京町駅および小林駅で、八代方面が大畑駅、人吉駅のみであり、需要が見込めるのはせいぜい吉松駅と人吉駅というところであり、やはり常備券は設備されていなかったかも知れません。

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東京駅発行 ホームライナー津田沼号 乗車整理券

1986(昭和61)年11月に東京駅で発売された、ホームライナー津田沼号用の乗車整理券です。


   


黄褐色こくてつ地紋の車急式軟券となっています。
これは国鉄時代に発売された乗車整理券で、前回エントリーのJR東日本のライナー券の原型となるものです。


ホームライナーは国鉄末期に回送される特急列車の一部車両を開放して旅客扱いした列車で、北海道を除く殆どが座席定員制もしくは座席指定制で運転されています。
東北本線の上野駅から大宮駅までの区間の列車がその第一例目で、ホームライナー津田沼号は第二例目になります。

ホームライナー津田沼号は国鉄民営化後も運転され、末期は千葉駅まで延伸されてホームライナー千葉号になりましたが、2019(平成31)年3月のダイヤ改正で廃止されてしまっています。

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南仙台駅発行 仙台から上野まで 新幹線指定席特急券

1985(昭和60)年6月に、東北本線南仙台駅で発行された、仙台から上野までの新幹線指定席特急券です。


   


若草色こくてつ地紋のD型大人・小児用券で、東京印刷場で調製されたものです。

様式的には前回エントリーの新潟印刷場で調製された燕駅で発行されたものと同一ですが、印刷場の違いにより、活字や発行駅名の印刷の位置などが異なっています


   


裏面です。
こちらも新潟印刷場のものと同一ですが、新潟印刷場のものには1本目の列車の乗車駅名の印刷がありませんが、東京印刷場のものには乗車駅名が印刷されています。


   


新潟印刷場のものを再掲いたしました。東京印刷場のものは「仙台」と印刷されていますが、新潟印刷場のものは印刷が無く、罫線のような横黒線も引かれておりません。

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