平成29年度 愛媛拉致議連総会に出席致しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/41/c25930b9bac1b51d2a5077758d970d41.jpg)
記念講演には現在新潟産業大学准教授で
北朝鮮による拉致被害者である蓮池薫先生が
「拉致問題の本質と解決への道」
と題しお話しされました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/c1/350275f12bdd6457f46f1d379094deaf.jpg)
蓮池先生は中央大学在学中に新潟に帰り、恋人と夜の海に遊びに入った際に
恋人と一緒に北朝鮮に拉致されました。
海辺に座っていると、前から流暢な日本語で
「すみません、たばこの火を貸してくれませんか。」
と言われ、ライターに火をつけたところ、後ろから顔面を殴られ、
複数の男性から拘束され、ゴムボートへと引きずられました。
その後、沖合の工作船に乗り移らされ、気が付けば北朝鮮の秘密の港に到着していたとのこと。
「ものすごい絶望。死んでしまいたいが、死にたくない」
北朝鮮では山の谷間に一軒ずつある「招待所」と呼ばれる施設に入れられ、
はじめに工作員として教育さたが
当時、北朝鮮が拉致したレバノン人女性が海外で工作員の実習をしていたとき、レバノン大使館に逃げ込んだ「レバノン人拉致事件」が起きていた。
現地の人間を工作員とする北朝鮮の思惑は失敗したのだ。
その後、日本語教師として暮らし、工作員に日本語を教えていたが、それも中断した。
87年11月の大韓航空機爆破のテロ事件が原因だった。
実行犯の工作員が田口八重子さん(78年拉致)から日本語を教わったことが明るみに。
工作員に日本語を教えると秘密が漏れると判断した当局は日本語教育をやめた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/7d/d73d06af0d80c6308cab7f84d61506b6.jpg)
食べるものには不自由しなかったそうですが、
「命以外は全て取られた」
と本人が語っていたように、常に監視され、自由は全く無い。
その後、90年にはソ連が崩壊。
中国は改革路線に舵を切り、韓国に接近していた。
「北朝鮮は大きな影響を受け、追い込まれた。国連入りし、日本との関係改善を図った。国交を正常化して、植民地時代の賠償金を取ろうとした」という。しかし、日本政府が拉致問題を交渉に持ち出したために頓挫。
北朝鮮は非常に厳しい状況に追い込まれ、95~98年には大飢饉で多くの人々が亡くなった。
米のブッシュ政権は「悪の枢軸国」として対応を強めた。
「2002年の小泉訪朝を前に、北朝鮮は準備を着々と進めていた。私は日本海をボートで漂流中に北朝鮮の船に救われたというシナリオを3月から5月にかけて頭にたたき込まれた。そして、家族に会う場所として、平壌のマンションに移された」
しかし結局その嘘のシナリオは使わないことになった。
2002年10月、蓮池さんは帰国を果たした。
1年半後に北朝鮮に残していた子供2人も取り戻した。
「心配だった。子供と生き別れでは、日本に残れないと思った。帰国直後、ホテルで兄と大げんかしたこともある」
と、厳しい選択を迫られた当時を振り返る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/cf/7f26c8e685985523a3023bef8953fb10.jpg)
現在も拉致被害者、特定失踪者を含め北朝鮮には日本人800人以上がとどめられているとされる。
「今、残っている人たちは私たちより何倍も辛い思いをしている。
もう帰った人がいるのに、なんで自分は帰れないのかと思い15年間過ぎた。
北朝鮮は死亡したと日本政府に説明している。
この恐怖感。
一日も早い帰国を望むが、政府に交渉で頑張ってもらうしかない。
国民世論が北を上回らなければ負けてしまう現実がある
もう時間がない。
拉致被害者は60代、70代。家族も高齢化している。
私は帰国したが、24年間の空白を埋めるには何年もかかった。
一目でいいからと言うが、一目でいいわけがない。」
全国民一団となって拉致被害者の全員を奪還しましょう!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/41/c25930b9bac1b51d2a5077758d970d41.jpg)
記念講演には現在新潟産業大学准教授で
北朝鮮による拉致被害者である蓮池薫先生が
「拉致問題の本質と解決への道」
と題しお話しされました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/c1/350275f12bdd6457f46f1d379094deaf.jpg)
蓮池先生は中央大学在学中に新潟に帰り、恋人と夜の海に遊びに入った際に
恋人と一緒に北朝鮮に拉致されました。
海辺に座っていると、前から流暢な日本語で
「すみません、たばこの火を貸してくれませんか。」
と言われ、ライターに火をつけたところ、後ろから顔面を殴られ、
複数の男性から拘束され、ゴムボートへと引きずられました。
その後、沖合の工作船に乗り移らされ、気が付けば北朝鮮の秘密の港に到着していたとのこと。
「ものすごい絶望。死んでしまいたいが、死にたくない」
北朝鮮では山の谷間に一軒ずつある「招待所」と呼ばれる施設に入れられ、
はじめに工作員として教育さたが
当時、北朝鮮が拉致したレバノン人女性が海外で工作員の実習をしていたとき、レバノン大使館に逃げ込んだ「レバノン人拉致事件」が起きていた。
現地の人間を工作員とする北朝鮮の思惑は失敗したのだ。
その後、日本語教師として暮らし、工作員に日本語を教えていたが、それも中断した。
87年11月の大韓航空機爆破のテロ事件が原因だった。
実行犯の工作員が田口八重子さん(78年拉致)から日本語を教わったことが明るみに。
工作員に日本語を教えると秘密が漏れると判断した当局は日本語教育をやめた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/7d/d73d06af0d80c6308cab7f84d61506b6.jpg)
食べるものには不自由しなかったそうですが、
「命以外は全て取られた」
と本人が語っていたように、常に監視され、自由は全く無い。
その後、90年にはソ連が崩壊。
中国は改革路線に舵を切り、韓国に接近していた。
「北朝鮮は大きな影響を受け、追い込まれた。国連入りし、日本との関係改善を図った。国交を正常化して、植民地時代の賠償金を取ろうとした」という。しかし、日本政府が拉致問題を交渉に持ち出したために頓挫。
北朝鮮は非常に厳しい状況に追い込まれ、95~98年には大飢饉で多くの人々が亡くなった。
米のブッシュ政権は「悪の枢軸国」として対応を強めた。
「2002年の小泉訪朝を前に、北朝鮮は準備を着々と進めていた。私は日本海をボートで漂流中に北朝鮮の船に救われたというシナリオを3月から5月にかけて頭にたたき込まれた。そして、家族に会う場所として、平壌のマンションに移された」
しかし結局その嘘のシナリオは使わないことになった。
2002年10月、蓮池さんは帰国を果たした。
1年半後に北朝鮮に残していた子供2人も取り戻した。
「心配だった。子供と生き別れでは、日本に残れないと思った。帰国直後、ホテルで兄と大げんかしたこともある」
と、厳しい選択を迫られた当時を振り返る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/cf/7f26c8e685985523a3023bef8953fb10.jpg)
現在も拉致被害者、特定失踪者を含め北朝鮮には日本人800人以上がとどめられているとされる。
「今、残っている人たちは私たちより何倍も辛い思いをしている。
もう帰った人がいるのに、なんで自分は帰れないのかと思い15年間過ぎた。
北朝鮮は死亡したと日本政府に説明している。
この恐怖感。
一日も早い帰国を望むが、政府に交渉で頑張ってもらうしかない。
国民世論が北を上回らなければ負けてしまう現実がある
もう時間がない。
拉致被害者は60代、70代。家族も高齢化している。
私は帰国したが、24年間の空白を埋めるには何年もかかった。
一目でいいからと言うが、一目でいいわけがない。」
全国民一団となって拉致被害者の全員を奪還しましょう!