ふろしき王子のブログ◎
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ありがとうございます。

いや~ やはり 植物は愛(め)でたき存在です。

ヨシの幼木に胸きゅん としたり
夏みかんの小さい芽からも噴き上がる芳香に腰を抜かし、
樫の苗木をなでながら、いつかの大樹を夢想、
クチナシの葉をもりもりと食べて、美しい薄水色をたたえた
オオスカシバ(蛾)の幼虫を観たり、

マイケルジャクソンの仰る通り、植物に接することは
優しい心を思い出させるようです。

でも、植物を好き過ぎるのが、逆に人間嫌いの裏返しとならぬよう

人もまた、植物を食べて、または植物を食べた動物を食べて
できた身体ですから、人も植物の結晶です。
植物は、大地と水とお日さまの結晶で、
これらによる生命循環の仕組みを、神といいます。

神さまは、たぶん  神社にはいません。


ちいさき草や虫も、ミネラルな石ころも、そして自分ら人も含めた
生態系、環境そのものが神なので、どこかの誰か、尊き存在というお方という
わけにはいきません。


さて  新しい本のための、4つのコラムを
先ほど、書き終えました。編集の方にいっぱい修正いただくと思いますが。

日々こうしてブログを書いているので、拙いながらも書き慣れてはいますが、

やはり確固とテーマが在り、加えて文字数制限もあるとなれば
ちょいと姿勢も変わってきます。一日中座り込んでてお尻が痛くなりました。
その合間の氣分転換のように、おむつを手洗いしたり、子どもと手をつないで
買い物にいきます。その日暮らし???なので、今日はアボカドを1個だけ買って帰りました。

もう1個欲しくなったらまた行けば、2人してよい運動になります。

そして、百日紅(さるすべり)といいながらも、いつか散るときが来るので
近所のその、ちょっと損しているような名前のお花を
息子と一緒に眺めています。ああ、庭木にいいな、サルスベリ。

一方といって引き合いに出すのもあれですが、ハナミズキは
猿滑りよりも名前がよいかもしれないけれど、外来種で、乾燥にも弱いので
街路樹や庭木には不向きのように感じる。
だけど、歌の人気や名前の響きのよさから、今もたくさん植えられている。
無理して生えるハナミズキを減らす愛護?の精神からも、
「鼻水樹」という漢字を当ててネガティブキャンペンしようかしら。

それは冗談としても、庭つきの一軒家に住んでいたお年寄りが天に召されたり
老人介護施設へ預けられたりすると、子や孫、親戚がいらして
元々の家を解体し、プラモデルみたいにすぐに家を新築して住む、という
パターンがよくあるが、2つもったいなき点がある。
1つは、家の柱など、再利用に値う立派な古材であれ、バキバキに解体してしまうこと。
土台や配管を直せば、そのままのおうちの方が今後も長持ちして
住みやすかったかもしれないかと。

2つめは、そこん家のおじいちゃんなりおばあちゃんが、毎日手や目をかけて
慈しんできた庭木も、たいていこま切れに伐られて、材として生かされることもなく廃棄される。
(家の柱は銭湯の燃料になるかもしれないが、生木は焼却場かチップになるだろう)

新築の庭に植え替えたり、材木として使えるように時期を選んできちんと切って
残しておくという選択がほとんどなさそうなのが、悲しい。
庭などどうでもよく、土地ぎりぎりまで建物を広げて、
あとは駐車場にするタイプの多いこのごろでは、
何十年もここで育ってきた樹は邪魔者でしかないかもしれないけれど、

せめて、冬の新月に切っておけば、それを裏庭に放置でもよいから
自然乾燥させて、家具などに充分使えるのになあ。
(生長する暖かな季節や満月周辺の日は、水分や糖質の関係で、かびや虫食い、変形しやすい)。
植物に対する畏敬や慈愛がなさすぎるようで、こういうことは
これから、意識を変えていかなければならないと思う。

神社に神さまがいると信じて願いごとをする前に、
自分たちの命を支えてくれている大自然に頭を下げようと。

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