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手足切断が当たり前だった恐怖のコンゴ自由国~レオポルド2世に虐待された住民達

2024-12-18 | 先住民族関連

 

武将ジャパン2024/12/16

「名は体を表す」

そんな言葉がある一方、世の中には実態とかけ離れたものがたくさんあります。

本当はゴリゴリの独裁国家なのに、“民主ナンチャラ”とか“人民ナンチャラ”など聞こえの良い国名にしてしまうとか、そういうパターン。

かような例の中でも、世界史的にぶっちぎって「名と実」のかけ離れた国がこちらでしょう。

コンゴ自由国

字面からすると一見平和な民主国家にも見えますが、実態は“切断された手足だらけ”という、恐るべき凶行が繰り広げられていました。

命令を下していたのはベルギー国王のレオポルド2世であり、1909年12月17日はその命日。

いったい何のために、そのような非道を行っていたのか。

レオポルド2世の所業を振り返ってみましょう。

スタンリーのアフリカ探険が始まりだった

時は19世紀――ヨーロッパは探険ブームに沸いていました。

未踏の地(といってもあくまでヨーロッパ人にとってですが)を旅して、見聞を広め、あわよくば植民地なり交易品なりを獲得できればラッキー、というわけです。

1841年、ウェールズ出身のヘンリー・モートン・スタンリーもそうした野心を抱いた探検家の一人でした。

貧しい家庭に生まれ、一時期は救貧院で過ごしたこともある苦労人です。

文才と好奇心を生かしてジャーナリスト、そして探検家となったスタンリーは、1870年アフリカ奥地で消息をたっていたデイビッド・リビングストン博士捜索隊に参加し、見事発見に成功しました。

ヘンリー・スタンリーとアフリカ先住民の少年

一役、時の人となったスタンリーは、さらに野心を燃やします。

アフリカ大陸こそ、俺の栄光の土地なんだ、というわけですね。

探検で留守にしたせいで、婚約者が別の男と結婚してしまったという、悲しいニュースも彼の野心をさらにあおったのかもしれません。

スタンリーはザイール川流域を探険し、その紀行文を発表。

彼は、このザイール川流域・コンゴ盆地を探険し大興奮でした。

「資源と可能性を秘めた広大な土地だ! ここを我が祖国イギリスの植民地にすればいいじゃないか!」

「植民地も場所を選ぶ時代なのよ」

しかし、待っていたのは祖国の無情でそっけない対応でした。

「コンゴねぇ……。あのね、スタンリーさん、アフリカ黄金時代なんてもうとっくに終わっているんですよ。しかも大陸ど真ん中、一年中暑いじゃあないですか。植民地に向いているのは海沿いで気候が温暖なところなんですよ」

植民地というのはともかく取ればいい――そんな時代は終わっておりました。

維持管理して確実に黒字が出るようにしなければならない。

なかなかシビアなもので、イギリス政府は、気候が比較的温暖な南アフリカや、到達が楽な海岸部に興味が集中していたのです。

それがアフリカのど真ん中だなんて……。探険する以外、用はない!

と、少し砕けた言い方にしすぎましたが、他国も含めたヨーロッパでは「アフリカは別にいいや」という態度でした。

スタンリーはイギリス政府の冷たい反応に納得がいかず、新聞に社説を発表する等、コンゴ獲得キャンペーンを行います。

しかしイギリスの中産階級を中心とした人々は「維持するのに赤字になるような土地取って、どーすんねん」と冷たい反応ばかり。

うぐぐ……と悔しがるスタンリー。どうにかしてコンゴに関心を向けるため、だんだんと言うことも大げさになってきます。

と、そこへ興味を示すある人物が現れます。

「アフリカのど真ん中に植民地? いいねえ、ビッグなドリームだねえ」

ベルギー国王レオポルド二世。

コンゴの悪夢は、この二人の出会いから始まりました……。

植民地がどうしても欲しい!

当時、ベルギー王国というのは、ヨーロッパ諸国の中でも新参者でした。

レオポルド二世は産まれながらの王族ではなく、5歳の時に父が即位して王子になったという経歴の持ち主。

そんなベルギーに植民地があるわけでもありません。

虚栄心の強いレオポルド二世は、喉から手が出るほど植民地が欲しくて欲しくてたまりませんでした。

「ああ〜どっかに植民地ないかな~。植民地さえあればちっぽけな国とか言われてコケにされないだろうにな~。小さな国なんてないんだ、小さな心があるだけさ!」

まぁ、小さな国なんてない、っていう心意気だけはあっぱれですね。

レオポルド二世は「どこかの国が植民地売ってくれないかな~」と妄想にふけるようなことを吹聴しますが、他国はむろんのこと、議会も相手にしません。

そこでこのレオポルド二世が、スタンリーの「やたらと話の盛られたコンゴ」についての著作を読んでしまうわけです。

「そうだ、アフリカに植民地を持とう!」

レオポルド二世は「貧しい黒人に白人が文明の光を示そう! 今こそ考えたいアフリカの未来」みたいな、そんな美辞麗句で飾り立てた国際会議や国際協会を作り、前向きな姿勢を見せます。

周囲は「またあの国王が何か変なことやってる」と冷淡な姿勢を見せていたのですが……。

「コンゴ(の民を)自由(に搾取する)国」

話がこのあたりまでならば、「山師な探検家と、妄想癖の小国王が何かやっていますね、ハイハイ」で、終わりました。

しかし1879年、事態は急変します。

この年、エジプトでウラービー革命が勃発。イギリスが介入します。

アフリカなんていらないと考えていた他のヨーロッパ諸国も、これを見て態度を変えます。

「イギリスばっかり抜け駆けはゆるさん! アフリカを分割するなら俺も混ぜろ!」

1884年、こうしたヨーロッパ列強は「ベルリン会議」で、それぞれのアフリカの分け前を決めました。

現地の人々にとっては迷惑極まりない話でしかありません。

しかしこうなると「アフリカに植民地欲しいんだもん!」とダダをこねるあの男を無視することもできません……レオポルド二世の要望も聞いてやるしかない、と。

「まあ、他の大国にくれてやるくらいなら、ベルギーごときの小国王にやるってのもアリだよなあ」

そんなところで各国の利害は一致し、話はまとまったのです。

しかし、話は少しややこしくなります。

このときコンゴは、ベルギーという国ではなく、レオポルド二世の「私的植民地」になったのです。

ベルギー政府が「そんな陛下の道楽に金なんて出しませんからね、自分で管理してくださいよ」と国王を突き放したのですね。

私的植民地というのはちょっと聞き慣れないかもしれません。

他に例を挙げますと、イギリスやオランダの東インド会社が所有・支配していた植民地がこれに当たります。国家元首ではなく、貿易会社や組織が支配する植民地のことです。

私的植民地は利益優先で、地元民の利益を考慮しない傾向があるため、無責任な管理になりがちでした。

取るものだけ取ってあとは野となれ、山となれ状態です。

こうして苦い顔をするベルギー政府を尻目に、レオポルド二世は「やっと念願の植民地を手に入れたぞ!」と上機嫌。

それでも議会の現実派の予測通り、コンゴは大赤字を出したのでした。

十年後、レオポルド二世は議会にこう言い出します。

「もうイヤだ! 植民地って儲かるんじゃなかったの? 損してばっかりだよ。何とかして手放せない?」

それみたことか、とベルギー政府の面々は苦虫を潰したことでしょう。

しかし、運命の女神、もとい、悪魔は、レオポルド二世に微笑んだのです。

籠の中には大量の赤いゴム、赤い手首

19世紀末、交通革命が起こりました。

自転車、そして自動車です。

ダンロップやミシュランといった大手企業は、車に使うゴムタイヤを売り出します。

ここにゴムバブルが発生し、産地であるコンゴに熱いまなざしが注がれたのでした。

「やった! これぞ一攫千金のチャンス!!」

レオポルド二世は躍り上がり、ゴムをなるべく効率的に収奪し、売りさばいて儲けようという気になったわけです。

いよいよ地獄の門が開きます……。

コンゴ盆地に通じる道や水路は封鎖され、ジャーナリストらは一切立ち入り禁止。さらに内部からも逃亡禁止になりました。

その中では悪夢としか思えない収奪が繰り広げられます。

インフラ整備のために現地住民は徴発され、途中で死のうがお構いなし。住民にはゴム、象牙、材木をおさめるノルマが課せられます。

ノルマを達成できなければカバの革で作った鞭で殴られます。

酷い場合には妻が連れ去られ、夫がノルマを達成するまで柱に縛り付けられ、衰弱するがままに放置される、ということも。

現地の保安員はこう厳命されていました。

「住民鎮圧に撃ってもいいが、貴重な弾丸は無駄にしないように」

そのため「銃弾を使ってきっちり撃った、無駄にはしていない」という証拠提出が求められました。

証拠とは、切り取った体の一部。具体的に言うと手首です。

手首を切られて血が吹き上がる、切り取った手首を籠詰めにして持ち歩く……そんな恐怖の光景が見られました。

きついノルマから逃げ出すため、敢えて手首を差しだす現地民も出てきました。

そんな時、ある司令官はこう言います。

「手首だと、女子供のものが混ざっていてもわからないだろう」

その後、司令官の元には男性の生殖器がびっしりと詰まった籠が届いたとか……。

さすがにキツい。効率を求めるあまり非効率になると言いますか、言葉を失うような所業です。

レオポルド二世は「あんまり酷いことするなよ」と一応は言っていたようです。

しかし、自分の無茶ぶりと貪欲さが刃となって、現地民を苦しめていることは無視を決め込んだわけです。

「闇の奥」の実態がついに明かされた

1902年、ジョゼフ・コンラッドは『闇の奥』という小説を発表しました。

コンゴで船員として働いた作者の体験を反映したものです。

しかし、当時の人々は「想像力が素晴らしいねえ」と思うだけで、まさか現実が反映されているとは考えもしませんでした。

コンゴの悲惨な実態を探ろうとする者はいましたが、周囲は「大げさだなあ」と誰に相手にしない状態が続きます。

現実は、人々の想像力を軽く上回っていたのでした。

これとほぼ同時の1903年、エドマンド・モレルがある新聞を創設しました。

アフリカ貿易をしていた経験から、コンゴ貿易の不自然さに気づき、それを告発しようとしたのです。

中央アフリカのイギリス領事ロジャー・ケースメントもコンゴの実態を調査し、残虐行為は事実だと確信します。

「恥を知れ、懺悔しろ! けしからん制度だ!」

ケースメントは怒りをこめて、コンゴの残虐行為を記録しました。

そして1904年、ことの発端だったスタンリーが死去。

「レオポルド二世も、さすがにそこまで無茶苦茶はしていないだろう」と思い込んでいた世論がにわかに揺らぎ始めます。

この同年、モレルとケースメントは「コンゴ改革協会」を設立しました。そ

して二人の告発によりコンゴでの残酷行為を知ったジャーナリストや作家たちが、非難の声を上げ始めるのです。

アーサー・コナン・ドイル、マーク・トウェインもその中にいました。

レオポルド二世はこれに反論し、ジャーナリズムに対して露骨な圧力をかけ初めます。

記者たちのプライベートスキャンダルを見つけ出しては「コンゴについて書くなら、お前の秘密をバラすぞ」と脅しをかけたのです。

さらにレオポルド二世はロビー活動のために弁護士を雇うのですが、気に入らず解雇しようとします。

と、これがついに虎の尾となりました。

レオポルド二世の画策を知った弁護士側は怒り、彼からの手紙を新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストに売却したのです。

かくしてベルギー国王の恥ずべき残虐行為は世界中に知れ渡り、大炎上したのでした。

棺に唾……国民に憎まれた最低最悪の王

1908年、レオポルド二世はついにコンゴ自由国を手放し、ベルギー議会に高額で売却。

翌年、彼はそのまま崩御しますが、最低最悪の国王として国民に憎まれ、棺には唾が吐きかけられました。

ベルギーにとってもコンゴの維持管理は難題を抱えたものであり、長く禍根を残すことになります。

しかし、ベルギーよりもコンゴの人々にとっての方が、レオポルド二世のもたらした悪影響が大きかったことは言うまでもありません。

外から持ち込まれた天然痘は、過酷な労働で飢えて体力が低下した人々の命を容赦なく奪いました。残酷過ぎる虐待の結果、衰弱死する人もいました。

かくして「コンゴ自由国」の建国前と比べ、その人口は2千万から1千万に半減していたのです。その間、わずか20年。

コンゴ自由国のあまりに悲惨な実態を見ていると、失敗の本質が見えてくる気がします。

これはレオポルド二世個人の邪悪さではなく、複合的要因が絡んでいます。

利益を出すためならば、現地民やそこで働く人をいくらでも搾取して構わないという発想が悲劇を生みました。

アフリカ大陸から植民地は消え去っても、資源を搾取しようとする企業はまだまだあります。

ダイヤモンド、チョコレート、象牙……。

そうした資源収奪への国際的非難は、現在も続いています。

さらに核兵器が開発されると、新たなコンゴ産資源もこの中に加わりました。

ウランです。

1945年8月――広島と長崎に投下した原子爆弾の減量として、コンゴ産のウランが用いられました。

植民地支配による資源の収奪が、世界大戦の犠牲者を膨大なものとし、植民地の民衆のみならず、地球の裏側にまで惨禍をもたらしたのです。

レオポルド二世の旺盛な商魂に、幕臣として欧州を訪れていた渋沢栄一も感銘を受けました。

しかし、それも歯止めがなければ危険です。

世界大戦の背景には、資源の収奪もあったと指摘されています。

際限なき資本主義が加熱する限り、レオポルド二世の亡霊は彷徨い続けるのかもしれません。

https://bushoojapan.com/world/europe/2024/12/16/103686

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