ふろしき王子のブログ◎
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ふろしき本新刊におけるコラムを書くにあたって
内容を箇条書きにしているところですが、
本日の連続投稿は、おそらく、これから文章を書くための
ウォーミングアップとして、体が自然にこう導いているのかな。


僕のブログの内容は、ふろしきの件があまり多くなく、
お庭の生き物だとか、そこから環境問題に広げたり、
縫い物、歩くこと、料理などと、一見一貫していないように
見えるかもしれませんし、自分でも引き出しはバラバラと思います。

逆に、人間によっては、料理なら料理、アロマならアロマオンリー、
ヨガならじゃすとヨガ、星うらないなら星うらない、というように
ひとつのテーマに対して律儀に沿っている、そういうブログなり
活動なり、作品の表現をするほうが多いでしょう。


だけど、個人的には視点が多いほうがよいと思っていて、
たとえば、水道管が古くて、実は赤錆だらけの水を
日々飲んでいて、もしかしてそれが元で体調が優れないかも
しれない人がいるとして、
その人が、たまたまアロマテラピーにはまって
「私には香りが足りなかった!アロマで無限の美と健康をとり戻せる」
として、アロマの勉強と実践に励むこと、それは
とても素晴らしいことであるし、本人の氣が乗っていることは何よりも
心身に好影響があるとは存じますが、

「アロマできっちりと調えておけば、全て上手くいく」とくくってしまうと、
飲んでいるお水を、ちゃんと味わえば錆の匂いがするかもしれないのに
その感覚までもフタがされかねない(アロマというのは、一つの例であり
個人的にアロマは好きです)

例を変えれば、自然食を志向する方の中にも、
「玄米菜食をきっちりと貫いているから、何もかもうまく行くに決まっている」として、
他の、基本的なプロセスのつめを甘くして、かえって周りに迷惑をかけないともいえない。


まあ、だとしても、ブログならブログ、仕事なら仕事で、あるテーマで
まとめようとするのは、自然な感覚なのかもしれません。

だけど、一つのテーマだけで連ねていくのは、僕には不自然さや
無理している、演じているように感じられてしまう。

確固たる核心があれば、表面的な表現形態が変わることに違和感を感じないはずで、

逆に、表面的なパッケージングで統一しつづけなければならないというのは
自らの中心に、核が無いことの表れといえないか。

たとえば、何でもかんでも、鮮やかな紅色の色調の作品を発表する
アーチストがいたとして、そのコンセプトが「命」であったとしても、

命は紅色でしか表現できないともいえないので、
全て紅色で統一するというのは、やはり核が無いために
表面を揃えないと身もふたもない、ということであり
命というコンセプトも後づけさくさくと思われても仕方ない。

青でも表現できる。白でも。透明でも。猫でも。にわとりがモチーフでも
命を表現できる。砂つぶでも、カレーでも、ほうきでも。

第一、命という抽象的な言葉ひとつで自らの核心を表せるはずもなく、
言葉に置き換えられる時点で、表現する意味をなくす。

自分でも分からず、言葉にも表せないけど、れっきとして自らにある泉から
湧き上がる作品は、紅色の表現とフォーマットを決めることも
かなわぬほどに自由であるけれど、底の土台は、えもいわれぬ安定感がある。
それゆえ、どのようなスタイルを選ぼうが、ままに、自然に振舞える。
それが本来、生きること=芸術であり、
全部紅色でイこう!って設定することは、洗練はされても創造的とはいえず、
むしろデザイン(設計)の範疇でしょう。

僕だって、「おし!あたきはこれから、風呂敷で生計を立てていこう!!」と
はじめに決めて活動をすることになったのなら、もっともっと
計画的に、風呂敷の展開を設計して、世に繰り出していたかもしれないが

はじまりが、単に学生時代に使い捨てゴミを減らすために
個人的な趣向で使っていただけのところに、
受身的に、結び方を披露されたしと依頼を受けて
出向くようになったものだから、

ブログにしても、戦略的に、 講座に呼んでもらえるように、とか
風呂敷がたくさん売れるように、こういうターゲットが
心理的にこう感じるように、ほのかに誘導されるには
こんな風に記事を仕立てていこう、 とは書いておらず

マイブームだけで、庭のカエルとか、ヨシとか書いているのです。

それで、現在は確かにふろしき関係で、お蔭さまで仕事になっているのですが
めっきりと呼ばれなくなれば、何とか復活しようともがくことも、
仕方ないと嘆くこともなく、マイペースの自然体で
そのときのマイブームを追究しているでしょう。

そんななのに、一見ばらばらなマイブームが手を結んで
互いに向上させ合うことがあるのは、どれも基点が僕の重心(中心)の
足裏あたりから発されていて、核を共にしているからでしょう。

夏には夏の、冬には冬の役割がある。
挙動はまるで異なるけれど、同じ一年の環を共にする。
輪の中心にはお日さまがいる。
自分の奥の奥にある、お日さまに正直に生きる。
そのためには、何かを演じてては、ずっと冬、とかずっと夏、となり
地球(自分自身)は壊れるだろう。

仕事だからって、その世界のみにアンテナを張って表現するのは
その人のほんの一部分しか見えてこなくて、嘘くさくなる。
しかも、たとえどんなにその分野を掘り下げて熱く語ろうが、
本意は、ちょっとした端々に表れて、野性を内在する
人には見抜かれてしまう。

僕だって、誰でも閲覧できるブログであるから、
書く内容は、逐一判断して、書いても載せなかったり
削除することもある。ただし、はじめからこのテーマだけで
書こう、と決めることはしない。
こういうのを、ポジティブフィードバックともいって
この一歩を出さないと次の一歩が見えないという、
目的目標点が無い代わりに、虫探しのように
自分で発見する楽しさがある。
日本人は目標中毒だ。

何か、夢や目標を立てて、それに向かって進まなければならないという。

でも、本質のところは、一歩一歩が完成されていて、その一歩ごとに
スケールが大きくなっていくことだと思うので、
分け隔てなく、優先順位も付けず、全ての瞬間の愛を奏で響かせていくことが、
勝ち負けを超えた花を咲かせることになる。

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裏庭に発砲スチロールの箱を置き、
増えすぎた水草などを入れておいたが、

ここ2,3日は水の減りが早く、とうとう今朝は
ほぼ水が枯れていた。
小エビやメダカが少なからずいたのを救い、

水草を他の容器に移してから
箱を裏返すと、
発砲スチロールながら、虫に食い掘られたような小穴が
たくさん開いていた。それがついに貫通して決壊したのだろう。
底に穴とは、まるで原発とリンクしているようだ。

虫が発砲スチロールを食すとは思えないが、
巣穴のように掘り進んだのかもしれない。

猜疑心の深い人間なら、近所の住民の嫌がらせと思ったかもしれないが
問題の原因というのは、対立する敵ではなく、想定外にある。
たかをくくっていたわけでなくても、まさかということがあるから、
はじめから、安定という視点を持つべきでしょう。

安定という意味では、猫が引っ掻いてもポロポロ落ちてまう
発砲スチロールを使うというのは、やはり一時しのぎであるから
陶器のカメや睡蓮鉢のほうがよい。

発砲スチロールを使うにしても、
置く場所が土まるだしではなく、
小石のようなものを敷き詰めた上に
角材などですのこ状にして
水はけや通氣をよくしておき、
さらに箱の周りは厚手のビニルなどで覆ってから
しっかりとロープで巻いておくとよい。
やはり日本では風通しが命だな。

庭の田んぼも発砲スチロールを埋めているが、
確かに水の抜けが早い箱がちらほらあり、
実際、毎年新しい箱をスーパーなどからもらっている。
来年の田植えからは、発砲スチロールは卒業して
プラ舟など、もっとがっちりした容器に進化させたい。

話が少し変わるようだが、

おそらく戦争というものも、スケールの大小を問わず、
何かトラブルがあったときに、裏庭のさらに裏側の石の裏から
誰にも知られずに発されている毒素のごとき全く目立たないものに
氣付くことなく、
その原因を、かねてより憎んでいた対象のせいだと思い込んで
疑心暗鬼を濃くしていき、ちょっとしたきっかけから、
むしろ戦争をしたい人間たち(それが利益につながる業界など)が
タイミングを計ってけしかけることで起こされるのかもしれない。

要するに、内政問題の憂さ晴らし的に、弱い(見下している)相手に八つ当たりして
追いつめて戦争状態に発展させることになりますが、
そういうことは、国同士のみならで、友達や家族の間でも起こり得ること。

既に嫌なことが2つ重なって内心イライラしている人間に、
何か些細なことであれストレスを与えたら、
その最後に事を起こした人が全ての厄の元のように攻撃されてしまう。

だから、怒るという感情は自然なもので抑える必要はないとしても、
反射的に怒るのではなく、ひと呼吸、ふた呼吸おいて、
それでも、相手のためにもここはひとこと伝えておかなければ
全体的な損失になるという場合に、冷静に怒るという姿勢が大切で、

そうでなければ、怒りの原因は、最後の一滴でコップからあふれさせた
事案ではなく、既に、むしろ日常の自分の習慣化されている
心や行動の嘘によるストレスの蓄積が、コップの大部分でしょう。

そして、とても問題なのは、自分が知らずと潜在的に
見下したりしている、弱い(弱く見なしている)相手に
怒りや憎しみを当てがちなので、正義心での怒りに見えても
実際はただの弱い者いじめにすぎないことが怒りの表出の99%でないかと。

溜まりに溜まったストレスを、自分より弱い者に対して
さも正当な言い分をつけて攻撃しているのを
本人のために叱っている、しつけている氣になっている人間が
非常に多いのではないか。
その怒りはもちろん相手のためにもならず、相手に新たなストレスを
加えるだけで、負の連鎖を生みかねない。

たいてい、自らを抑圧しているものがあるとすれば、
それは自分よりも立場が上という意味での強い人間によるものだ。
そこに、死を恐れぬ勇氣で歯向かおうとするならよいけれど、
近代における支配側というのは悪賢さに長けているのが
支配側たるゆえんだから、
上に対して抗議の行動を起こしても、噛ませ犬のような役割の人間や
対応があてがわれ、ガス抜きで終わらせられる可能性がある。

まず、自分の日常における心身を安定化させておくこと。
重心の低い土台から発せられる感情や行動には、
自我を超えた大地、大自然の法則にのっとっているという
揺るぎない理がある。
すぐに結果や賛同が得られずとも、そのように、自分を媒介した
大宇宙のぶれない真実を愚直に歩んでいたならば、
必要なタイミングで、ことはなるように、よきに運ばれるでしょう。

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今日から9月!

ちなみに9日は誕生日です。


今月は、人生の中で5番目くらいに忙しくなるかな?(5という数は勝手に決めた)

・風呂敷を100枚以上、縫って染める作業
・掃除、洗濯(おむつ含)、炊事
・水やり
・新しい本のイラストやコラム


と、書いてみれば 日々愚直にたんたんと続けていれば
何とかなる(あとは天が決める)だろうから
むしろ、今後はもっと忙しくてもよいという思いをこめて
今月は生涯で20番目に忙しい月、に訂正いたします。

先日、ユザワヤから生地が125メートル届いた。これをひたすら
・裂く(ハサミで裁たず、薄手の生地なら3cmほど切った後に糸目で裂くほうが正確ではやい)、
・縫う(祖母が、足踏みミシンの本体を机からはずして、モーターを付けたもの。重いけど長持ち)、
・染める(このたびは、生大豆の汁ですりすりと大量に墨をすったもので、書初め用の太筆で直接描く。
    字の得意な妻に依頼)




大きめのミシン糸は傾いてしまうので、


ヨシの茎(中が空洞)を芯にはめたら都合よい。



昨日は10枚縫いましたが、今日は何とか15枚以上はいきたい。
その合間に、おやつのホットケーキを焼こう。

粉は、近所の製粉所で北海道の地粉(道産粉・どさんこ)を
5kg単位で買っている。スーパーよりも安くて新鮮。
小麦は米に比べてミネラルが少ないので、それだけでは主食にならず
あれこれ混ぜたり、発酵させて栄養を増すことになります。

今日のホットケーキには
粉 油少々 重曹 みりんかす(酒粕の味醂版。甘みと芳香)
塩 水をこねて、フライパンで両面蒸し焼く予定。

妻は本日、クリームチーズが食べたいというので後でそれを乗せる。

こういう、毎日のこと、洗ったり掃除したり食べたりは、形には残りにくいけれど
(食べ物は子どもの成長という形ではのこるが)
だけど、細胞レベルでは遺伝子に刻み込まれ、また、宇宙の何か見えない
データバンクのようなところには残るのだろう。

それが、また想像もできないような形で、見ず知らずの存在に
お互い影響を与え合っている可能性があるから、
日常の繰り返しの、地味で目立たない、せつな的なことであっても
いっこいっこ大切に扱おう。

たとえ、いつか地球が死ぬときが来ても、
この星の上で育った植物を誰かが糸にして、
織って、縫って ふろしきになって、
そのいちまいの風呂敷を、ひとりの女の子が結んだ瞬間に
生まれたちいさなきらめきは、いずれ
宇宙の新しい星を形づくるエネルギーになるでしょう。



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