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【二人の源義経】平泉から北方へ逃げ延びたのはもう一人の義経だったのか??

2024-12-19 | アイヌ民族関連

歴ブロ12/18(水) 7:00

源頼朝の平家打倒に貢献し、屋島や壇ノ浦ではみごとな戦略で敵を倒した源義経。しかし、その後は兄・頼朝と対立し奥州で自刃しました。

優れた軍略を持ちながら非業な死に終わった義経に人々は同情し「判官びいき」という言葉が生まれ、数々の義経伝説も生まれました。

※「判官びいき」:弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしないで同情を寄せてしまうという心理現象。Wikipediaより

今回は義経生存伝説について紹介します。

これらは伝説やトンデモ説にすぎないので、一つのエンタメとして楽しんでいただけたらと思います。

二人の義経伝説

源義経は美男子や醜いと史料によって評価が分かれています。

『源平盛衰記』では色白で容姿端麗、動作優雅と絶賛。『義経記』でも眉目秀麗にして世に類なしと記されています。

『平家物語』では平家の公達と比べればその一番の屑より劣ると記され、チビで出っ歯と書かれています。『幸若舞曲』でもサルの眼で反っ歯に赤ひげと手厳しい評価です。

そんな両極端な評価の中で「源頼朝の弟である義経と別の義経がいるのではないか?」と考察がされるようになりました。

もう一人の義経【山本義経】

山本義経は近江長浜にある山本山城の城主。源義光の流れをくむ源氏の血筋で、本名は源義経と頼朝の弟である義経と同姓同名です。

武勇に優れた人物で平氏打倒を掲げた頼朝に同調し兵を挙げ、平氏方の藤原景家を討ち取るなどの活躍をしています。ちなみに景家は以仁王を討った人物で、結果的に彼の仇を討った事になりました。

源頼朝と義仲が対立すると義仲軍に加わり、宇治川の戦いで本家・義経と刃を交えています。しかし、源義仲が戦いに敗れると、その後の山本義経の動向を記した公式記録はなく、消息不明となっています。

一方で宇治川の戦い以降の源義経の活躍は皆さんの知るところ。しかし、戦闘経験が乏しい源義経がどうして屋島や壇ノ浦の戦い等で活躍できたのでしょうか?

消息不明となった山本と入れ替わるように平家との戦いで活躍した源義経。この活躍の裏には、山本が源義仲の元を離れて何らかの形で源義経の軍勢に加わり軍師的な役割をしていたのではないかという考察があります。

琵琶湖周辺を治め、水上戦経験を持つ山本がサポートをしていたのなら経験不足だった源義経の活躍に合点がいきます。

逃げたのは源義経ではなく山本義経ではないのか?

通説では兄・源頼朝との溝が深まり、奥州の藤原秀衡のもとに身を寄せていた源義経。ところが、秀衡の死後に子である泰衡の裏切りで源義経は平泉の衣川の館で自刃します。

この時、源義経が平泉を脱出し北へ逃れた伝説が存在します。

仮に脱出が成功しても頼朝による追討令が行き届いた後では逃げ切るのも容易ではなく、やはり奥州平泉で自刃したと考えるのが普通でしょう。

しかし、東北や北海道各地に残る多くの義経伝説も無視はできません。

そこで出てくるのが山本義経。

奥州から逃げ出したのが源義経ではなく、山本義経だとしたらどうでしょうか?

北海道でアイヌの神様となった義経

先述した義経が北へ逃れた伝説は【義経北行伝説】と呼ばれ、最終的には大陸に渡りチンギス=ハンとして生き延びていたという結末になっています。

さすがにモンゴルとは思いませんが、北海道に渡って来たという可能性はあるかもしれません。

北海道平取地域のアイヌ伝説で義経の来訪に関する伝承が残っているそうです。
蝦夷地(現在の平取地域)にたどり着いた義経は、アイヌの人たちに造船・機織・農耕・狩猟などの技術を伝えたと言われています。この功績から「ハンガンカムイ※」と呼ばれました。

※カムイとはアイヌ語で一般的に神格化した存在の事を指します。

通説では縁もゆかりもない北海道で源義経の名前が出てくるのがとても不思議です。火のないところに煙はたたないと言いますから、どちらの義経だとしても妄想が膨らみワクワクしますね。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/e3c6e0305b317a10f329cc1e645f28131ab1a7c5

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