ふろしき王子のブログ◎
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庭に自生して可憐に花を咲かせる、名も知らぬ植物、いわゆる雑草なのですが、
剪定か台風で水田に落ちた葉から、根っ子が出ていた。
その生命力を改めて痛感。

いちまいの葉が、一本の樹のようだ。


さて、本日早朝、歯が痛くで目覚めた。

昨晩珍しくごちそうで、鶏肉を食べましたが
ネギや胡椒の薬味がなくて、まあいいやとそのまま食らったことや
ぶどうジュースを飲んだ甘い口で寝たのがきっかけか分かりませんが、

数年に1度、正月などご馳走を食べ過ぎると痛みます。
消化不良などで血液が酸化すると痛むのかと
これをバロメーターにして、再び質素な食事や規則正しい生活に戻すと
痛みがなくなります。

ハイタのお蔭で早起きできたと本を読むことにしましたが、
やはり痛いほうが氣になるので、治そうと思い立つ。
酸うっぱくてしょっぱい、自家製の梅干の梅酢を飲み、
庭に出て、こぼれ種から自然に生えている、こちらはとても苦辛いルッコラを噛み噛み。
あとは、残り湯を追い焚きして半身浴しながら本を読んでから
布団に入って二度寝し、目覚めたら痛みは消えていた。

歯が痛くなるのも、歯だけが悪くなるということはなく、全身の健康の問題。
よほどならば歯医者に行くだろうけど、自分なりに原因が感じられたので
氣の済むようにしました。

何かあったら医者に行けばよいと、自分の体のことなのに医療や薬頼みにして
不自然や怠惰を正さなければ、本来の思考や感情も望めない。
健康な体に健全な心が宿る、という言い方ではない。
人それぞれ、自分に合ったバランスの取り方を体で感じられるはずだから、
その、体からの声を尊重、信頼しようということ。
体との対話、というか。

僕が庭をいじるときも、石を積もうというときに
「ここに積まれたい人~」って庭を見回すと、
何でだか「はぁい」と答えているように感じる石があって、
彼/女たちをお積み申し上げる。

人も動植物も鉱物も水も、細かく見れば、原子(陽子、中性子、電子)、その元の素粒子、
それを作るクォーク、ニュートリノなどでできていて、それらの磁力、関係性の中で
確固たる境界なくつながっているため、石も自分も他者ではない故に、
石の意思は僕自身の内部から引き出すこともできる(誰だって)。

石との対話は妙竹林に思われても、
自分の体との対話がままなっていない人間は現代に多いと思われる。
表面の症状だけ見て、医学的情報の中から、思考で判断する。
もしかすると体は「似てるけど、その知見じゃないんだなぁ」って思ってるかも。

極端にいうと、世の中に医者が存在しなければ、何かあっても助けてもらえないから
普段からきちんと律しておかなきゃ、となって
夜ふかしばかりしてられない、パソコンばかり眺めていられない、
営業目的のコマーシャルは鵜呑みにせず、自分で勉強して判断しなければ、
外食ばかりじゃ不安、この家の水道管は錆びていないか、と
自分の体や家族は自分で守ろうと、生きる上での自立心が芽生えて、
社会全体に健康な人が増えるだろう。

しかし、そんな不安からだけでなく、体自体が潜在力、アンテナを最大限
発揮できる情況となるため、他の様々な行為の質や冴え、きれが上がって、
自己責任ゆえの自由と危険も含めたリアルな生きる歓びにあふれることでしょう。
もちろん、怪我などの緊急的な処置は必要だが、
それに関しても、一人一人がある程度基本的な知識や技術を身につけていれば、
すぐに救急車が来られない現場で、助け合うことができる。

これは風呂敷についてもいえることで、
ふろしきって、結局、何にでも化ける大本の四角い生地であり、
斜めにたたむと帯状、つまりロープになるから、機能が半端じゃなく多い。
それで、災害時などにいちまいの風呂敷があると、自分や周りの人に
有用に役立つことがたくさんあるのだが、
僕一人が風呂敷でてんて子舞っても限りがあるので、
なるべく多くの方が、ただカバンに1枚風呂敷をたたんで入れておけば、
その場で考えて工夫するだけでも、様々に役立つ。
家には、便利グッズを詰め込んだ非常用持ち出しバッグがあるかもしれないが、
毎日持ち歩くのも難儀だろうから、いちまいの風呂敷、運動は有意義と感じる。

そして、年に1度くらいは、予定は未定な旅に出かけよう。
アンテナがとぎすまされる。いつもとは違った視点を得る。
旅に限らないが、女性は、襲われるかもという覚悟も忘れずに。
事件とは、まさかこんなことが、というケースが多い。
マイナス思考というのではなく、最悪をシミュレーションしておけば、
なかなか遭遇しないものだ。
お皿も、他のことを考えているときに落とすもの。
割れた状況を思って、お皿に意識が向かっていれば落とさない。
だけれども、襲われた後の精神状況も想定しておく。
心を追い詰めるのは、案外その時代の社会、道徳的通念だったりするので、
からだ自体に、何が問題か、どうしてほしいか、をあらかじめ尋ねておくとよい。

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