日経ESG 2024.12.05
藤田 香(日経ESG シニアエディター)
2024年10~11月にコロンビアで開催された生物多様性条約第16回締約国会議(COP16)には、日本から経営層が大挙して参加した。合意が持ち越しになった議題もあるが、企業や金融機関に影響を与える決定や提案が目立った。先住民や地域住民の重要性を打ち出す一方、生物多様性クレジットや自然の状態を表す新指標も発表された。COP16の現地リポートを2回にわたって届ける。第1回は、企業に影響を与える自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)や新指標について紹介する。
国際交渉を横目に見ながら、企業の経営層や国際機関の幹部が自然の状態を測る指標や生物多様性クレジットなどのルールづくりで熱い議論を繰り広げる─。生物多様性条約第16回締約国会議(COP16)はこうした場外風景を印象づけた会議だった。
コロンビアで2024年10~11月に開催されたCOP16には生物多様性COPとしては過去最大の1万3000人が参加し、企業や金融機関からの参加が目立った。日本からも王子ホールディングスの磯野裕之社長や大成建設の谷山二朗副社長、MS&ADインシュアランスグループホールディングスの本島なおみ常務執行役員グループCSuOなど経営層が大勢参加した。経団連は24社から46人を派遣した。
コロンビアは日本から遠い上に、前評判ではCOP16には大きな議題は少なかった。なぜ大勢の経営層が駆け付けたのか。自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)の開示に加え、欧州の企業サステナビリティ報告指令(CSRD)や森林破壊防止規則(EUDR)などが企業に自然に関する情報開示を求めていることが彼らを突き動かしたのは間違いない。そして今、自然をどう測り、どう開示するかというルールづくりが現在進行形で進んでいる。「デジタル化や気候変動に関するルールづくりで後れを取った」(経団連自然保護協議会の西澤敬二会長)反省から、標準化に絡み、日本の立場を世界に打ち出し、現場で起きていることを理解したいという思いが日本企業にはある。
■ COP16で決定・発表された主な内容

DSI:遺伝資源のデジタル配列情報、TNFD:自然関連財務情報開示タスクフォース、NPI:ネイチャーポジティブ・イニシアティブ、WBCSD:持続可能な開発のための経済人会議、IAPB:生物多様性クレジットに関する国際諮問委員会、BCA:生物多様性クレジットアライアンス、NA100:ネイチャーアクション100、IUCN:国際自然保護連合
(表=日経ESG作成)
TNFD開示は日本が最多
COP16では企業に関係する大きな動きがいくつかあった。1つは、TNFDだ。TNFDの開示宣言をした企業は世界で502社に上り、うち日本企業は133社と世界で最も多い。24年1月時点から1.5倍になり、数では存在感を示した。
TNFDは今回新たに「自然の移行計画」を作るガイダンス案を発表した。自然の移行計画とは、自然の損失を止めてプラスに転じる「ネイチャーポジティブ」経済に企業が移行する道筋を示した計画のことだ。温室効果ガス排出実質ゼロを目指す金融機関の団体「GFANZ」もネットゼロ移行計画に自然の情報を組み込む提案をしており、TNFDの「自然の移行計画」ガイダンス案はその枠組みに倣う構成になっている。
これまで企業はTNFDのガイダンス「LEAPアプローチ」の手順に従って自然への依存や影響、リスクや機会を分析してきた。LEAPは「Locate」(発見)、「Evaluate」(診断)、「Assess」(評価)、「Prepare」(準備)の手順を指す。L(発見)とE(診断)で自然への依存や影響を把握した企業はこれまで多かったが、A(評価)やP(準備)まで進めた企業は少ない。企業は今後、ビジネスモデルの転換や、移行計画の策定、そしてその開示にも取り組む必要がある。
移行計画とはどのようなものか。「例えば不動産会社なら伐採後の更地を購入して開発するのではなく、緑が豊かな場所を購入して生態系をより向上させて不動産を販売するなどの戦略の転換が考えられる。設計、資材調達、維持管理の方法も変わる。自然の保全を企業価値向上につなげるには、こうしたビジネスモデルの転換を含む移行計画が必要になるだろう」と、TNFDのタスクフォースメンバーでMS&ADインシュアランスグループホールディングスTNFD専任SVPの原口真氏は説明する。TNFDは25年中に自然の移行計画の最終ガイダンスを発表する予定だ。
「自然の状態を表す指標」の発表に人だかり
今回のCOPで最も人が詰めかけたのは、「ネイチャーポジティブ・イニシアティブ(NPI)」による「自然の状態を表す指標」(以下、「自然の状態指標」)の発表だ。NPIにはTNFDや、SBTN(科学に基づく目標設定手法を開発するネットワーク組織)、GRI(グローバル・リポーティング・イニシアチブ)などが加盟し、この指標がTNFD開示に採用されることがほぼ確実だからだ。
(1)金融デーには企業や金融機関が詰めかけ満席となった (2)ポール・ポルマン氏は気候変動と生物多様性、人権は同時解決が重要と主張 (3)WBCSDのピーター・バッカ―CEOは自然を基盤にした解決策の重要性を指摘 (4)経団連からは24社から46人が参加 (5)イオンの岡田元也会長は「生物多様性みどり賞」の授賞式に登場
(写真=日経ESG)
[クリックすると拡大した画像が開きます]
これまでTNFDが企業に開示を求めてきた指標は、水使用量など企業活動が自然に与える影響を測る指標だった。しかし、COP15で採択された世界目標「昆明・モントリオール生物多様性枠組」の達成のためには、企業活動の結果として自然の状態がどう変わり、世界目標にどう貢献したかを知る必要がある。これが自然の状態指標だ。
TNFDは23年9月に最終提言を発表した際、全企業が開示すべき「グローバル中核指標」を示したが、自然の状態指標を「検討中」としてきた。今回NPIが提案したのはこの指標の案であり、今後TNFDが採用する可能性が高い。
■ TNFDのグローバル中核指標
TNFDが示した「全企業が開示すべきグローバル中核指標」には、「自然の状態指標」が検討中となっていた(赤丸)。NPIが今回提案した「自然の状態指標」はここに入ることが見込まれる
(出所:TNFD、2023を基に日経ESG作成)
[クリックすると拡大した画像が開きます]
今回NPIが提案した自然の状態指標は、陸上の指標だ。「生態系の範囲」「生態系の状態」「景観の保全」「絶滅リスク」の4 つの指標とそれを測るための条件や、基準年を20年にすることも示した。
例えば「生態系の範囲」では、「異なる生態系タイプごとに1年間の損失、増加、純変化の面積(絶対値haおよび比率%)を表し、30m以下の解像度で示す」と細かく規定している。25年に企業にこの指標を試験的に使ってもらった上で決定する。陸上に次いで、淡水と海の指標も作る予定だ。
指標に加えて、企業の関心が高いのは「自然のデータ」の取得だ。世の中には自然のデータがあふれているが、どれをどう使って開示すればよいかは整備されていない。そこでTNFDは、自然関連データを集めたプラットフォーム「NDPF」構築の作業計画案を発表した。NDPFでは様々な自然のデータを地図情報システム上に重ね合わせて使えるようにすることで、企業は自然の依存と影響、リスクや機会をより詳細に分析できる。日本政府はNDPFの構築に50万ドル(約7700万円)を拠出し、国を挙げてTNFD開示を支援する。
急速に進んでいるのが、衛星やスマートフォン、ドローンなどのIoTやAI(人工知能)を活用して生物多様性や自然の観測・評価を行う「ネイチャーテック」だ。COP会場にはネイチャーテックの企業や研究者が集結し、盛り上がりを見せた。「いずれの企業も自分たちの技術が世界で戦えるのかを見極め、その観測・評価手法を世界標準にすることを狙っている。アカデミア発のネイチャーテックに経営のプロが入り
賛否分かれるクレジット
この他に、大きな話題を集めたのが「生物多様性クレジット」だ。「生物多様性クレジットに関する国際諮問委員会(IAPB)」がクレジットの枠組みを発表した。資金の流れをネイチャーポジティブの実現に向ける方法として英仏政府主導で立ち上げたのがIAPBだ。25カ国を超える120人以上で構成され、金融、先住民族、地域コミュニティー、企業、学界、NGOなどが参加して1年以上の議論を経て今回の発表に至った。
発表した枠組みでは、科学的根拠に基づくクレジットであること、遠隔地ではなく生物多様性の影響が及ぶ地域内で補償(オフセット)すること、クレジット購入者はサプライチェーンの関係者で、将来を見越して投資に利用できること、などを定めた。国境を越えたオフセットには利用しないことも明確化した。生物多様性は場所で異なるため、標準化した測定の単位を定めないとした。
クレジットについては、企業の間でも賛否が分かれ、TNFDも静観している。だが、英仏政府の本気度やイニシアチブの広がりを見るといずれ市場に登場すると予想される。
(6)TNFDは自然の移行計画ガイダンス案を発表 (7)NPIは「自然の状態指標」を発表、いずれTNFDに組み込まれる (8)英仏政府が主導する生物多様性クレジットに関する国際諮問委員会(IAPB)がクレジットの枠組みを発表、元年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の水野弘道氏もメンバー (9)自然は脆いことを表す塔 (10)生態系を描いたトイレ
(写真=日経ESG)
[クリックすると拡大した画像が開きます]
TNFDに抗議した先住民
技術的な議論が続く中、COP全体を通じて打ち出されたメッセージは、地域や先住民の重要性である。地域の企業や住民、先住民を巻き込んで自然を守る「ランドスケープ・アプローチ」の大切さが語られた。
自然は地域ごとに異なる上、1社で自然を保全しても別の企業が自然を破壊すれば地域でネイチャーポジティブを達成できない。そこで、地域や流域で企業や自治体、住民を巻き込んで最適な目標を定め、協働で課題を解決するのがランドスケープ・アプローチである。
分かりやすい例が、半導体工場が進出する熊本県だ。ここでは地域の工業用水や生活用水を豊かな地下水に頼ってきた。だが昨今、半導体生産大手TSMC(台湾積体電路製造)の工場進出で水不足が懸念されている。県は新規工場に取水量と同等の水の涵養を義務付ける条例を策定。近隣の水田への湛水や森林整備による水源涵養も進んでいるが、宅地や舗装道が増えたことで土地全体の水の涵養力が落ちている。そこで一帯では、企業や大学、県や市が協議して地域で自然を守り、その資金を大量に水を使用する企業が負担する仕組み作りが提案されている。
企業はサプライチェーンを通じてネイチャーポジティブ経営を進め、企業価値を高めるだけではなく、その企業が依存する自然を育んでいる地域の地域価値向上も共に進めるべきだろう。
その重要性を象徴する出来事がCOP会場であった。TNFDの会議に先住民が押し掛け、「企業は我々の土地を収奪している。TNFDはグリーンウオッシュだ」と抗議したのだ。TNFDの開示枠組みには「先住民や地域コミュニティーとの対話」が入っており、これが気候変動の開示枠組みとの大きな違いである。TNFDのトニー・ゴールドナー事務局長は「この問題は非常に重要なので一緒に考えよう」と彼らを急きょ会議に招き入れ、演説する機会を提供した。
「COP16で最も心に残ったのは先住民の発言や登壇だった。彼らの土地から自然資源を調達し、事業活動をしていることを肌で感じた」。参加した日本の経営層の数人はそう話した。日本企業にとってCOP16での収穫は、一定の存在感を示したことだけでなく、地球の裏側で起きている自然の損失と事業活動の関係を経営層が身をもって実感したことだろう。
https://project.nikkeibp.co.jp/ESG/atcl/column/00005/120300484/