水の神さま、とか 土の神さま、太陽の神さま、という表現が
まどろっこしい。
神、がつくと 象徴、代表する神的な個体がいるような錯覚を抱かせるが、
実際は、どなたか水の神さまとか、弁天(サラスバティ)とか、いるわけではなく
あらゆる水そのものに神が内在している。
だから、水さまでよい。土さま、お日さま、草さま、花さま、樹さま、石さま、人さま。
神社にしても、水にちなんだ神さまが祭られている、というと
そういう神さまがいるんだ、と誤解して、その存在に思いが集まりやすいが、
わざわざ水をダシにしたヒーローやヒロインを崇拝する必要はなく、
自然と、愛おしさがこみ上げてくるような水環境、水場を創ったり、保っていればいい。
でないと、水の神さまのことは日々お慕い申し上げるが、実際のご近所の川は汚れたままという
本末転倒が起こる。
トイレの神さま(うすしま明王)も、昔に誰かが作ったアイドルで、本当はいない。
様々な名の付いた神や菩薩、如来など神道仏教問わず、信仰を拡大させるためのキャラクターになる。
もちろん、そういう偶像を思うことで日々の生活にはりが出て、生き生きと役立てば
悪いとはいわないけど、シンプルに、おトイレさまでよい。
トイレには美しい女神がいるから、そのお方を悲しませないために、
また、歓ばせて、ちょっとご褒美を期待して、いつもキレイにしておかなきゃ
という回りくどさじゃなく、トイレ自体がおトイレさまだから、ご利益云々関わらず
大切に扱って当然という感覚が、大自然万物が神というアニミズム。
縄文人はそんな心で、侵略されるまでの1万年以上の間、平和に自然と共生した。
その人がたを迫害した新たしき勢力が、征服と信仰のモニュメントとして建立したのが、
神社なりお寺で、元々日本に住んでいた縄文人の文化には存在しない。
神主やお坊さんは、近隣の人々のよき相談役や協力者として機能するが、
大元は同じで、朝廷や領主、大名が税の取り立てなどで支配する一方、
同じグループ会社で、被支配者のガス抜きをするのが、信仰側の役割。
厳しい圧政に苦しむ大衆に、「大丈夫、いつもにこにこ微笑んだり、呪文を唱えていれば
今は苦しくても、必ず極楽浄土に進めるから」という信仰のすすめは、
支配者にとって、奴隷を手なづけるのに都合がよい。
それで、ひたすらお経地獄、のりと地獄になりますが、その呪文を唱えるほどに、
信仰対象へ思いが注がれて、ますます支配勢力が栄える。
意識を向けやすくするために、次々に、色んな神仏キャラクターが作られた。
○○のみこと、△▽ぼさつ、のように。
大自然の森羅万象に神の名を与えたという解釈では、多神教、八百万の神として
自然と共生する知恵のように思えるかもしれないが、
樹を前に樹を見ず、樹の神さまを仰ぐ、というように意識が真の対象からはずされ、
その神様キャラクターを作った信仰勢力へ思いが運ばれる仕組みになる。
もちろん現代では、日常の暮らしの中で、お寺も神社も、ほどよい距離感とアクセント、
むしろ精神的安らぎを与える場ととらえる人が大多数でしょう。
ただ、昔からあるし、前提として善の、疑問を持たざること当然とくくってしまうと、
誰かが悪を働く上での隠れみのに利用したときに氣づけない。
この記事は、寺や神社を否定するのではなく、そのはじまりから
近世に至る、宗教とまつりごとの機能、利用をかえりみることです。
実際、各宗教には軍の組織も付いていたし、ヨーロッパが南方に植民地を
広げるときも、キリスト教とセットです。
しんどい目に遭わすのが目に見えているから、その憎悪や反乱を抑えるためにも、
救済の教えに意識をそらす。地獄や天国という圧倒的な希望や不安を元に、
現実から目をそらさせて、嫌なことを我慢させるのが宗教の役割でもあった。
そういう過去も理解しつつ、なお人々の心に深く浸透している信仰心を
未来に向けてよりよく生かすために、神社やお寺を神聖なスポットとして崇める意識から
身の回りの環境全部が尊いことを知る。
金殿玉楼を仰ぐのではなく、一人一人が足元を美しく調えれば
どこもかしこもパワースポットとしてのポテンシャルを発揮するでしょう。
| Trackback ( 0 )
|