ニッセイ基礎研究所 2024年12月09日
日本生命保険相互会社 財務企画部 責任投融資推進室 木村武 (編集責任者、日本生命保険執行役員、PRI理事)
日本生命保険相互会社 財務企画部 責任投融資推進室 岩田淳、河合浩、田中祐太朗、林宏樹、宮下雄一
■要旨
- PRI in Person開催国の政府が責任投資支持のコミットメントを行うという新たなベンチマークが、昨年の東京大会において日本政府(岸田総理の登壇)によって築かれた。その流れは、今年10月に開催されたトロント大会にも引き継がれ、カナダ政府からクリスティア・フリーランド副首相兼財務相が登壇し、「カナダ版タクソノミー」と「気候関連財務開示の義務化」を発表した。
- 大会テーマとして「責任投資のグローバルな取組みの進展」が掲げられ、異なる環境に属する様々な投資家が協調しながら複雑なサステナビリティ課題に取り組むことの重要性が強調された。PRIが提唱する「プログレッション・パスウェイズ」は、投資家がベストプラクティスを共有することで地域的なギャップを埋める手段として機能し、協働的な学びを促進するプラットフォームになることが期待されている。
- 従来の気候変動や自然資本といった課題に加え、社会的不平等や、カナダにとって責任投資の文脈でシステムレベル・リスクと深く関わっている先住民族コミュニティ、AI技術などが議論され、サステナビリティ課題に取り組む上で「システム思考」の重要性が強調された。
責任投資の目標として、社会システム全体にポジティブなインパクトをもたらす必要性が議論された。システム思考に基づき、ポートフォリオ全体での戦略的アプローチによる長期的な価値創出が重要であることが指摘された。
1――はじめに
PRI(国連責任投資原則)の年次コンファレンスであるPRI in Person(以下、PiP)が、今年は10月7~10日にカナダのトロントで開催された。
昨年の東京大会では、岸田文雄首相(当時)が登壇し、サステナビリティ・アウトカムへの支持を表明したことに加え、日本の7つの公的年金基金が新たにPRIの加盟に向けた作業をすることを表明した1。開催国政府のリーダーが登壇し責任投資へのコミットメントを力強く発信したことは、投資家にとって力強いサポートとなり、PiPの大きな成功として新たなスタンダードになった。この成功体験は今年のトロント大会にも引き継がれた。本大会ではカナダの副首相兼財務相であるクリスティア・フリーランド氏(Chrystia Freeland)が登壇し、「カナダ版タクソノミー(Canadian Taxonomy)」と「気候関連財務開示の義務化(Mandatory Climate-related Financial Disclosures)」を発表し、2050年までのネットゼロに向けたカナダのコミットメントを示した。東京大会で確立したベンチマークがトロント大会に引き継がれたことで、PiPの開催がポリシーエンゲージメントのグローバルなモメンタムを維持する重要な機会として投資家にみなされるようになった。来年のブラジル・サンパウロ大会においても、このモメンタムが維持されることが期待される。
1 昨年の東京大会の概要については、下記レポートを参照。
ニッセイ基礎研、「責任投資:約束から行動へ―― PRI in Person 2023東京大会の模様―― 」、2023年11月20日
2――大会テーマ:Progressing Global Action on Responsible Investment
本大会では「Progressing global action on responsible investment(責任投資のグローバルな取組みの進展)」という大会メッセージが掲げられ、責任投資行動の進化とグローバルな連携を重視する姿勢が強調された。サステナビリティ課題が気候変動から自然・生物多様性や社会的不平等など様々な分野に広がり、各課題が複雑に相互関連する状況下で、投資家が各々の戦略を持ち、これまで掲げた目標を具体的な実務に落とし込むアプローチを共有する機会が提供された。
この関連で参加者の注目を集めたテーマが、PRIが新たに提唱するレポーティング・フレームワーク「Progression Pathways」である。同フレームワークは、責任投資への取組みを体系化し、進展の道筋をつけ進捗を評価するための包括的なツールとして、PRIと署名機関が共同設計しているものである。従来の一律的なアプローチとは異なり、カスタマイズされたリソースやガイダンスの提供により、各々の署名機関が投資目的に応じた方法で、責任投資の取組みを評価することが期待されている。本大会では、このフレームワークが投資家にとって価値のあるツールとなることや、グローバルなベストプラクティスと各地域の投資慣行とのギャップを埋める上で重要な役割を担い得る点が紹介された。以下、主な発言や議論内容を紹介する。
- まず、ネイサン・ファビアン氏(Nathan Fabian, Chief Responsible Investment Officer, PRI)は、「署名機関自身の目標と洗練度について説明責任を果たすのはPRIの役割ではなく、Progression PathwaysはPRIに説明責任を負わせるためのものではない」とし、これらはあくまで署名機関の責任である点を強調した。
- Progression Pathwaysの概要説明に続くパネルセッションでは、フィールド・ビルディング(field building)という概念が提示された。これは、投資家が業界全体の慣行や規範を変革し、持続可能な企業行動を促進するためにステークホルダーとのネットワークを活用する手法である。多くの署名機関は「同業者との比較」(peer comparison)を重要視しているため、Progression Pathwaysがフィールド・ビルディングのプラットフォームとして機能すれば、投資家の取組み進展が互いに促進され、業界全体にポジティブな効果をもたらす可能性があることが紹介された。この背景には、投資戦略の違いや地域ごとの規制の違いが、責任投資の慣行における収斂を難しくしている点がある。例えば、英国のスチュワードシップ・コードは投資家に対しシステムレベル・リスクに取り組むことを推奨している一方、日本のスチュワードシップ・コードには対応する原則がなく、具体的な投資活動に関する詳細な情報開示も求めていない。Progression Pathwaysが、フィールド・ビルディングの場として機能することにより、異なる開示・規制環境におけるベストプラクティスを互いに学びながら規制の断片化を防ぎ、責任投資慣行の収斂を促進することが期待されている。
一方で、プログレッション・パスウェイズは歓迎すべき進化だが、この新しい枠組みが単なる「ラベル付け」やProgression-washingに陥らないため、PRIは進捗を測定するための明確で検証可能な基準を提供する必要があるという意見もあった。適切な透明性と報告基準が求められており、本フレームワークの今後の発展に期待が寄せられている。
3――本大会の中心的な概念:サステナビリティ課題間の相互連関性とシステム思考
サステナビリティ課題が多様化する中、本大会を象徴する概念として「サステナビリティ課題間の相互関連性」や「システムレベル・リスク」が多くの登壇者から指摘された。投資家を取り巻く昨今の環境をみると、個々のサステナビリティ課題は単独で存在するのではなく、気候変動や社会的不平等、生物多様性の喪失など様々な課題が互いに深く結びついている。例えば、気候変動による異常気象や自然災害の増加は生態系に影響を及ぼすだけでなく、貧困層や脆弱な地域に大きな負担をもたらし社会的不平等を悪化させる原因にもなる。同時に、生態系の損失は自然災害に対するレジリエンスの低下を招き、結果的に社会が不安定化するリスクの要因にも成り得る。このようなシステムレベル・リスクは、企業レベルやセクターの枠を超えて金融システムの安定性を脅かし、長期的な投資リターンや資産の成長を損なう可能性がある。投資家が投資パフォーマンスを長期的に改善するには、金融システム全体を持続可能にすることが不可欠であり、そのためには「システム思考」に基づいたアプローチが重要となる。
4――主要トピックス
「サステナビリティ課題間の相互関連性」や「システムレベル・リスク」という概念を軸に、この章ではトロント大会において議論された主要なトピックスを紹介する。多岐に亘るグローバル課題が、全体としてどのように構築されているかを認識することは、今後の責任投資を展望する上で重要な要素となる。
4-1. 先住民族(First Nations)
先住民族コミュニティの問題は、開催国カナダにおいて、責任投資の文脈でシステムレベル・リスクと深くかかわる重要なテーマである。トロント大会の開会式において、ファースト・ネーションズ総会のナショナル・チーフであるシンディ・ウッドハウス・ネピナク氏(Cindy Woodhouse-Nepinak, National Chief, Assembly of First Nations)や、ミシサガ族の代表であるオギマクウェ・クレア・ソー氏(Ogimaa-kwe Claire Sault, Chief, Mississaugas of the Credit First Nation)が登壇したことに象徴されるように、カナダにおいて先住民族は、国家の歴史や社会、文化において重要な位置を占めている。主な発言や議論内容は以下の通り。
- 先住民族の権利と企業・投資家の責任をテーマに議論が行われたセッションでは、石油産業と先住民コミュニティの事例が紹介された。一般的に、石油産業は温室効果ガスの排出や環境保護の視点から議論されることが多いが、先住民コミュニティが石油産業プロジェクトやパイプラインの所有権を有することで経済的自立の手段として活用できる可能性がある。責任投資の重要な課題の一つとして、企業や投資家が社会的インパクトを重視しながら長期的な利益を追求する「Just Transition(公正な移行)」という概念がある。これは、気候変動対策が経済社会的な格差・不平等を生じさせないようにする考え方であり、公正さを欠く移行は社会的不平等を悪化させ、システムレベル・リスクを増大させる可能性がある。先住民コミュニティがガスパイプラインの所有権を持ち、意思決定プロセスや資金調達に影響を及ぼすことで、利益を教育や生活インフラの充実に回し、生活の質を向上させることが期待できることは、公正な移行のグッドプラクティスと捉えることができる。一方で、多くの企業が先住民族の権利を軽視し法的な問題に発展していることが、カナダやオーストラリアで発生した事例とともに紹介され、課題も認識された。
- また、先住民族コミュニティの知識と投資への期待についても議論された。先住民族コミュニティは何世代にも亘って土地や自然と共生してきた知識を持っており、その知識が生物多様性の保護や気候変動対策に役立つと考えられている。例えば、先住民族の伝統的な土地管理方法が森林再生や持続可能な農業に効果的であることが認識されている。公正な移行を成功させながら持続可能なプロジェクトを実施するには、設計段階において先住民族コミュニティの視点が欠かせないことが指摘された。
このように、本大会では、先住民族コミュニティの権利の尊重や、伝統的な知識を活用した環境保護を通じた経済発展など、企業や投資家が先住民族コミュニティとの協働を通じて信頼を築き長期的な価値創造を目指すアプローチに対する認識が共有された。そして、投資家がとるべき行動として、先住民族コミュニティの声を真摯に聞き、意思決定のために必要な情報提供を支援することが確認された。
4-2. 気候変動
気候変動対策や1.5度削減目標に対する意見は多岐に亘っていたが、全体的には達成目標の難しさを認識する慎重な現実主義と、希望をもって取り組む戦略的な姿勢が入り混じったものだった。目標達成は技術的には可能であるものの、実現までには時間が限られているという緊急性を認識する発言が多くの登壇者から聞かれた。以下、主な発言や議論内容を紹介する。
- マーク・カーニー氏は、気候変動対策の緊急性と、単なるポートフォリオの脱炭素化だけでなく実体経済の脱炭素化が重要であることを強調した。その上で、現在のネットゼロ政策は不十分であり、「産業革命規模、デジタル革命のペース」で移行を進めるために、データ・行動・投資におけるギャップを埋める必要があると指摘した。
- 気候変動対策には多様な社会課題を包含した「公正な移行」が必要であることはグローバルな共通認識となっており、ポートフォリオの排出量削減だけでなく、労働者や地域社会の支援を組み込んだ気候変動対策が求められている。セッションでは、現在のEUを中心とした規制の多くはグローバルノースにとっては非常に有益だがグローバルサウスには負荷が高いこと、また、カナダだけでなく全グローバルサウスの先住民を包含するために連帯を示さなければならないことなど、脱炭素化の課題だけではなく、グローバルな社会課題を指摘する発言もあった。
- また、多くのアフリカ諸国では、気候変動といったグローバルなシステムレベル・リスクよりも貧困や失業といった課題への対処を優先させる必要があるとの指摘や、気候変動対策に関連する規制が強化されると発展する機会を逸する懸念があり、一部の途上国では当たり前に存在する教育・健康・民主主義・清潔な環境へのアクセスといったことが享受できなくなる可能性を懸念する声も挙がった。
- 一方、エリック・アッシャー氏(Eric Usher, Head, UN Environment Programme Finance Initiatives)は、各国が気候変動対策において確かな進展を遂げていると述べ、持続可能な未来への進展が加速していると前向きな見解を示した。特に、エネルギー・交通分野における脱炭素化の進展を強調し、英国が石炭火力を廃止したこと、カリフォルニアが石油生産を規制する法案を通過させたこと、そしてコロンビアが脱石油に向けた大規模な移行プランを発表したことなどを紹介した。また、エチオピアがガソリン車とディーゼル車の輸入を禁止する先駆的な動きを見せていること、中国で再生可能エネルギーや電気自動車市場が急成長していることなど、各国がクリーンエネルギーの拡大に積極的に取り組んでいる状況について触れた。
全体として、1.5度削減目標の達成は容易ではなく、公正な移行という観点からも課題は多いとの指摘がなされる一方、政府・企業・投資家間の協調と迅速な行動が取られれば達成可能という意見もあり、困難を悲観するより行動を促す姿勢が強調された。
4-3. 社会的不平等・人権
過度な気候変動対策などの影響が、経済格差の広がりを招く中では多様な社会課題が顕在化し、経済市場だけでなくシステム全体におけるリスクが生じている。同時に、「社会的不平等」や「人権侵害」といった課題が強く認識されたことは、これらを是正するための要求にもつながっている。トロント大会においても、「社会的不平等」「人権」が責任投資におけるシステムレベル・リスクとして重要視され、企業が社会的な影響を開示することや、人権デューデリジェンスがソフトローから強制規範へと強化されている点が認識された。以下、主な発言や議論内容を紹介する。
- 社会的不平等を議題にしたセッションでは、マクロ経済学的な観点から格差がもたらすリスクについて指摘された。社会経済的格差がGDPと従業員の生産性を押し下げ、政治的な安定性を弱めることで、負の経済的効果がある研究が紹介された。登壇者からは、社会経済的格差は、気候変動や生物多様性喪失に続く、「すぐ眼前にあるが見落とされている、次なる巨大なリスク」になるという危機意識の指摘があった。また、格差の拡大は、社会全体のシステムレベル・リスクと捉えられがちだが、企業によっては固有のリスク(idiosyncratic risk)としてばらつきが生じ得ると指摘された。企業の本源的役割は利益を追求することであり、企業は可能な範囲で短中長期的なリスクを低減するという観点で社会的格差の是正に貢献しうる一方、それだけでは社会的不平等を解消できないため、政策レベルでの構造改革が不可欠だと提起された。
- また、オックスファム(Oxfam)が開発した「企業不平等評価軸」(Corporate Inequality Framework)に基づく分析が紹介され、企業が社会的リスクを過小評価していることや、企業による「多様性・公平性・包括性」(Diversity Equity & Inclusion)が新たな「ウォッシング」になっていること、人種・性別の不平等が賃金格差に直結しているなどの課題が指摘された。
- 人権と自然をテーマにしたセッションでは、米国では有色人種の約75%が自然破壊された地域(nature deprived areas)に居住することに対し白人の同数値は約25%に過ぎないデータなどを示し、人種や所得格差が公共財としての自然資本の配分に影響を与えている点が指摘された。このような人的資本開示のような取組に費やすことができるリソースは限られているため、人権が他の責任投資課題と関連があることを認識し、システム思考により課題に取り組む必要があることが提起された。
- 社会的不平等や人権に関する配慮は決して新しい概念ではなく、投資判断に際しての人権デューデリジェンスなど投資先企業の人権遵守状況を確認するプロセスは以前から存在していた。しかし、これらの課題が複雑化し、他のグローバル課題と密接に相互関連する中で、システム思考に基づく対処が必要となっている。
4-4. 自然資本と生物多様性
自然資本や生物多様性の損失は、現代の経済システムにおいて深刻なシステムレベル・リスクを引き起こす要因となっており、投資戦略において考慮すべき重要な課題の一つである。本大会では、これらの要素が投融資のリスク評価や意思決定に十分に反映されていない点が課題として指摘され、企業や投資家が自然資本や生物多様性の損失に効果的に対処するためには、政策当局との協力が重要である点などが議論された。以下、主な発言や議論内容を紹介する。
- 自然を責任投資の中心として捉えることに焦点を当てたセッションでは、自然と気候変動は「同じコインの両面」として捉えるべきであり、これらを個別に扱うことの限界が指摘された。ネットゼロの目標達成には生物多様性や自然保護が不可欠であり、自然資本の損失は投資家にとってシステムレベル・リスクを生み出すことに繋がる。そのため、投資家は自然に関するリスクを定量化し投資プロセスに組み込む必要がある一方、具体的なデータや測定基準が不足しており、自然資本に対する投資の効果を正確に評価するのが難しい現状にある。自然資本を効果的に投資プロセスに組み込むためには、より多くのデータと指標が必要である点が提起された。
- 気候変動と生物多様性に関する国際会議(COP16およびCOP29)への道筋をテーマに議論が行われたセッションでは、投資家と政策当局との協力が重要だという点が強調された。政策当局は民間資本に対し過剰な期待を抱き投資決定がどのように行われるかを十分に理解しない傾向がある一方、民間資本側も過大な約束を交わしながら約束が実現されていないという問題――政策当局と投資家のジレンマ――が取り上げられ、政策当局と投資家の相互理解が不可欠であると指摘された。また、気候変動対策への資金や生物多様性枠組については、各国が自主的に決定する貢献(NDC: Nationally Determined Contributions)の強化が重要視され、自国の取組が他国に与える影響を理解することが必要であることが確認された。
課題の複雑さを認識しつつも、自然資本や生物多様性が投資戦略に組み込まれることへの期待、PiPやCOPのような国際会議が、気候変動や生物多様性という課題に効果的に対処するための行動を促すプラットフォームの場として機能していることの意義が改めて確認された。
4-5. AI技術と責任投資
AI技術の進化は、システムレベル・リスクを特定・管理するための新しいツールとしての可能性を秘めている。例えば、大規模なデータ分析や予測モニタリングを通じて、複雑なリスクの相互関係を明らかにすることが可能である。一方で、AI技術そのものも倫理的課題などの新しいリスクを生む可能性があり、慎重な対応が求められている。本大会においても、AI技術が責任投資にどのように貢献できるか、そしてリスクや課題をどのように管理するべきか議論が行われた。以下、主な発言や議論内容を紹介する。
- AI技術は、データ解析能力の高度化、指標モニタリングの改善、イノベーション推進、生産性の向上などにより、複雑なグローバル課題を解決する潜在能力を秘めていることに期待されている。一方で、バイアスやプライバシー問題、労働市場や金融システムへの影響、より広範囲な社会のシステムレベル・リスクに対する懸念を理解することが重要とされた。また、AI技術のように新しい領域におけるガバナンスでは、適切に規制されたAIシステムの導入が不可欠であると同時に、投資家はAI分野においてもエンゲージメントに目を向けるべき点が指摘された。
- 具体的なリスクとして、労働者の仕事が一層AIアルゴリズムによって指示され、人間的要素が排除されることが課題として指摘された。これにより、人間的判断が人的資本管理プロセスから排除されるという極端な形で脱人間化が行われ、労働者の権利侵害や違法な雇用差別などの問題が生じることが考えられる。本大会に先立つ2024年10月には、米国東海岸の港湾において、AIを含む自動化技術の導入をめぐる労働条件の対立が原因で、大規模な港湾労働者のストライキが発生した。このストライキは、労働者が雇用主との労働条件に賃上げと自動化抑制を求めて行ったものであり、AI技術よるシステムレベル・リスク(労働者の権利侵害、サプライチェーンの弱点)を表した事例である。
AI技術がより高度に進化するにつれ、企業や投資家が透明性と説明責任を果たしながら、責任あるAI技術の実装を進めることが求められていることが改めて認識された。
4-6. 情報開示と規制
気候変動や自然資本、社会的不平等などさまざまな課題がシステムレベル・リスクとして、社会経済全体に影響を及ぼしている。特に本大会においては、社会的不平等が気候変動や生物多様性損失に続く、次なるメガリスクとなる可能性が指摘された。システムレベル・リスクの課題に対応するためには、投資家と政策当局が連携して、透明性と責任を伴う枠組みを構築する必要がある。システムレベル・リスクについて、情報開示や規制面から議論された内容を紹介する。
- TISFD(Taskforce on Inequality & Social-related Financial Disclosures:社会関連財務情報開示タスクフォース)は、社会的不平等をシステムレベル・リスクと位置付け可視化し、特に企業活動や投資行動がどのように社会的不平等を悪化または改善するかを明らかにすることを目指している。従来、水や森林資源などの自然資本は所与のものとして捉えられていたが、それらに及ぼす外部不経済をプライシングする必要が生じたことにより、TCFD(Taskforce on Climate-related Financial Disclosure)やTNFD(Taskforce on Nature-Related Financial Disclosure)が整備された。同様に、社会的不平等によるコストなど、人(労働者、消費者、地域コミュニティなどpeople)に及ぼす外部不経済について適切に情報開示する必要が生じている。企業や投資家が直面するリスクの透明性を高め、社会的不平等を緩和する投資戦略の必要性は認識されている一方、現時点では社会的不平等に関するデータや測定手法の不足が課題となっている。TISFDは、ISSB(International Sustainability Standards Board、国際サステナビリティ基準審議会)やGRI(Global Reporting Initiatives)などの団体や国際的な報告委基準との整合性を調整しながら、2026年末までの導入が期待されている。
- 情報開示や規制環境が整えられる一方、「グリーンハッシング(Greenhushing)」も議論された。「グリーンウォッシング(Greenwashing)」は企業の信頼性を揺るがす重要な課題として知られているが、近年は、企業がサステナビリティへの取組を過少評価し、批判を避けるために透明性を低下させる「グリーンハッシュ」という傾向も現れ、投資家の不信感の高まりとして新たな課題となっている。企業がサステナビリティ情報の公表を控える傾向は、特に米国で見られ反ESGからの圧力が関係している可能性や、EU/CSRD(Corporate Sustainability Reporting Directive)などによる透明性確保の厳格化に伴いグリーンハッシングが増加していることなどが指摘された。投資家からは、国際的に共通した基準が整備されることで、これらの課題防止に寄与する期待が表明された。
- 近年、多国籍企業のサプライチェーンにおける労働者の人権侵害(児童・強制労働など)や環境破壊(森林伐採など)に対する意識が特に高まっている。そのような中、企業のサプライチェーン全体での責任を明確化し、これらの問題を解決するためのフレームワークとして、2024年4月に欧州議会で採択されたEU/CSDDD(Corporate Sustainability Due Diligence Directive)が話題としてあがった。EU/CSDDDは、強制力を持たないUNGPs(UN Guiding Principles on Business and Human Rights)を法的拘束力があるものに昇華させた位置付けである。デューデリジェンスを義務付ける点や人権の特定・評価する点はUNGPsと同様である一方、人権に加え環境のデューデリジェンスも義務づけている点や、サプライチェーン全体をスコープと捉える点はUNGPsとは異なる。EU/CSDDDが採択されたことで、個別の企業や産業を超えた広範囲な影響を及ぼすシステムレベル・リスクをより包括的に解決する道筋が作られることが期待されている。一方、EU/CSDDDは歓迎すべき進展だが、導入に向けた準備ができている企業は非常に限定的であることも指摘され、2026~2027年にかけて各国で運用が開始されるまでの道のりは長いことが課題として残る。
- 責任投資に関連する規制環境の変化は、企業や投資家にとって負担であると同時に機会をもたらしている。投資活動の透明性を強化するための流れは今後も継続することが想定され、企業や投資家は、規制への対応を一層求められている。
4-7. エンゲージメント
システムレベル・リスクに効果的に取り組むことを目指す場合、エンゲージメントは様々なステークホルダー間の重要な橋渡し役を果たす。昨年の東京大会と同様に本大会でも、企業を対象としたエンゲージメントだけではなく、政策当局を対象としたポリシーエンゲージメントの重要性が強調された。企業と政策当局の双方に対するエンゲージメントのバランスが重要であること、その際には協働エンゲージメントが効果的であることが指摘された。以下、主な発言や議論内容を紹介する。
- エンゲージメントとシステムレベル・リスクに焦点を当てたセッションでは、個別ポートフォリオ単位のリスク管理ではシステムレベル・リスクに十分対処できないことや、システムレベル・リスクの優先順位付けが難しいといった意見が聞かれた。これに対し、システムレベル・リスクの優先順位を決めるためには、投資家がポートフォリオ全体への影響を考慮し、政策当局や他の投資家との協働が重要であると提案がされた。加えて、エンゲージメントの効果を高めるために、投資家の権利を行使することの必要性も強調された。エンゲージメントが効果的でない場合は次のステップとして、法的手段やエスカレーション戦略(議決権行使、要監視リスト、ダイベストメント)の重要性や効率性が説明され、リスクに対しより厳格な姿勢が必要となることが指摘された
- 気候変動対策とエンゲージメントに関するセッションでは、システムレベル・リスクに対応するため、企業エンゲージメントとポリシーエンゲージメントのどちらを重視するかというディベート形式の議論が行われた。冒頭、聴衆に対してどちらを重視するか投票が行われ、約7割がポリシーエンゲージメント重視に投票した。この結果を受けて、4名のパネリストが、企業エンゲージメント派とポリシーエンゲージメント派の2組に分かれ、意見を述べ合った。ポリシーエンゲージメントを支持するパネリストからは、気候変動は市場の失敗によるものであり政策当局が解決策を示すべきということが指摘され、企業エンゲージメントを支持するパネリストからは、政策当局の解決策は実効性に乏しい点を中心に議論が展開された。その後、聴衆を対象に改めて投票を実施した結果では、ディスカッションの中では企業エンゲージメントを重視する意見の方に説得力があったという結果になったが、全体として双方のアプローチが互いに補完するバランスが重要だと強調された。
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- 個々の投資家や企業だけでは対処が困難なシステムレベル・リスクやAI技術のような新しいテーマに対応するためには、様々なステークホルダーへのエンゲージメントが不可欠であり、エンゲージメント活動の専門知識や能力向上、そして協働が重要であると認識された。
4-8. システムレベル投資
個別企業に固有なリスクや機会に焦点あてたESG投資によって超過リターンαを獲得することは可能だが、そうした投資アプローチだけではシステムレベル・リスクへの対応としては不十分である。あらゆる企業の事業基盤を脅かす気候変動や社会的不平等などのシステムレベル・リスクが発生すれば、マーケットリターン全体βが沈むため、投資家がいくら分散投資を行ったとしても、その影響は免れない。このため、投資家がポートフォリオ全体の投資パフォーマンスを長期的に改善するには、金融システム全体を持続可能にすることが不可欠であることが、従来にも増して強調された。
- システムレベル投資に関するパネルディスカッションでは、長期的視点での投資が実社会に与えるインパクトの重要性が繰り返し指摘された。長期的視点を考慮した投資構造へ変革するに際しては、影響を受けるステークホルダーを取り込み労働者や地域コミュニティと協力することで、実社会にポジティブなインパクトを創出できること、また環境・社会システムといった「共通の資源」を損なわないためには、個別企業による短期的利益追求がシステム全体に損失を与えないように行動基準(ガードレール)を規定する必要があることなどが指摘された。同時に、PRI「アクティブ・オーナーシップ2.0」(Active Ownership 2.0)によるシステムレベル・リスクを統合する動きなど、PRIが専門家やリソースを結びつけるプラットフォームの構築に取り組んでいることが紹介された。
- スチュワードシップを通じたシステムレベル・リスクへの取り組みに焦点を当てたセッションでは、実社会へのインパクトを生み出すために必要なアプローチが議論された。具体的には、短期的なポートフォリオのリスク管理だけでなく長期的なシステム全体の健全性を重視すること、ポートフォリオの脱炭素化だけでなく現実の排出量削減や自然資本の保護など実社会での具体的な成果に重点を置く必要があることが指摘された。そして、それらを実現するアプローチとして、(1)政策当局との協働により持続可能な政策への変更を促すこと、(2)企業エンゲージメントにおいてエスカレーション戦略に基づき行動変容を促すこと、(3)ポートフォリオ全体におけるリスクを考慮したシステムレベルでの投資目標を設定すること、(4)投資家自身が戦略的思考や高度な分析スキルを身につけること、などがケーススタディを通して紹介された。
- また、アセット・オーナーとアセット・マネージャーという投資における主要なステークホルダーが、どのように投資の意思決定を通じて課題に対処し、実社会へのインパクトを生み出しているかを議論したセッションも設けられた。そこでは、アセット・オーナーが長期的パフォーマンスとシステム全体のリスク管理に焦点を当てる傾向がある一方で、アセット・マネージャーは受託者責任を果たすための具体的な戦略と実行可能性を重視する傾向があると指摘された。そのため、両者が効果的に協働することで実社会へのポジティブなインパクトを最大化できるという点が強調された。また、実社会においてインパクトを生み出すためには、「ポートフォリオ全体で投資機会を捉えること」や「投資家以外とも協働していくこと」などの視点を重視する必要があると提起された。
企業や投資家が、短期的パフォーマンスの追求から、環境・社会への長期的な影響を考慮した戦略を用いることで、より健全で公平な社会システムを構築することが可能となる。このようなアプローチは、システムレベル・リスクを軽減し、社会全体にポジティブなインパクトをもたらすための重要なステップになると期待される。
5――おわりに
今年のトロント大会では、複雑化するサステナビリティ課題に対し、投資家や企業がシステム思考を持ち如何にして実質的なインパクトを社会にもたらすことができるか模索され、そのためのツールや戦略も提示された。また、地域特性の視点を考慮したセッションも開催され、カナダの投資家コミュニティが示すリーダーシップや取組み事例が、今後の責任投資を推進するうえで一つの指針にもなった。来年のPiPはブラジルのサンパウロで開催が予定されており、アマゾン熱帯雨林の保全や生物多様性、経済発展とのバランスなどが主要テーマになることが予想される。
また、本大会を通じて確認された共通理解の一つとして、「協力・協調」の重要性が挙げられる。複雑に相互関連したシステム全体のリスクに対処しながら、サステナブルな経済へ移行を加速するためには、今後も各国規制当局や投資家間の協働が求められる。その中で、プラットフォームとして機能するPRIに対する期待はますます高まっている。
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https://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=80409?site=nli