昨日は何とか、染めの土台となる風呂敷を20枚縫った。
ミシンは多少音なりするので、
長屋のタナコである我が家では時間帯を選ぶ必要がある。
今日は外出。
今号で、連載まる3年となる
自然育児友の会の季刊誌での『ふろしき王子のなみぬい工房』の
原稿を届ける。
自らの勉強のためにも続けているページです。
本日は珍しく、洋服と靴のすがた。
先日の撮影で用意したユニクロのシャツにズボンと
マリーナチックな紺の布靴。
普通ぽいが、例に漏れず 風呂敷を斜めに背負っているし
足を締め付けない軍足に、下着はふんどし。
さて はや9月に入り
夜はこおろぎが鳴いているし
緑色の稲穂も垂れ出して、
ヨシは天高く風を泳ぐ。
庭にはカナヘビ(とかげ)の子どもがちょろちょろ。
オンブバッタも肥えている。
日々の洗濯は、たらいに衣類と風呂の残り湯を入れて
足踏みして洗い、絞ってから新しく水を入れてゆすぎ、
多いときは洗濯機で脱水。
足踏み洗濯は、圧が効くのか汚れがよく落ちるし
体も疲れず、水遊び感覚で楽し。
先に体のたのしさがあってこそ
心も自然に楽しうなるだろう。
心の持ちようというのは奴隷を自己完結させる手法になりかねない。
汚れて悪臭漂う部屋でも、氣持ち次第で
すっきりいられるかといっても限度があり、
掃除をして、自然と清々しく感じられるのが普通だ。
心はコロコロ移ろうから、こころそのものの
コントロールは難しい。
体や周囲の環境を調えるほうが確かであるし
それこそが心身を結んで一致させる。
世の中には、色んな人間や人がいる。
共感できることは褒めたり、
理解できないことは
(本意や比喩、脚色を察せない場合も含めて)
批判したりするが、
本当にどうでもよいことには無関心となるから、
ファンでも、アンチでも
リアクションすることは対象にエネルギーを送り、応援になる。
演技であれば、劇場の悪役の俳優を
本氣で憎むことはないように
感情はすぐに冷めるけれど、
自然体に対しては、
心の奥にひそむ目論見や不安に基づく
好き嫌いの感情がつづく。
そういう意味でも、あまり自分を演じたり、
逆に事なかれ主義で、 毒にも薬にもならない
表現ばかり選択するのは
自分を亡きものにし 相手も無関心の、無色となる。
デザインせずに素直であるほど、透明だけど色がある。
たとえば透き通った青色のように。
透けていれば、第3者からの賞賛も批判も
素通りしてしまうだろう。
他人は他人、自分は自分で坦々と。
何かや誰かを好きすぎたり褒めすぎるのは、
嫌いで氣に入らないものが在ることの相対にすぎない。
共通の敵を作って仲良くなる国のように。
だから、嬉しいでも悲しいでも、感情の起伏が大きいのは
自分自身の不安定を意味する。
感情は胸だから、胸に重点(重心)のある者が
氣を昇らせると、頭に血が進む。
すると、今度はその感情を頭で論理的に解釈しようとするが
基点が胸という不安定な位置なので、
その論理も後づけの空論になりやすい。
感情のゆらぎを行動の指針にすると
同情を誘われて騙されたり、
的外れの対応になりやすい。
本当は寝不足がイライラの原因なのに、
全てを隣の喫煙者のせいにしてしまうとか。
感情や条件反射ではなく、
本当にそこに確かな実害が存在するかどうかで
問題であるかを判断すべき。
問題ではないことを問題と思い込み、
真の問題に氣付くことなく消耗していって
瞬く間に人生のついえることのないよう、
自分自身も改めて襟を正そう。
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