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鶴居に「泊まれる図書館」 松井さんオープン、蔵書1.5万冊 「自然の後は本の世界に」

2024-12-18 | アイヌ民族関連

佐竹直子 有料記事

北海道新聞2024年12月17日 21:30(12月17日 23:59更新)

高さ約6メートルの本棚にびっしり詰まった松井さんの蔵書。宿泊すると読み放題だ

 【鶴居】蔵書1万5千冊を自由に読める宿泊施設「民泊 本と辺境。」が、村鶴居西6にオープンした。村内で私設図書館「ツルイの小屋」を運営する松井和哉さん(66)が、隣接する自宅を民泊施設に改修し、図書館と連動させた。村内で雄大な自然を満喫した後は泊まりがけで読書を楽しむ「アフターアウトドア」型の文化体験施設を目指す。

 米国の思想家ソローの「ウォールデン-森の生活」、ニーチェー全集、社会学の専門書、ギリシャ古典、アイヌ文学、ロックやジャズの巨匠の伝記にファッション関連書…。私設図書館に備え付けられた高さ約6メートルの書棚に詰まった蔵書は多様だ。

 民泊施設は1日にオープン。宿泊すると、図書館側の蔵書を夜通し好きなだけ読むことができる。

 松井さんは同村出身。釧路江南高、慶応大文学部を経て、ファッションビル大手「パルコ」(東京)に就職。新規事業企画や動画配信などを担当し、10年所属した出版部では芸術書や雑誌の編集を担った。膨大な蔵書は、主に出版部時代に蓄積された図書だ。

 定年退職を機に村に戻り、・・・・・

 

 施設の詳細は専用サイトで案内している。問い合わせは松井さん、電話090・9133・2441へ。

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1102051/


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映画『アイヌプリ』:この時代を“アイヌ式”に生きることとは? 福永壮志監督が初のドキュメンタリーで“肉迫”

2024-12-18 | アイヌ民族関連

nippon.com 12/17(火) 16:47

映画『アイヌプリ』より ©2024 Takeshi Fukunaga/AINU PURI Production Committee

『山女』の福永壮志監督が初めて手がけたドキュメンタリー。前々作『アイヌモシㇼ』撮影中の2018年に知り合った家族に、コロナ禍を挟んでおよそ3年半にわたり密着した。「マレㇷ゚漁」と呼ばれる伝統的なサケ漁などアイヌ文化を継承し、日常の中で“アイヌプリ(アイヌ式)”を実践する人々に迫る。福永監督と出演した家族に撮影の裏側を聞いた。

伝統のアイヌ式サケ漁にひかれて

映画『アイヌプリ』は、北海道・白糠町(しらぬかちょう)で生きるアイヌの家族に密着し、先祖から受け継いだ漁の技法、文化や芸能、信仰を“楽しみながら”次世代に伝えていく彼らの等身大の姿を映し出す。先の釜山国際映画祭や東京国際映画祭でも公式上映され、大いに話題を集めた。

映画『アイヌプリ』の福永壮志監督(左)、出演した天内重樹(あまない・しげき、右)・基輝が東京国際映画祭のレッドカーペットに登場(2024年10月28日) ©2024 TIFF

監督は、阿寒湖畔のアイヌコタン(集落)を舞台とする劇映画『アイヌモシㇼ』を撮った福永壮志。その撮影中に出会ったのが、のちに『アイヌプリ』に出演する「シゲ」こと天内重樹だった。

『アイヌモシリ』には、アイヌコタンの重要な行事「まりも祭り」の場面が登場する。阿寒湖から80キロ以上離れた白糠町に住むシゲも参加していた。シゲは白糠アイヌ協会会長で、聞けばアイヌの伝統的な道具「マレㇷ゚」を使ったサケ漁に取り組んでいるという。

福永監督は2018年秋、シゲに付いてマレㇷ゚漁を見学させてもらった。

福永 ただ自分がやりたいからという純粋な理由で暗い中、冷たい川に入り、手づくりのモリで楽しそうにサケを獲る。その姿に感銘を受けました。それで翌年『アイヌモシㇼ』の完成直前に、プロデューサーと共にシゲちゃんを訪ね、ドキュメンタリー映画を撮らせてくれないかと相談したんです。

シゲ 知らない人がいきなりやってきて、「密着したい」と言われたら、さすがに断ったと思います。でも監督は『アイヌモシㇼ』の撮影を通して、すでに阿寒のみんなと仲良くなっていたので、信頼できました。

(左から)福永壮志監督、天内基輝、天内重樹 天内愛香 インタビュー撮影:渡邊 玲子

撮影は19年秋に始まり、約3年半に及んだ。

映画の冒頭、未明の川べりに現れたシゲ。漁を始める際、まず火をつけたタバコを1本お供えし、神々に祈り(オンカミ)を捧げる。木を削って作ったイナウ(祭具の木幣)が神と人を結ぶ「依り代(よりしろ)」の役目を果たしている。

シゲがサケ漁に使うマレㇷ゚は普通のモリと違い、先端に楕円(だえん)の弧を描く鉄鉤(かぎ)が取り付けてある。鉄鉤はひもで結ばれていて、突き刺すと柄から外れ、獲物が釣り下がるようになっている。

シゲは獲ったサケを鉤から外すと、左手で尾をつかんでぶら下げ、「イナウコレ」と唱えながら右手に握ったイパキㇰニで頭を3度殴る。そして仕留めたサケに「ありがとう、がんばったな」と声を掛ける。サケはアイヌにとって、カムイチェㇷ゚(神の魚)やシペ(本当の食べ物)と呼ぶありがたい食材なのだ。

被写体に“肉迫”するカメラ

やがてカメラはシゲが暮らす家の中に入り、毛穴まで見えそうな距離感で天内家の日常を映し出していく。

シゲ カメラマンも録音技師も足音がしない靴下を履いて忍者みたいに気配を消して。気づいたら「お、いるんだ!」という感じでしたね。撮影が終わると、みんなで一緒にご飯を食べて。

カメラの前で天真らんまんそのものだったシゲの息子、基輝(もとき)も3年半の間に成長していく。

基輝 毎年、秋になると撮影隊が来るのが楽しかった。カメラがあってもいつも通り、ずっとふざけていられたから。

シゲの妻、愛香(あいか)も自然体で撮影を受け入れた。

愛香 「勝手に入っていいよ」と言ったら、本当にまだ寝ている時に入ってきて(笑)、いつの間にかカメラを回していたみたいです。完成した映画を観たら、寝ぼけまなこで朝ごはんを作っているところまで映っていてビックリしましたね。

そんな撮影のアプローチを福永監督はこう振り返る。

福永 ドキュメンタリーは初めてで、こんな風に入り込まないと撮れないと思いました。シゲちゃんのやっていることに魅力を感じて、損得勘定なしでありのままの姿を映像に収めたかった。アイヌに関する作品はまだまだ少なくて、それを作り続けることに意義を感じます。でもいくら自分が撮りたくても、相手が納得した上で協力してもらわないと無理ですよね。当然、嫌なことは撮らない、使う映像は確認してもらうと約束してから撮影に入りました。それでも、すぐに心を開いてくれたのは、天内家のみなさんの人柄だと思います。

命をいただく意識

別の日、シゲはシカ狩りに出かける。シカの鳴き声に似た鹿笛でおびき寄せる。

シゲ シカ撃ちの場面は、普通あんな見事に決まるとは限らないんです。自分の映像を見て、「すご腕ハンターみたいじゃん!」って(笑)。あの日もいろいろ条件がそろわなくて、あきらめて移動しようとした矢先に、パっと見たらシカがいた。食肉にするには頭か首を狙う必要があって、立ったままだとすごく難しいんですが、うまく眉間に命中しました。

シカは仕留めてすぐにナイフで腹を裂いて血抜きをし、その場で内臓を取り出す。サケの頭をたたく場面もそうだが、観客から拒否反応があることは承知の上で、モザイクをかけたりすることなくそのまま映し出す。

福永 シカの解体シーンに抵抗を感じた人もいました。でも、普段スーパーマーケットでお金を払って肉を買うだけだと、生き物を殺(あや)めた上で命をいただいているという意識が薄れがちになると思うんです。シゲちゃんもそういうスタンス。だからあのシーンは外せなかった。

シゲは一人でシカ肉を処理場へ運び、自ら巧みにナイフを操って皮をはぎ、肉を切り分けていく。映画にも登場するシカ肉・クマ肉の販売会社の社員として生計を立てているのだ。

シゲと一緒にマレㇷ゚漁をするいとこの子ども、隆太郎の職業は漁師。漁船に乗って、網で大量の魚を獲る。食べるのに必要なだけ獲るのがアイヌの精神だが、仕事は別と割り切っている。「普段からアイヌを意識していたら、仕事できないもん」という言葉が印象的だ。

伝統の継承、若者の本音

映画はそんな若者たちのありのままの姿をとらえ、アイヌとして生まれた心情の吐露を聞きながら、そのさらに下の世代への文化や芸能の継承へと焦点を絞り込んでいく。

基輝を連れて初めてのマレㇷ゚漁。命の恵みを巡って若い父と子が交わす会話にじっくりと耳を傾けてほしい。

基輝本人は父から息子へのバトンをどう考えているのか、揺らぐ思いもありそうだ。映画の中で語っていた進路についても、すでに心変わりしているらしい。取材では、基輝から「自分のインタビューのところだけカットできないの?」と驚きの発言が飛び出し、「今さら無理だよ!」と監督がタジタジになる場面もあった。

しかしその真意について、すかさず母がフォローする。

愛香 お気に入りのTシャツで映りたかったのに、商標の都合で無地のものに着替えさせられて、テンションがダダ下がりだったんだよね(笑)。

基輝 インタビューで「高専に行きたい」と言ったのも、あの時点では家から一番近かったから。でも白糠に高校ができたからそっちでもいい。朝はギリギリまでダラダラしていたいし。高卒よりは専門学校の方が給料も高くなるからいいなと思っていて。

福永 基輝はマレㇷ゚漁やシカ撃ちをしているシゲちゃんを見て「父ちゃん、かっこいい!」と言うけど、いざ「自分もやりたいか?」と聞くと、「やりたくない」「高専に行く」「給料がいいから」と答える。でも一方で、学校では率先してアイヌ文化を紹介する委員会をつくって委員長になったりもする。全部ひっくるめて彼なんですよ。

シゲ 基輝も思春期に入っていろんな考えが湧き出ているんですよね。白糠高校だとアイヌの行事に参加する場合は公休扱いになるとか、そういう話もしています。コロナ禍でしばらく撮影がなかった間に、自分の仕事を含めて状況が変わったところもあるけど、それはそれで別にいいかなと。

福永 映画を撮り終えてからも生活は続きます。長いスパンで撮っていれば、その間にいろんな変化があるのは当然のこと。アイヌの血を引く若い人が、みんなシゲちゃんと同じ考えを持っているわけでもありません。「アイヌの伝統文化を広める活動を頑張っている人がいます」みたいな映画にするつもりはなかった。シゲちゃんは、あくまで自分が好きなことをやっていて、それが結果的に大きなものにつながっているだけなんですよ。

シゲ 小さい頃から生活の中にアイヌの文化が当たり前にあり、そこで育つ過程で伝統的なサケ漁に触れる機会があっただけ。「アイヌ文化を継承しよう」と特別に意識したことはないんです。だからこそ、自分の子どもらにもそれを強制するようなことはしたくない。自然と興味を持って育ってくれれば、それが一番いいと思っています。

シゲにとって、映画の公開に不安がまったくないわけではない。

シゲ 白糠町にはアイヌが多いですが、いまだ根強い差別もあって、基輝の通う学校の中には、親からルーツを聞かされておらず、自分がアイヌだと知らない子もいます。基輝には、「アイヌであることを気にする人もいるし、気にしない人もいる。ただ、お前は気にする必要はないし、差別されるいわれもない。お父さんも堂々とするから、お前がもし誰かに何か言われたとしても、堂々としてればいい」と言っています。

とはいえ、ワクワクの方がはるかに大きいようだ。取材は10月末、東京国際映画祭での上映に合わせて天内家が上京した際に行われた。前日にはレッドカーペットを歩いたという。

シゲ 監督とは友達として付き合っていたつもりなんだけど、昨日の会場では「世界のタケシ・フクナガ」を見せつけられた感がありましたね(笑)。大勢の観客やマスコミの前で流ちょうに英語であいさつしていて、めちゃくちゃカッコよかった。おかげでこんな貴重な経験をさせてもらえているんだって、基輝と二人でオンカミをしたんです。

基輝 壮志あんちゃん、基輝、本当に斎藤工と会ったんだよね? 夢じゃないよね?

福永 大丈夫、ちゃんと写真も撮ってあるから(笑)。

(文中敬称略)

取材・文・撮影:渡邊 玲子

作品情報

映画『アイヌプリ』 ©2024 Takeshi Fukunaga/AINU PURI Production Committee

・出演:天内 重樹 天内 愛香 天内 基輝 天内 芳樹 平澤 隆太郎 新藤 聡 内山 藤子

・監督:福永 壮志

・プロデューサー:エリック・ニアリ 福永 壮志

・撮影:エリック・シライ

・編集:出口 景子 川上 拓也

・音楽:OKI

・配給:NAKACHIKA PICTURES

・製作国:日本

・製作年:2024年

・上映時間:82分

12月14日(土)ユーロスペース他全国順次公開

【Profile】

福永 壮志 FUKUNAGA Takeshi

1982年、北海道伊達市生まれ。2003年に渡米し、07年ニューヨーク市立大学ブルックリン校の映画学部を卒業。15年、『リベリアの白い血』(原題:Out of My Hand)で長編映画デビュー。20年、2作目の『アイヌモシㇼ』を発表、トライベッカ映画祭(ニューヨーク)の国際ナラティブ・コンペティション部門に正式出品され、審査員特別賞を受賞。23年、長編3作目『山女』が公開。米ドラマ『SHOGUN 将軍』の7話、『Tokyo Vice S2』の5・6話の監督を務める。

渡邊 玲子 WATANABE Reiko

映画配給会社、新聞社、WEB編集部勤務を経て、フリーランスの編集・ライターとして活動中。国内外で活躍するクリエイターや起業家のインタビュー記事を中心に、WEB、雑誌、パンフレットなどで執筆するほか、書家として、映画タイトルや商品ロゴの筆文字デザインを手掛けている。イベントMC、ラジオ出演なども。

https://news.yahoo.co.jp/articles/f2e94901cbdc668a295f8375a660652b643b7057


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【この世界の片隅から】 台湾原住民の伝統文化の再構築と継承 甦濘・希瓦 2024年12月25日

2024-12-18 | 先住民族関連

キリスト新聞 12/17(火) 

 台湾原住民*の伝統文化の保存と継承の課題について紹介したい。

 台湾の原住民の伝統文化の知識は、記憶の口伝、歌や踊りの伝承、生活技能の教育などを通じて伝えられてきた。しかしながら、原住民が古くから生活の中で築き上げた伝統文化の本質は、単なる口伝や音楽・舞踊などの目に見えるものにとどまらず、さらに言えば日常生活の多様な側面において代々受け継がれてきた、無数の知恵の精髄とその価値であり、部族の生命そのものと言える。

 台湾政府の原住民族委員会は、2021年から2025年において、原住民の伝統知識をより掘り下げて発展させるため、国家教育機関との連携を図り、「原住民族の教育文化知識体系構築計画」を推進している。例えば、宜蘭県政府の原住民族教育資源センターでは、以下のように伝統文化を分類している。

 (1)生活技能:衣、食、住、移動といった基本的な生存技能や天文学・暦など、(2)信仰と儀式、(3)倫理と禁忌、(4)族群関係と部落の歴史、(5)部族語と文学:日常の部落生活での言語、物語、神話、民謡、祈祷文学など、(6)社会組織、(7)芸術と舞踊:刺青、衣装、装飾品、意匠、工芸、年齢を問わない遊びやスポーツなど。音楽・舞踊には歌謡、祝賀/厄除け/戦士の舞、楽器演奏が含まれる、(8)環境生保全:動植物の生態とその利用・保全、土地利用、エネルギー利用、環境の選択と禁忌など。

 では、各部族の生命の神髄を守り、次世代に伝え、さらに社会的影響力として広げていくにはどうすればいいのか。また、原住民の伝統文化の知識体系をより発展させ、より深く根付かせるにはどうすればいいのか。そのためには、原住民自身が主体となり、学術研究や伝統知識体系の構築に積極的に関与できるよう支援することが求められると筆者は考える。外部からの押し付けではなく、内部からの自発的な取り組みこそが、伝統文化の復興や保存の鍵となる。

プユマ族の利嘉部落による伝統的舞踊と歌の祭り

 原住民の伝統知識体系の構築は、部族外の社会(漢人社会)に対しては原住民の美しい伝統価値の理解と尊重を促し、部族内においては若者世代が部族伝統文化をより理解するための一助となり、ひいては民族主体意識を構築し、自尊心を再建させることにつながる 。また、部族外の社会との対話や共有を促し、変化の速い世の中において新旧の知識が融合したより良い価値を生み出すことにつながるだろう。このモデルケースとも言えるのが、台湾の原住民社会に根付くキリスト教会の働きだ。

 今日では原住民の部族語教師の約70%がキリスト者であり、部族語による礼拝が教会を通じて実践されている。そのため、台湾で唯一、原住民を主体とする玉山神学院では、創立以来、全学生が必修課程として自分の部族語を履修し、卒業後も各自の部落に戻り部族語を活用することを奨励している。この取り組みは、文化伝承とキリスト教福音の伝道の両面に寄与している。

 各部族自らが地元の部落現場に戻り、主体的に部落文化を整理・記録できるようにすることが、部落文化の主体を原住民自身に取り戻すことにつながり、原住民各部族が部落の伝統文化を形作ることとなる。このようにして原住民の伝統文化の知識体系を策定・構築し、教育や実践を通じてそれらを伝える仕組みを形成することで、伝統文化が保存され、未来へと継承されていくことが期待されている。

(原文:中国語、翻訳=笹川悦子)

*訳者註:台湾の地に外来移民や植民地支配が及ぶ以前から、台湾には人が住み、自らの言語・文化・風習・生活エリアで自分たちの生活を送っていた。しかしその後、外来移民や植民地支配による一方的侵略及び剥奪により、これら住民は暮らしていた土地を追いやられ、のけ者にされてしまった。この元の住民こそが、台湾先住民(原住民)だ。現代において台湾の先住民への理解と尊重は高まってきているが、それは今もなお発展途上である。

(写真)台湾長老教会原住民宣教委員会創立70周年記念礼拝、ブヌン族の賛美

甦濘・希瓦
 スーニン・シーワ
 台湾の原住民族プユマ族。玉山神学院卒業後、台湾神学院で神学修士・教育修士、香港中文大学崇基学院神学院で神学修士。現在、台湾基督教長老教会・玉山神学院(花蓮県)のキリスト教教育専任講師、同長老教会伝道師。

https://www.kirishin.com/2024/12/17/70757/


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「最悪な抑留所 道内にあった」 「宮沢・レーン」冤罪事件83年 北大で集会、研究者指摘 /北海道

2024-12-18 | 先住民族関連

 

毎日新聞 2024/12/17 地方版有料記事 750文字

敵国人抑留政策を研究する小宮まゆみさんの講演に耳を傾ける参加者=札幌市北区の北海道大で2024年12月15日、片野裕之撮影

 太平洋戦争中に北海道帝国大(現北海道大)の学生と外国人教員がいわれのないスパイ容疑で逮捕された冤罪(えんざい)事件の発生から8日で83年たち、事件を考える集いが15日、北大であった。出席者約70人は外国人の抑留政策について学び、「事件の検証を続け、教訓を社会に残す活動に生かしたい」と誓った。

 事件は太平洋戦争が開戦した1941年12月8日、北大工学部生の宮沢弘幸さんが、米国人英語教師のハロルド・レーンさん、ポーリンさん夫妻に根室の海軍飛行場などの情報を漏らしたとして、軍機保護法違反容疑で夫妻とともに逮捕された。宮沢さんは獄中で患った結核が原因で27歳で死去した。

・・・・・

 国外の占領地などから連れてこられた「連行型抑留」の実態も紹介。アリューシャン列島のアッツ島から先住民族40人が小樽に連行され、民家に押し込まれて感染症がまん延し、20人が死亡したという。小宮さんは「一番最悪な抑留所が北海道にあった」と語った。

 ・・・・・・

【片野裕之】

https://mainichi.jp/articles/20241217/ddl/k01/040/048000c


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財務省は、2024年の西パプア特別自治基金が100%分配されたと述べた

2024-12-18 | 先住民族関連

 

VOI 14 Desember 2024, 13:23

ジャカルタ - 西パプア財務省財務総局(DJPb)は、2024年に西パプア州の特別自治基金(Otsus)が8つの地方自治体に100%分配されたと述べた。

西パプア財務省の予算実施開発課長、IIA Kanwil DJPbの責任者であるルディ・ノビアント氏は、資金は各地域の一般現金口座に振り込まれたと述べた。

「タイムラインでは、12月は条件付きまたは無条件にすべて配布されなければなりません」と、12月14日土曜日にANTARAが報告したように、ルディは言いました。

彼は、西パプア州政府(Pemprov)に分配された特別自治基金の合計は8,438億9,000万ルピア、マノクワリ摂政政府(Pemkab)は1,682億3,000万ルピア、ファクファク摂政政府は1,093億6,000万ルピアに達したと説明した。

その後、ビントゥニベイリージェンシー政府は1,691億7,000万ルピア、ウォンダマベイリージェンシー政府は1,433億5,000万ルピア、カイマナリージェンシー政府は959億8,000万ルピア、アルファク山脈摂政政府は1,356億6,000万ルピア、南マノクワリ摂政政府は864億8,000万ルピアです。

「確かに、特別自治基金はすべてを各地方自治体に分配しなければならない」と彼は言った。

ルディは、特別自治基金は3つの要素、すなわち一般的な特別自治基金(ブロックグリーティング)、その使用が決定された特別自治基金(特定のログリーティング)、および追加のインフラストラクチャ基金(DTI)に分かれていると説明しました。

DJPbは、先住民族のパプア人の福祉の発展のための利用が最大化されるように、指定された時間に従って特別な自治基金の管理と分配のパフォーマンスを向上させようとしています。

地方自治体が確立された活動プログラムの使用を最適化することを願っています」とRudy氏は説明しました。

彼によると、特別自治基金の最大化の欠如は、先住民族のパプア人のための福祉開発プログラムの実施の遅れ、および残りのより多くの予算資金調達(SiLPA)の増加に影響を与えました。

地方自治体は、特別自治基金のガバナンスを、プログラム計画、実施、利用システムから、残りの用途まで透明に改善し、国民に知ってもらうべきです。

「なぜSiLPAには多くの可能性があるのですか?なぜなら、予算計画やプログラムの議論はしばしば不機嫌だからです。必然的に、私たちはすべてを配布しなければなりません」とルディは言いました。

以前、財務省の財務収支総局(DJPK)は、西パプア州のすべての地方自治体の2023年特別自治基金の合計SiLPAを約2,086億ルピアと記録しました。

州政府が管理する一般的な特別自治基金のSiLPA(ブロックグラント)は、288億ルピアとアルファク山脈摂政政府が管理する最低水準で5億700万ルピアです。

その後、マノクワリ摂政政府によって管理されている最も高い用途(特定の用途)が決定された特別自治基金のSiLPAは、294億ルピア、アルファク山脈摂政政府によって管理されている最低の特別自治基金は5億700万ルピアです。

「西パプア州政府の最高の特別自治の文脈でSiLPA DTIが393億ルピアの価値がある場合」と、スタルト財務省DJPKの中央および地域政府の財務分析は述べています。

彼は、西パプアの州政府と7つの地区による2023年特別自治基金の予算の平均吸収率は89.9%であり、SiLPAを抑制しながらコミュニティの福祉を実現するためには、この実現を改善する必要があると述べた。

なすべき努力は、特別自治基金の分配のタイミング、すなわち第1段階の30%(4月下旬)、第2段階の45%(6月下旬)、第3段階の35%(11月下旬)を改善することです。

https://voi.id/ja/keizai/442890


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国連が自然界の「遺伝資源」を搾取する美容ブランドに対して、補償を義務化

2024-12-18 | 先住民族関連

 

TABI LABO 2024/12/17

「オーガニック」や「サステナブル」という言葉が、もはや当然になりつつある美容業界。環境問題への意識の高まりとともに、消費者の目はますます厳しくなっている。

美容業界が長年頼ってきた豊かな自然の恵み。その恩恵と引き換えに、生物多様性の損失が加速している現状がある。今年11月に開催された生物多様性条約第16回締約国会議(COP16)で提示されたのは、まさに"自然からの請求書"と言えるだろう。

企業は、生態系への負債を返済できるか?

「BeautyMatter」によると、COP16で採択された遺伝子データ利用に関する新たな国際ルール。それは、化粧品や医薬品、農業など、遺伝子データを利用して利益を上げる企業に対して収益の一部を「カリ基金」に支払うことを義務付ける、という画期的なものだ。

「企業は、自然保護に相応の負担をする必要がある」

「Greenpeace Australia Pacific」のGlenn Walker氏は、今回の合意をこう評価する。その言葉の通り、企業は収益の0.1%または利益の1%を基金に拠出する義務を負う。これは、企業にとって新たなコスト負担となるいっぽうで、生物多様性保全に向けた取り組みを加速させる可能性を秘めている。

「カリ基金」が照らす
先住民コミュニティの未来

カリ基金の大きな特徴は、その多くが生物多様性のガーディアンである、開発途上国の先住民コミュニティへの支援に充てられるという点だ。先住民コミュニティが長年培ってきた伝統知識や文化こそ、生物多様性保全の鍵となるのだから。

彼らの伝統は、現代社会においても、持続可能な資源管理や環境保全のモデルとなりうる貴重な知恵の宝庫。カリ基金は経済的な支援だけでなく、伝統知識の継承や文化の振興を通じ、先住民コミュニティのエンパワメントを促進する役割も担うという。

クリーンビューティーのその先へ
合成生物学との向き合い方

今回のCOP16では、もうひとつ美容業界の未来を左右する重要な議論が行われた。それは、生物を分子レベルで操作し、新しい機能をもたせる「合成生物学」の利用に関するものだ。

合成生物学は、希少な天然資源の代替や、環境負荷の低い製造プロセスを実現する可能性を秘めているいっぽうで、予期せぬ生態系への影響や倫理的な問題など解決すべき課題も多い。

クリーンビューティーが世界的な潮流となるなかで、美容業界は環境保護や倫理、そして革新のあいだで繊細なバランスを取りながら、未来への道を切り開いていかなければならない。COP16での議論は、その難しさを改めて浮き彫りにしたと言えるだろう。

https://tabi-labo.com/310780/wtg-natural-expression


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カナダ、財政赤字が目標を50%超上回る 財務相は辞任

2024-12-18 | 先住民族関連

 

Reuters 2024/12/17

[オタワ 16日 ロイター] - カナダ政府が16日発表した報告「秋の経済声明」によると、2023―24会計年度(23年4月―24年3月)の財政赤字は619億カナダドル(約434億5000万米ドル)となり、フリーランド副首相兼財務相が昨年11月に公約した401億カナダドル(281億7000万米ドル)以下の目標を50%超上回った。フリーランド氏はこの日、政府支出を巡るトルドー首相との意見の対立を理由として副首相兼財務相の辞任を表明した。

23―24年度の「秋の経済声明」の公表が大幅に遅れていたため、エコノミストやアナリストの間では財政赤字が目標を大幅に超えたのではないかとの憶測が広がっていた。

フリーランド氏は23―24年度の財政赤字を401億カナダドル以下とし、政府債務の対国内総生産(GDP)比率を前年度の42.4%から引き下げ、24―25年度も低下させ、26―27年度は1%未満に抑えるという3つの目標を提示していた。政府債務の対GDP比率を前年度未満に抑える目標は達成したものの、予想していた1.4%を上回る2.1%となった。

「秋の経済声明」によると、23―24会計年度では先住民対策の偶発債務関連で約164億カナダドルの支出と、新型コロナウイルスのパンデミックに絡む47億カナダドルの支出を計上する見込みとなり、財政赤字を膨らませたと説明。これらの費用計上がなければ財政赤字は約408億カナダドルにとどまったとしたが、それでも目標の401億カナダドル以下を上回る。

https://newspicks.com/news/11005603/body/


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アイデムフォトギャラリー[シリウス]第7回「笹本恒子写真賞」受賞記念展 遠藤 励 写真展 「MIAGGOORTOQ(ミアゴート)」期間:2024年12月19日(木)~12月25日(水)

2024-12-18 | 先住民族関連

 

株式会社アイデム 2024/12/16 10:00

求人広告を企画・発行する株式会社アイデム(新宿区新宿 代表取締役:椛山亮) https://www.aidem.co.jp/ が運営するフォトギャラリー[シリウス] https://www.photo-sirius.net/ は第7回「笹本恒子写真賞」受賞記念展 遠藤 励 写真展 「MIAGGOORTOQ(ミアゴート)」を12月19日(木)~12月25日(水)

第7回「笹本恒子写真賞」受賞記念展 遠藤 励 写真展 「MIAGGOORTOQ(ミアゴート)」

第7回笹本恒子写真賞 受賞理由

グリーンランドの奥地に住む先住民を訪ね、撮影を続けるその行動力と圧倒的な表現力で撮影された写真をまとめた大型の写真集など、熱量を強く感じさせる作家活動に対して。

【受賞の言葉」

今、撮らなければならない写真がある。フィルムからデジタルへの移行を経験し、写真の大衆化を目の当たりにした世代の私は、現代美術としての前衛的表現にも関心はある一方、これまでの写真が持っていた記録としての役わりも大切にしてきた。9カ月費やした北極遠征計画が出発直前にパンデミックで頓挫し、ウクライナへの砲撃はシベリア遠征の中断を余儀なくされた。多くの資金と行先を失い、人生のいろいろが限界だった。半生を賭けてきた写真を、辞めてしまおうと思った。技術の進歩が生み出す視覚表現、承認欲求、広告戦略。目に映る世界がいくら華やいでも、本質を静かに突きつけるストレート写真の強さに心が震えた。写真は行動と体験をともない、被写体と一時的、もしくは長期的に関係を結ぶ。あの時、自分の賭けごとのような写真は終えたのだろう、「これが作品だ」と必死に付加価値を見出そうとしていた写真は、森や動物たちを育てる木の実のようで、写真という行為のなかで「自分自身の方が作品化されていく」。そう思えるようになった。坦々と準備を進めると、私は再び北極に向かった。今回の受賞はこの時代に写真を続けていく勇気と役目を与えてくれました。私にとっては言葉にできないくらいの感謝でしかありません。

(出展枚数/30点から40点、カラーとモノクロ混合)

遠藤 励(えんどう つとむ) プロフィール

1978年 長野県大町市に生まれる。

1997年 スノーボードの黎明期を目撃し、スノーボーダーを撮り始める。独学で写真を始める。

1998年 ボードカルチャーの専門誌を中心に写真表現を開始。以来スノーボード写真の作品化、文化・潮流の撮影を継続。

2017年 北極圏の民俗プロジェクトに着手。2024年 日本写真協会新人賞受賞。

主な著作:『inner focus』2015年、小学館。『MIAGGOORTOQ』2023年、自主制作。

主な個展:2024年「世界の果てに見えるもの」大町市企画展(長野)

2024年「MIAGGOORTOQ」富士フイルムフォトサロン(東京)

2023年「MIAGGOORTOQ」Gallery AL (東京)

2018年「北限の今に生きる」富士フイルムフォトサロン(東京)

2018年-2019年「遠藤 励 写真展」82ストリートギャラリー(長野)

2016年「inner peace」Creative space Hayashi(神奈川)

2016年「Art of snow players」Gallery AL(東京)

2015年「水の記憶」富士フイルムフォトサロン(東京)

2012年「Snow meditation」Fire king cafe(東京)

写真展の様子は「シリウスブログ」でもご紹介します!

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手足切断が当たり前だった恐怖のコンゴ自由国~レオポルド2世に虐待された住民達

2024-12-18 | 先住民族関連

 

武将ジャパン2024/12/16

「名は体を表す」

そんな言葉がある一方、世の中には実態とかけ離れたものがたくさんあります。

本当はゴリゴリの独裁国家なのに、“民主ナンチャラ”とか“人民ナンチャラ”など聞こえの良い国名にしてしまうとか、そういうパターン。

かような例の中でも、世界史的にぶっちぎって「名と実」のかけ離れた国がこちらでしょう。

コンゴ自由国

字面からすると一見平和な民主国家にも見えますが、実態は“切断された手足だらけ”という、恐るべき凶行が繰り広げられていました。

命令を下していたのはベルギー国王のレオポルド2世であり、1909年12月17日はその命日。

いったい何のために、そのような非道を行っていたのか。

レオポルド2世の所業を振り返ってみましょう。

スタンリーのアフリカ探険が始まりだった

時は19世紀――ヨーロッパは探険ブームに沸いていました。

未踏の地(といってもあくまでヨーロッパ人にとってですが)を旅して、見聞を広め、あわよくば植民地なり交易品なりを獲得できればラッキー、というわけです。

1841年、ウェールズ出身のヘンリー・モートン・スタンリーもそうした野心を抱いた探検家の一人でした。

貧しい家庭に生まれ、一時期は救貧院で過ごしたこともある苦労人です。

文才と好奇心を生かしてジャーナリスト、そして探検家となったスタンリーは、1870年アフリカ奥地で消息をたっていたデイビッド・リビングストン博士捜索隊に参加し、見事発見に成功しました。

ヘンリー・スタンリーとアフリカ先住民の少年

一役、時の人となったスタンリーは、さらに野心を燃やします。

アフリカ大陸こそ、俺の栄光の土地なんだ、というわけですね。

探検で留守にしたせいで、婚約者が別の男と結婚してしまったという、悲しいニュースも彼の野心をさらにあおったのかもしれません。

スタンリーはザイール川流域を探険し、その紀行文を発表。

彼は、このザイール川流域・コンゴ盆地を探険し大興奮でした。

「資源と可能性を秘めた広大な土地だ! ここを我が祖国イギリスの植民地にすればいいじゃないか!」

「植民地も場所を選ぶ時代なのよ」

しかし、待っていたのは祖国の無情でそっけない対応でした。

「コンゴねぇ……。あのね、スタンリーさん、アフリカ黄金時代なんてもうとっくに終わっているんですよ。しかも大陸ど真ん中、一年中暑いじゃあないですか。植民地に向いているのは海沿いで気候が温暖なところなんですよ」

植民地というのはともかく取ればいい――そんな時代は終わっておりました。

維持管理して確実に黒字が出るようにしなければならない。

なかなかシビアなもので、イギリス政府は、気候が比較的温暖な南アフリカや、到達が楽な海岸部に興味が集中していたのです。

それがアフリカのど真ん中だなんて……。探険する以外、用はない!

と、少し砕けた言い方にしすぎましたが、他国も含めたヨーロッパでは「アフリカは別にいいや」という態度でした。

スタンリーはイギリス政府の冷たい反応に納得がいかず、新聞に社説を発表する等、コンゴ獲得キャンペーンを行います。

しかしイギリスの中産階級を中心とした人々は「維持するのに赤字になるような土地取って、どーすんねん」と冷たい反応ばかり。

うぐぐ……と悔しがるスタンリー。どうにかしてコンゴに関心を向けるため、だんだんと言うことも大げさになってきます。

と、そこへ興味を示すある人物が現れます。

「アフリカのど真ん中に植民地? いいねえ、ビッグなドリームだねえ」

ベルギー国王レオポルド二世。

コンゴの悪夢は、この二人の出会いから始まりました……。

植民地がどうしても欲しい!

当時、ベルギー王国というのは、ヨーロッパ諸国の中でも新参者でした。

レオポルド二世は産まれながらの王族ではなく、5歳の時に父が即位して王子になったという経歴の持ち主。

そんなベルギーに植民地があるわけでもありません。

虚栄心の強いレオポルド二世は、喉から手が出るほど植民地が欲しくて欲しくてたまりませんでした。

「ああ〜どっかに植民地ないかな~。植民地さえあればちっぽけな国とか言われてコケにされないだろうにな~。小さな国なんてないんだ、小さな心があるだけさ!」

まぁ、小さな国なんてない、っていう心意気だけはあっぱれですね。

レオポルド二世は「どこかの国が植民地売ってくれないかな~」と妄想にふけるようなことを吹聴しますが、他国はむろんのこと、議会も相手にしません。

そこでこのレオポルド二世が、スタンリーの「やたらと話の盛られたコンゴ」についての著作を読んでしまうわけです。

「そうだ、アフリカに植民地を持とう!」

レオポルド二世は「貧しい黒人に白人が文明の光を示そう! 今こそ考えたいアフリカの未来」みたいな、そんな美辞麗句で飾り立てた国際会議や国際協会を作り、前向きな姿勢を見せます。

周囲は「またあの国王が何か変なことやってる」と冷淡な姿勢を見せていたのですが……。

「コンゴ(の民を)自由(に搾取する)国」

話がこのあたりまでならば、「山師な探検家と、妄想癖の小国王が何かやっていますね、ハイハイ」で、終わりました。

しかし1879年、事態は急変します。

この年、エジプトでウラービー革命が勃発。イギリスが介入します。

アフリカなんていらないと考えていた他のヨーロッパ諸国も、これを見て態度を変えます。

「イギリスばっかり抜け駆けはゆるさん! アフリカを分割するなら俺も混ぜろ!」

1884年、こうしたヨーロッパ列強は「ベルリン会議」で、それぞれのアフリカの分け前を決めました。

現地の人々にとっては迷惑極まりない話でしかありません。

しかしこうなると「アフリカに植民地欲しいんだもん!」とダダをこねるあの男を無視することもできません……レオポルド二世の要望も聞いてやるしかない、と。

「まあ、他の大国にくれてやるくらいなら、ベルギーごときの小国王にやるってのもアリだよなあ」

そんなところで各国の利害は一致し、話はまとまったのです。

しかし、話は少しややこしくなります。

このときコンゴは、ベルギーという国ではなく、レオポルド二世の「私的植民地」になったのです。

ベルギー政府が「そんな陛下の道楽に金なんて出しませんからね、自分で管理してくださいよ」と国王を突き放したのですね。

私的植民地というのはちょっと聞き慣れないかもしれません。

他に例を挙げますと、イギリスやオランダの東インド会社が所有・支配していた植民地がこれに当たります。国家元首ではなく、貿易会社や組織が支配する植民地のことです。

私的植民地は利益優先で、地元民の利益を考慮しない傾向があるため、無責任な管理になりがちでした。

取るものだけ取ってあとは野となれ、山となれ状態です。

こうして苦い顔をするベルギー政府を尻目に、レオポルド二世は「やっと念願の植民地を手に入れたぞ!」と上機嫌。

それでも議会の現実派の予測通り、コンゴは大赤字を出したのでした。

十年後、レオポルド二世は議会にこう言い出します。

「もうイヤだ! 植民地って儲かるんじゃなかったの? 損してばっかりだよ。何とかして手放せない?」

それみたことか、とベルギー政府の面々は苦虫を潰したことでしょう。

しかし、運命の女神、もとい、悪魔は、レオポルド二世に微笑んだのです。

籠の中には大量の赤いゴム、赤い手首

19世紀末、交通革命が起こりました。

自転車、そして自動車です。

ダンロップやミシュランといった大手企業は、車に使うゴムタイヤを売り出します。

ここにゴムバブルが発生し、産地であるコンゴに熱いまなざしが注がれたのでした。

「やった! これぞ一攫千金のチャンス!!」

レオポルド二世は躍り上がり、ゴムをなるべく効率的に収奪し、売りさばいて儲けようという気になったわけです。

いよいよ地獄の門が開きます……。

コンゴ盆地に通じる道や水路は封鎖され、ジャーナリストらは一切立ち入り禁止。さらに内部からも逃亡禁止になりました。

その中では悪夢としか思えない収奪が繰り広げられます。

インフラ整備のために現地住民は徴発され、途中で死のうがお構いなし。住民にはゴム、象牙、材木をおさめるノルマが課せられます。

ノルマを達成できなければカバの革で作った鞭で殴られます。

酷い場合には妻が連れ去られ、夫がノルマを達成するまで柱に縛り付けられ、衰弱するがままに放置される、ということも。

現地の保安員はこう厳命されていました。

「住民鎮圧に撃ってもいいが、貴重な弾丸は無駄にしないように」

そのため「銃弾を使ってきっちり撃った、無駄にはしていない」という証拠提出が求められました。

証拠とは、切り取った体の一部。具体的に言うと手首です。

手首を切られて血が吹き上がる、切り取った手首を籠詰めにして持ち歩く……そんな恐怖の光景が見られました。

きついノルマから逃げ出すため、敢えて手首を差しだす現地民も出てきました。

そんな時、ある司令官はこう言います。

「手首だと、女子供のものが混ざっていてもわからないだろう」

その後、司令官の元には男性の生殖器がびっしりと詰まった籠が届いたとか……。

さすがにキツい。効率を求めるあまり非効率になると言いますか、言葉を失うような所業です。

レオポルド二世は「あんまり酷いことするなよ」と一応は言っていたようです。

しかし、自分の無茶ぶりと貪欲さが刃となって、現地民を苦しめていることは無視を決め込んだわけです。

「闇の奥」の実態がついに明かされた

1902年、ジョゼフ・コンラッドは『闇の奥』という小説を発表しました。

コンゴで船員として働いた作者の体験を反映したものです。

しかし、当時の人々は「想像力が素晴らしいねえ」と思うだけで、まさか現実が反映されているとは考えもしませんでした。

コンゴの悲惨な実態を探ろうとする者はいましたが、周囲は「大げさだなあ」と誰に相手にしない状態が続きます。

現実は、人々の想像力を軽く上回っていたのでした。

これとほぼ同時の1903年、エドマンド・モレルがある新聞を創設しました。

アフリカ貿易をしていた経験から、コンゴ貿易の不自然さに気づき、それを告発しようとしたのです。

中央アフリカのイギリス領事ロジャー・ケースメントもコンゴの実態を調査し、残虐行為は事実だと確信します。

「恥を知れ、懺悔しろ! けしからん制度だ!」

ケースメントは怒りをこめて、コンゴの残虐行為を記録しました。

そして1904年、ことの発端だったスタンリーが死去。

「レオポルド二世も、さすがにそこまで無茶苦茶はしていないだろう」と思い込んでいた世論がにわかに揺らぎ始めます。

この同年、モレルとケースメントは「コンゴ改革協会」を設立しました。そ

して二人の告発によりコンゴでの残酷行為を知ったジャーナリストや作家たちが、非難の声を上げ始めるのです。

アーサー・コナン・ドイル、マーク・トウェインもその中にいました。

レオポルド二世はこれに反論し、ジャーナリズムに対して露骨な圧力をかけ初めます。

記者たちのプライベートスキャンダルを見つけ出しては「コンゴについて書くなら、お前の秘密をバラすぞ」と脅しをかけたのです。

さらにレオポルド二世はロビー活動のために弁護士を雇うのですが、気に入らず解雇しようとします。

と、これがついに虎の尾となりました。

レオポルド二世の画策を知った弁護士側は怒り、彼からの手紙を新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストに売却したのです。

かくしてベルギー国王の恥ずべき残虐行為は世界中に知れ渡り、大炎上したのでした。

棺に唾……国民に憎まれた最低最悪の王

1908年、レオポルド二世はついにコンゴ自由国を手放し、ベルギー議会に高額で売却。

翌年、彼はそのまま崩御しますが、最低最悪の国王として国民に憎まれ、棺には唾が吐きかけられました。

ベルギーにとってもコンゴの維持管理は難題を抱えたものであり、長く禍根を残すことになります。

しかし、ベルギーよりもコンゴの人々にとっての方が、レオポルド二世のもたらした悪影響が大きかったことは言うまでもありません。

外から持ち込まれた天然痘は、過酷な労働で飢えて体力が低下した人々の命を容赦なく奪いました。残酷過ぎる虐待の結果、衰弱死する人もいました。

かくして「コンゴ自由国」の建国前と比べ、その人口は2千万から1千万に半減していたのです。その間、わずか20年。

コンゴ自由国のあまりに悲惨な実態を見ていると、失敗の本質が見えてくる気がします。

これはレオポルド二世個人の邪悪さではなく、複合的要因が絡んでいます。

利益を出すためならば、現地民やそこで働く人をいくらでも搾取して構わないという発想が悲劇を生みました。

アフリカ大陸から植民地は消え去っても、資源を搾取しようとする企業はまだまだあります。

ダイヤモンド、チョコレート、象牙……。

そうした資源収奪への国際的非難は、現在も続いています。

さらに核兵器が開発されると、新たなコンゴ産資源もこの中に加わりました。

ウランです。

1945年8月――広島と長崎に投下した原子爆弾の減量として、コンゴ産のウランが用いられました。

植民地支配による資源の収奪が、世界大戦の犠牲者を膨大なものとし、植民地の民衆のみならず、地球の裏側にまで惨禍をもたらしたのです。

レオポルド二世の旺盛な商魂に、幕臣として欧州を訪れていた渋沢栄一も感銘を受けました。

しかし、それも歯止めがなければ危険です。

世界大戦の背景には、資源の収奪もあったと指摘されています。

際限なき資本主義が加熱する限り、レオポルド二世の亡霊は彷徨い続けるのかもしれません。

https://bushoojapan.com/world/europe/2024/12/16/103686


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パーカー着こなし方のコツは

2024-12-18 | 先住民族関連

 

2024年12月15日 12時00分東洋経済オンライン

先週、さまざまな物議を醸した「おじさんパーカーありなし論争」。スウェットパーカーの日本での流行の変遷を振り返りつつ、"令和のおじさん"こと団塊ジュニア世代がパーカーにこだわる理由、そしておじさん感が出ないパーカーの着こなし方のコツを、ファッションジャーナリストの増田海治郎が解説する。

パーカーをファッションに変えたロッキーパーカーの起源はアラスカ先住民であるイヌイット(エスキモー)の防寒服である。でも今回の議論の的になっているのは、アウターとしてのパーカーではなく、アスレチックウェアに端を発するスウェットパーカーのこと。

スウェットシャツは1920年代にアメリカで生まれ、大学名や背番号をプリントしたものが当時の大学生の間で広まり、1930~1940年代にはヴィンテージの世界で「後付け」と呼ばれるフード付きのスウェットパーカーが誕生した。

スウェットパーカーが日本の若者に認知されたのは、映画「ロッキー」(日本では1977年公開)の影響が大きい。シルヴェスター・スターローン演じるボクサーのロッキー・バルボアがトレーニング中に着ていた霜降りグレーのスウェットパーカーとパンツのセットアップ姿が、当時の日本の若者たちに衝撃を与えたのだ。

1976年に雑誌『ポパイ』が創刊され、アメリカの若者文化の情報が伝えられるようになり、アメ横や渋谷にはアメリカ製の商品を販売するインポートショップもオープン。もちろん当時は限られた都会の大学生や社会人のみが手に入れられたものだったはずだが、スウェットパーカーはアメカジの必須アイテムとしてこの頃から日本でも広まったのである。

https://news.nifty.com/article/magazine/12208-3656749/


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