北海道新聞12/04 16:00
村垣淡路守の視察描く 荷物運ぶアイヌ民族も
かつて箱館奉行を務めた村垣淡路守(むらがきあわじのかみ)(1813~1880年)が箱館(函館)を出発し、釧路・根室地方を1858年(安政5年)に巡視した時の絵巻「東蝦夷地絵巻(ひがしえぞちえまき)」が国立公文書館(東京都)に所蔵されている。江戸末期のアイヌ民族の様子や道内の光景が分かる貴重な資料だ。当欄では、この絵巻の絵を随時紹介する。今回は、北大アイヌ・先住民研究センター客員教授の佐々木利和さん(69)=札幌市=に解説をお願いした。(椎名宏智)
■絵の数は19枚
村垣淡路守は名を範正(のりまさ)と言います。江戸で旗本・村垣範行(のりゆき)の子として生まれました。祖父定行(さだゆき)は松前奉行を務めた人物です。
村垣家は、将軍家の御庭番でした。御庭番とは将軍のそば近くに仕え、身辺警護に当たる役職です。8代将軍徳川吉宗が創設しました。
この絵巻(幅37.8センチ、長さ14.2メートル)は村垣淡路守にとって2度目の蝦夷地・北蝦夷地巡見(視察)の時のものです。絵の数は数え方にもよりますが19枚。日本画の技法で描かれているようです。
朱色の蔵書印「日本政府図書」が押されています。この蔵書印しかないことから、この絵巻は江戸幕府由来の文書ではなく、明治政府が村垣家から入手したものだと想像できます。
■寺に米領事館
最初の絵=1=は村垣淡路守出発の地、函館です。「安政五年 元旦試筆(しひつ)(書き初め)」の文字に続き、和歌が書かれています。右奥のかすんだ山は津軽イワキサン(岩木山)と説明があります。中央に赤い旗=2(1を拡大)=が見えますが恐らくアメリカ領事館です。当時、アメリカ領事館は浄玄寺(じょうげんじ)(現在の真宗大谷派函館別院)に置かれていました。
54年(安政元年)に締結された日米和親条約を契機に、伊豆・下田と函館は諸外国との窓口として開港されました。ですから、この時期、捕鯨のためアメリカの船舶が函館の港に入ってきています。
■捕鯨の銛試す
次の絵=3=は「箱舘港ニ於(おい)テ鯨猟試ノ図」。村垣の日記には、「船で風待ち中、鯨が数頭寄ってきたので試しに銛(もり)を撃った。一頭に当たったが綱が切れてしまい残念」といった記述が見られます。
鯨に向けて撃った銛は、西洋風の銛のように見えます。恐らくアメリカの船舶が持ってきた銛を箱館奉行所が手に入れ、試しに撃ってみたということでしょう。綱が切れ、端が海に落ちています。
■頭にフキの葉
3枚目の絵=4=は「雨中巡撫(じゅんぶ)ノ図」。巡撫とは各地を巡回して住民を安心させることです。絵には標柱が描かれ、「壹里(いちり) 駅名ヲン子(ネ)ナイ」の文字が読めます。この時代、既に標柱があったことを意味します。
ヲン子ナイがどこを指すかはともかく、標柱の左に書かれている文字は「5月13日に白糠を出て、野道ばかりを歩き、雨が降るので釧路の里で雨宿りした」という内容と和歌です。
絵は、雨にぬれながら旅路を急ぐ一行が描かれています。先導役のアイヌの人たちに続き、帯刀した武士、馬に乗った人物、かごなどが目に留まります。
注目したいのは、アイヌの人たちの着衣です。先導役の3人は、むしろでしょうか、何か身にまとい、フキやイタドリの葉を頭上に乗せています。しかし、後続のアイヌの人たち=5(4を拡大)=は雨具をつけていません。
荷物を背負ったり、かごを担いだりしているアイヌの人たちが雨具をつけてはいないのは、アイヌの人たちが雨具を禁じられた名残でしょう。
蝦夷地が55年(安政2年)に再び幕府直轄領となると、箱館奉行は「アイヌの人たちに雨具、草履、履物を禁じた悪習は速やかに改めたい」と幕府に願い出て、許可を得たようです。
この経緯は、高倉新一郎さんの「新版アイヌ政策史」にも記されています。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/149024
村垣淡路守の視察描く 荷物運ぶアイヌ民族も
かつて箱館奉行を務めた村垣淡路守(むらがきあわじのかみ)(1813~1880年)が箱館(函館)を出発し、釧路・根室地方を1858年(安政5年)に巡視した時の絵巻「東蝦夷地絵巻(ひがしえぞちえまき)」が国立公文書館(東京都)に所蔵されている。江戸末期のアイヌ民族の様子や道内の光景が分かる貴重な資料だ。当欄では、この絵巻の絵を随時紹介する。今回は、北大アイヌ・先住民研究センター客員教授の佐々木利和さん(69)=札幌市=に解説をお願いした。(椎名宏智)
■絵の数は19枚
村垣淡路守は名を範正(のりまさ)と言います。江戸で旗本・村垣範行(のりゆき)の子として生まれました。祖父定行(さだゆき)は松前奉行を務めた人物です。
村垣家は、将軍家の御庭番でした。御庭番とは将軍のそば近くに仕え、身辺警護に当たる役職です。8代将軍徳川吉宗が創設しました。
この絵巻(幅37.8センチ、長さ14.2メートル)は村垣淡路守にとって2度目の蝦夷地・北蝦夷地巡見(視察)の時のものです。絵の数は数え方にもよりますが19枚。日本画の技法で描かれているようです。
朱色の蔵書印「日本政府図書」が押されています。この蔵書印しかないことから、この絵巻は江戸幕府由来の文書ではなく、明治政府が村垣家から入手したものだと想像できます。
■寺に米領事館
最初の絵=1=は村垣淡路守出発の地、函館です。「安政五年 元旦試筆(しひつ)(書き初め)」の文字に続き、和歌が書かれています。右奥のかすんだ山は津軽イワキサン(岩木山)と説明があります。中央に赤い旗=2(1を拡大)=が見えますが恐らくアメリカ領事館です。当時、アメリカ領事館は浄玄寺(じょうげんじ)(現在の真宗大谷派函館別院)に置かれていました。
54年(安政元年)に締結された日米和親条約を契機に、伊豆・下田と函館は諸外国との窓口として開港されました。ですから、この時期、捕鯨のためアメリカの船舶が函館の港に入ってきています。
■捕鯨の銛試す
次の絵=3=は「箱舘港ニ於(おい)テ鯨猟試ノ図」。村垣の日記には、「船で風待ち中、鯨が数頭寄ってきたので試しに銛(もり)を撃った。一頭に当たったが綱が切れてしまい残念」といった記述が見られます。
鯨に向けて撃った銛は、西洋風の銛のように見えます。恐らくアメリカの船舶が持ってきた銛を箱館奉行所が手に入れ、試しに撃ってみたということでしょう。綱が切れ、端が海に落ちています。
■頭にフキの葉
3枚目の絵=4=は「雨中巡撫(じゅんぶ)ノ図」。巡撫とは各地を巡回して住民を安心させることです。絵には標柱が描かれ、「壹里(いちり) 駅名ヲン子(ネ)ナイ」の文字が読めます。この時代、既に標柱があったことを意味します。
ヲン子ナイがどこを指すかはともかく、標柱の左に書かれている文字は「5月13日に白糠を出て、野道ばかりを歩き、雨が降るので釧路の里で雨宿りした」という内容と和歌です。
絵は、雨にぬれながら旅路を急ぐ一行が描かれています。先導役のアイヌの人たちに続き、帯刀した武士、馬に乗った人物、かごなどが目に留まります。
注目したいのは、アイヌの人たちの着衣です。先導役の3人は、むしろでしょうか、何か身にまとい、フキやイタドリの葉を頭上に乗せています。しかし、後続のアイヌの人たち=5(4を拡大)=は雨具をつけていません。
荷物を背負ったり、かごを担いだりしているアイヌの人たちが雨具をつけてはいないのは、アイヌの人たちが雨具を禁じられた名残でしょう。
蝦夷地が55年(安政2年)に再び幕府直轄領となると、箱館奉行は「アイヌの人たちに雨具、草履、履物を禁じた悪習は速やかに改めたい」と幕府に願い出て、許可を得たようです。
この経緯は、高倉新一郎さんの「新版アイヌ政策史」にも記されています。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/149024