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本日、無事に34才の誕生日を迎えました。

9/9生まれの僕にとって、33才は3×3=9で一つのしめくくり、
34才は新たな門出、鼻向けという感じがします。

今までが、居場所を求めてたゆたう綿毛の遊子(旅人)だったとすれば、
これからは、泥に頭を突っ込んで根を張り巡らし、旅人や虫たちを迎え、
育む側に転ずる折り返し。



とはいえ、どのグループにも所属しないマージナルな生き方は変わらないでしょう。
分け隔てなく、袖触れ合った人がたと助け合う裏の拠り所、居場所となれるように
生き物と植物と人、太陽と水と土、風と星々と歌 の三位一体を
具体的にかたちにしよう。

人も生き物も、食べ物のあるところに集まる。食べ物の元は植物だ。
植物は、少なからず光と水分があれば、その土地に適したものが自生する。

それが、人の食べられる植物でなかったら、その植物を食べる動物の命をいただくのが
自然なかたち。バッタを食べるというわけにもいかないから(イナゴは食べるが)、
そうなると、バッタを食べる蛙、というようにさらに食物連鎖の上を見る。

蛙を食べるヘビやイタチ、鷹にまでなると、ちょいと濃くなりすぎて薬食いになる。
湿地であれば、まにまにいただくサチは 蛙ということになる。
実際、タイの田舎などでは普通に少女が蛙を集めてきて、家族の夕飯にしたり売ったりする。

少し乾燥した草原になると、草を食べるのはノウサギ。人は草の結晶としてのウサギを食べる。
樹混じりの半日蔭の野では、もっと葉が柔らかくなり、鳥が食べる。飼うならばニワトリ。

うさぎと鶏は、食べる草葉の種類が違うから、一緒に飼っても取り合いにならない。



でも、やっぱりこうやってカエルやうさぎ、キジが自然の野原だけで
増えたのを食べるには人が多すぎるから、
彼/女らを育むファームとしての里山がある。
田んぼはお米を採るためだけではなく、同時に、フナ、蛙、へび、うなぎ、スッポン、
鯉(在来ののごい)、どじょう、たにし、キジ、鴨といった
人の食すこともできる様々な命を育む場となる。

最近は肉を食べない、ベジタリアンの方も徐々に増えてきているようですが、
肉をやめて健康になる人は、今まで食べすぎていて、体内にストックがあるため、
米や野菜だけの食生活でも、実際は過去に摂った肉の栄養を使って生きている。
だから、長年続けてストックがなくなると慢性栄養失調状態となり心身の不調に
つながるため、海苔や発酵大豆食品などで上手にバランスをとらなければ、
生涯完全ビーガンというのは難しい。



肉食の問題は、第一に家畜の劣悪で非人道的な育てられ方があるから、
工業製品のように生産するのではなく、田んぼのように、自然に生き物が
やってきたり湧いたりしたのを、必要な分だけおすそ分けいただく形がよい。
最後は捕って食われようが、生きている間は自由でしあわせだった、という在り方。
動物の命を奪うのは残酷であると、100%菜食を叫ぶよりも、
まず不自然な家畜の扱いと肉食過多を減らして、歯の割合(32本中4本が肉用の犬歯)に沿った
87.5%菜食を増やすことが、現実的です。
となると、1日3食とおやつ(卵や乳入りの菓子など)で4食とも
動物性食品を食べている人が、その摂取を1日1食にするだけでも
それまでの肉食100%から、肉食25%になり、かえって質とありがたみを上げて
美味しく吸収よく健康的にいただけて、大量生産の家畜のシステムも変わる。

このくらいの量であれば、家でニワトリを飼って(鳴き声が心配ならメンドリだけ)
その卵を食べる程度でだいたい足りる。野菜くずや残飯でまかなえるので、エサ代はかからない。
鶏糞は75%栄養が残っているのでよい窒素肥料となる。家庭菜園におすすめ。
土にすき込まず、地表に置いておけば、小虫などが食べてさらに分解し、
雨水でしみ込んだものに土や根の微生物が酵素をかけて、植物の栄養となる。

田んぼの栄養と水源になる大元も森。
森には食べられるどんぐりや木の実、果樹もあり、何よりも命の水のダム、浄水機能を持つ。

ミネラルを供給し、海までも浄化する。
海はその波打ちによって酸素を生み出している。
植物は光合成で酸素を生産しても、夜間の呼吸で同量消費する。



県や国単位の大きい森の保全は何よりだけど、市や町、そして家ごとにも森があるとよい。
ちいちゃくても、木が2本で林、3本で森、5本で森林という。
その樹種は、その土地に元々生えていた極相(安定状態)を司るものがよい。

ここいら多摩では樫の木かな。南へ行けば椎。海辺はタブノキ、のように。

家と庭で、家庭という。持続可能な文化のためには、庭がメインで、
庭に住むにあたって雨風をしのぐ施設を家ととらえる。
電気、ガス、水道、燃料が途絶えても、何とかやっていける庭をめざす。

雨を溜める樹や池、雨水を浄化し、排水を再生する水生植物、燃料になる樹枝、
各家庭に、雨のしみこむ庭と樹があれば地下水も豊富になり、井戸も可能、
そういう昔ながらの知恵と同時に、安定水素(H-)を燃料として
過去と手を結びながら、未来へ進化する。

駐車場を借りる金を惜しんで、本来使用価値も大きい思い出の庭を壊し、
プラモデルのような素っ気ない家を、大金はたいて建てても
原価は安い粗悪品、何十年ともたずに劣化して
資産価値にもならないという現状。



家というのを、単なるうわべの箱ものではなく、内にも外にも
命に対して貢献する一つのかたちとして、
もっといえば、庭の一部分としてとらえて、未来への佳き遺産と
なるように熟慮したいもの。

ともあれ、今日は晴れて誕生日。最近は小言が多いですが、懲りずに
氣楽にご来訪ください。



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