先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

発見の瞬間、マチュピチュ発見百年

2011-07-26 | 先住民族関連
ナショナルジオグラフィック ニュース July 25, 2011

 ジャングルの草木に覆われたマチュピチュ遺跡(左)。100年前の1911年7月24日、初めて訪れたアメリカ、イェール大学の考古学者ハイラム・ビンガムが撮影した。右は現在の姿。
 ビンガムの想像とは異なり、マチュピチュを含めペルーで訪れた古代インカ遺跡はどれも隠されておらず、見捨てられてもいなかった。テキサス大学オースティン校のクリストファー・ヒーニー氏は、「尾根の頂部で先住民の家族を見つけ、ビンガムは非常に驚いたようだ」と話す。
 先住民たちはマチュピチュの石の建物を避け、尾根の他の場所で木の小屋を建てて生活していた。3組の家族が暮らしており、1人の少年が残りの山道の案内を買って出た。ついにビンガムは、後に世界的な注目を集める15世紀の都市の全体像を目の当たりにすることになる。
 マチュピチュの大半はジャングルのつる植物や樹木に覆われており、作物を栽培する開墾地が点在していた。「まさしく生活の場で、数百年間続いていた」とヒーニー氏は述べる。
「ビンガムの登場は彼らの生活に大きな変化をもたらしたはずだ。土地の所有者に存在を知られてしまったのだから。“家賃”を徴収されたかどうかはわからないが、1911年に住んでいた3組の家族の内、1915年には2家族が去っていった」。残った1家族は、最終的にペルー政府から遺跡の管理人として雇われたという。
 ヒーニー氏は昨年、『Cradle of Gold: The Story of Hiram Bingham, a Real-Life Indiana Jones, and the Search for Machu Picchu(黄金のゆりかご:マチュピチュを発見した“リアル・インディ・ジョーンズ”ハイラム・ビンガムの生涯)』を出版している。
Photographs by Hiram Bingham, National Geographic (left) and Harvey Lloyd, Getty Images (right)
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=2011072501&expand&source=gnews

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ヤノマミ』が現代人に問いかけるもの ~彼らも私たちも岐路に立たされている

2011-07-25 | 先住民族関連
2011年7月25日(月)

 「ヤノマミ」とは、ヤノマミ族の言葉で「人間」を指す。ブラジルとベネズエラに広がる森に生きる先住民である彼らは、3万人程度いると推定され、200以上の集落に分かれて暮らしている。
 かつてアメリカ大陸には、1000万から5000万人いたとされる先住民だが、コロンブスの渡来以降、虐殺や文明人によって持ち込まれた病原菌により、人口は全盛期の1%以下まで激減。そうした中、ヤノマミは1万年以上に渡る伝統と習俗を保持し続けている。
 本書はドキュメンタリー制作番組のディレクターである著者が2007年11月から2008年12月にかけての4回、150日に渡ってヤノマミの集落で同居しつつ取材した模様を記録したルポルタージュである。
敵意と差別が込められた最大級の蔑称
 著者が滞在したのは、ヤノマミたちが「ワトリキ」、風の地と呼ぶ集落である。1つの家に167人が住んでいた。
 漆黒の夜には50センチメートル以上の巨大なムカデが這い回る。用を足す森の茂みには、咬まれれば2時間で死ぬ毒蛇が潜んでいる。空腹に立ちくらみがする取材の日々。
 労苦を重ねつつ、文明と原始生活の高低差を文化人類学的な知識によってはかろうとする態度をワトリキは拒絶していた。
 ヤノマミとの接触の初日、「腰に手を当てた」男たちと「乳房を露出した」女たちはこういった態度だった。
〈誰も笑ってはいなかった。皆不思議そうな、それでいて隙がなく、とても乾いた表情をしていた〉
 文脈の読み取れない表情をヤノマミはたたえていた。時に「アハフー」と笑う彼らの感情の理解は、著者にとり闇に目を凝らすにも似ていた。
〈剥き出しの人間に慄き、時に共有できるものを見つけて安堵し、彼らの歴史や文化を学び、天と地が一体になった精神世界を知った。それらは、僕たちの心の中にある「何か」を突き動かし、ざわつかせた〉
〈得体の知れない「何か」と、答えの出ない対話〉を続ける旅路と定めた同居生活は、ヤノマミの言葉を覚える努力とともに表面的に順調に進んだ。
 だが、平和な日々は「ナプ」の一言とともに破られた。精霊と交信するシャーマンのひとりがカメラの前に立ち塞がり、何やら喚き始める。後日、男はこう叫んでいたと判明した。
〈「聞いているか! 聞こえているのか! 私の声が聞こえているのか! お前らは敵か? 災いを持つ者なのか? 敵でないとすれば味方か? 味方なら何かいい報せを持ってきたのか? 本当は何なのだ? 味方か敵か? 〈ナプ〉なら殺すべきなのか? この〈ナプ〉をどうするか?」〉
 「ナプ」とは〈「ヤノマミ以外の人間」、あるいは「人間以下の者」を指す〉語とされ、〈敵意と差別が込められた最大級の蔑称〉であった。
 例えば著者の持ってきた土産の配分に抗議した男が睨みつつ「ナプ」と放った時、親しくなり始めたヤノマミも突然よそよそしくなった。人間と人ならざるものとの境界をまざまざと現出させる呪の言葉だった。
 確かにヤノマミからすれば著者らは人間ではなかった。女たちはこう言った。
〈「ナプは森に一人で行けない。迷ってしまう。それでは狩りができない。(弓矢なしで捕まえることのできる)陸ガメだって見つけることができない。ナプは歩くのが遅い。ナプは足が弱い。一人で狩りに行けば、きっと子どものように泣いてしまう」〉
 女たちは30キログラム近い荷物をものともせず、森の中で著者らを置き去りにする勢いで歩いていく。男たちは〈四、五十キロの道を五、六時間〉で踏破した。
出産――善悪を超えた森の摂理
 ヤノマミからすれば、文明人は、まともに生きることができない。生を支える身体を持ち合わせいなかった。つまりは人間ならざるものだった。
 と同時にある少年が著者の肌を撫でて「クレナハ」と言った。ヤノマミの言葉で「同じ」という意味だ。少年は自分と著者の肌が同じ色だと言った。同じ肌を持ちながら人間ではない者、それがナプだった。
 断絶を前に立ちすくみつつ、著者はヤノマミを人間として理解しようとした。〈年に一度、死者を掘り起こして、その骨をバナナと一緒に煮込んで食べる祭り〉についても、〈「死」が身近にあって、いつも「生」を支えていた〉と理解できた。
 しかし、自らが慣れ親しんでいる規範を越えた行為を目の当たりしたとき、ヤノマミの相貌を見失う。
 著者は出産の撮影を願っていた。〈一万年にわたり自らの伝統・風習・文化を守り続けて来た人たちは、どのように子を産み、祝い、家族として迎え、育てていくのか。そこに、ヤノマミが〈ヤノマミ(人間)〉であることの全てがある〉と考えたからだ。
 ヤノマミの女は1人で森に入り、子を産むが、母親は産まれたばかりの子どもをすぐに取り上げず、ただじっと見る。ヤノマミにとり〈産まれたばかりの子どもは人間ではなく精霊〉だからだ。
〈精霊として産まれてきた子どもは、母親に抱き上げられることによって初めて人間となる〉
 母親は〈精霊として産まれた子どもを人間として迎え入れるのか。それとも、精霊のまま天に返すのか〉を決めなくてはならない。
 はにかんだ笑顔を見せていた14歳の少女が身ごもった。彼女は45時間苦しんだ後、森の中で出産した。その健気さに著者は涙した。祝福の言葉をかけようとした時だ。少女はやにわに〈子どもの背中に右足を乗せ、両手で首を絞め始めた〉。
 〈とっさに目を背けた〉著者に、周りを囲む女たち20人から失笑が漏れた。著者は〈僕たちは見なければならない〉と事の成り行きの凝視を自らに命じる。
 精霊のまま天に送られた子どもは、胎盤ごと白蟻の巣に入れられ、すべて食べ尽くされた後、巣ごと焼き払われる。
 著者は問う。精霊と人間を分けるものは何か。女たちは何も語らない。ナプにだけではない、身内にも語らない。
 躊躇と葛藤のない表情で淡々と決断を下し、日常へと戻る彼女たちのたたずまいに著者は苦悶しつつ、こう述べる。
〈善悪を越えた大きな理の中で決断しているようだった。その理が何かと問われれば、やはり、森の摂理と言うしか他に言葉が見つからない〉
 摂理とは、〈森で生まれ、森を食べ、森に食べられる〉ことだ。ただ存在し、変化していくものとして森にいる。存在のサイクルになぜ生きるのか? なぜ死ぬのか? と生死を分別するための理屈を差し挟む必要はないのだろう。
 この摂理は習慣や伝統、人口調整という観点だけでははかれない。文明に開化された暮らしからは見えないことだけは確かだ。
私の精霊がいなくなってしまった!
 しかし、摂理は揺らいでいる。皮肉なことに、ブラジル政府により1991年、開発事業者の不法侵入を防ぐべく、「ヤノマミ族保護区」に制定されたことが、〈先住民の固有の文化を崩壊させる最後の鉄槌〉となりつつある。
 次世代の若者は政府の政策もあって文明に徐々に馴染み始めている。NGO(非政府組織)が次代のリーダー育成のために教育機会も設けている。文明側からすれば、社会に一方的に飲み込まれないための智恵と手段の提供かもしれない。しかし、それは確実にヤノマミの暮らしを変えつつあった。
 ワトリキは文明と接触して30年経ってもなお独自性を保ってきた。NGOのメンバーはその理由について「シャボリ・バタの存在が大きい」という。偉大なシャーマンであり、集落の創始者であるシャボリ・バタ。それはただちに彼の亡き後のワトリキの崩壊を予想させる。
 シャボリ・バタの体調は優れない。ある日の深夜、彼はハンモックから突如起き上がり、天に向かって叫び出した。何と言っているか分からないが、著者はただならぬ気配に震えた。帰国後、記録の翻訳を手に取り驚愕した。彼はこう叫んでいた。
〈「私の精霊がいなくなってしまった! 私の精霊が死んでしまった!」〉
 シャーマンは断食など長く厳しい修行を経て〈天から自分の精霊〉を探し出し、祈祷と治療を行う。ヤノマミの精神的支柱であるシャーマンに精霊の声が届かなくなった。
 富みを貯めず、誇ることもなかったワトリキの住人のうちに「私有の概念」や貨幣の価値を知る者が現れ始めていた。原初の森の暮らしが理想郷でないことも知っている著者は、そうした現象に〈同情することも、励ますこと〉もできず〈力なく笑う〉ほかない。
 そして、すでに文明に慣れ親しんだ私たちは、経済効率やビジネス上の慣行を疑うことを忘れ、それ以外の世界を想像できなくなっている。私たちもまた現状に「力なく笑う」ほかないことに気づく。
 〈たとえ一年後に再訪したとしても、そこは僕たちの知っているワトリキではない〉との確信を抱きつつ、著者はヤノマミのもとを去る。
 ここに来て評者は、滞在し始めて間もない頃に著者の前に現れたシャーマンの「本当は何なのだ? 味方か敵か? 〈ナプ〉なら殺すべきなのか? この〈ナプ〉をどうするか?」の言葉が共同体崩壊の預言の響きを伴っていたことに思い到る。
 そして、ナプという人間ならざる者とは、本当は姿形を持たない、得体の知れない何かを指しているのではないかとも思えて来る。
 文明人は精霊の声を聞けなくなって久しい。善悪や規範はあっても真理だけがない社会に生きている。
 現今、私たちの慣れ親しんでいるものが、私たちの暮らしを蝕みつつある。文明を維持する利器が私たちの暮らしを脅かしている。何事もなかったかのようにこれまで通りの仕事、暮らしを続ければ、怯えは立ち去るのか。
 敵なのか味方なのか。それとも殺すべきなのか? どうするか? ナプの側にいる私たち自身が岐路に立たされている。
(文/尹雄大、企画・編集/連結社)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20110722/221625/?ST=world&rt=nocnt

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

急接近:藤村靖之さん 節電を単なるブームにしないためには?

2011-07-24 | 先住民族関連
毎日新聞 2011年7月23日 東京朝刊

 <KEY PERSON INTERVIEW>
 ◇経済成長以外の幸せを--非電化工房代表・藤村靖之さん(66)
 発明家で非電化工房代表の藤村靖之さんは長年にわたり「電気に頼りすぎない生活」を提唱してきた。しかし、今の電力供給量不足に対応する「節電」の大合唱には、「このままでは単なる“節電ブーム”に終わってしまう」と危機感を募らせている。【聞き手・鈴木敬吾】
 --東京電力福島第1原発事故をどう受け止めましたか。
 ◆ ずっと健康と環境をテーマに活動してきたので、原子力発電には当初から反対でした。40年以上、反原発の活動を続けてきて、事故を食い止められなかったことに、心身ともに打ちのめされてしまい、アメリカ先住民族の長老が、征服者の白人のやり方について語ったという言葉が思い浮かびました。
 「人間が最後の木を切ったとき、最後の川を汚してしまったとき、そして最後の魚を焼いてしまったとき、やっとそのことに気づくだろう、お金は食べられないということを」
 もちろん、私たちには木も川も魚も残されてはいますが、気持ちとしては、「最後」に等しかった。いや、対応次第では、本当に「最後」になってしまうかもしれないと思っています。
 --「非電化」への取り組みを教えてください。
 ◆ 元々企業の研究所で、コージェネレーション(熱電併給)やガスヒートポンプの研究をしていました。それなりの成果もあげ、賞もいただきましたが、83年、結婚して4年後に授かった長男にぜんそくが出てしまったことが転機でした。調べると、日本の子どもにはアレルギーの発症が非常に高かった。なぜだろうと、さらに調べてたどり着いたのが、環境です。高度成長が環境と子どもを犠牲にして成し遂げられたことに気づき、“企業戦士”だった私は猛反省しました。会社を辞め、子どもの安全と環境をテーマにした発明、事業化に取り組みました。
 21世紀に入り、「グローバリズム」と「電脳化」がセットになって、世界を席巻するようになりました。アフリカやモンゴルのような国の人たちが「私たちは不幸だ」と言い始めるようになった。理由は「経済成長がないから」です。だから貧しいのだと。先進国は、果てしのない経済競争の末に何が待っているのかを承知していながら、経済成長を“指導”しています。そのアンチテーゼとして、提唱したのが「非電化」です。冷蔵庫やテレビなどが豊かさの象徴のアフリカやモンゴルの人に、電気エネルギーに依存しなくても幸せになる方法、別の選択肢を提示したかったのです。
 --具体的には。
 ◆ モンゴルでは羊の肉を貯蔵するために、放射冷却を利用した屋外設置型の非電化冷蔵庫を開発し、ナイジェリアでは、政府の要請を受けて、現地のオレンジをジュースに加工する非電化工場を提案しました。
 しかし、電化製品の恩恵を最も受けている日本人にこそ必要な方法だと気付き、塩化カルシウムを含ませたろ紙を利用した除湿機や、掃除機、もみすり機、懐中電灯、ひげそり機などの非電化製品を開発し、システムを提案しています。
 --節電の動きは「非電化」の考えにつながりませんか。
 ◆ 電気エネルギーに過度に依存した社会への疑問、反省が生まれるのは基本的にはいいことだと考えていましたが、日がたつにつれて、単なる節電ブームになってしまったと感じています。エネルギー構造のあり方を、社会のあり方を、どう転換していくかという議論は消え、夏をどう乗り切るかの低次元の話にすり替わってしまった。
 夏を乗り切った後で、「ああ、夏はつらかった。やはり電気は大切。電気がないと不幸せだ」と多くの人が感じるでしょう。それでいいのか、です。
 アインシュタインは「ある問題を引き起こしたのと同じマインドセット(心の枠組み)のままで、その問題を解決することはできない」と言っていたそうです。現在の電力消費量が不可欠だと前提にしている限り、根本の問題は解決しません。
 ◇電気を使わずに楽しく
 --しかし電力消費量を落とせば、経済成長は止まります。
 ◆ 経済成長がなければ、GDP(国内総生産)が大きくなければ、本当に幸せでないのでしょうか? 支出が少なければ、収入も少なくていいのです。国が考えるべきは、個々の収入の大きさではなく、全体の雇用でしょう。
 でも、それを言い始めると社会システムの議論になってしまう。「非電化」が提唱するのは社会システムの変革ではなく、ライフスタイルの提案です。
 「非電化」は「否電化」ではありません。電気を否定するのではなく、電気を使うのがあまりに当たり前になりすぎていることを、あえて電気を使わずに楽しくやってみようという呼びかけです。例えば、ほうきや圧力鍋など、昔からあるものを見直してみればいいでしょう。もちろん、電化製品の快適便利さには及びもつきませんし、手足や技を使うことも多くなるでしょう。でも、動くことの楽しさもあるでしょうし、健康をもたらすかもしれません。近所の人との共同作業が増えて、ぬくもりのある人間関係が築けるかもしれません。貧しい昔に戻るのではなく、新しい豊かさを実現するための選択肢の一つとして考えてほしいのです。
==============
 ■ことば
 ◇非電化工房
 栃木県那須町にアトリエがあり、生活機器のほか、もみ殻を断熱材に使い、エアコン不要というもみ殻ハウス、バイオトイレなど展示。予約制の見学会を開いている。那須の子どもたちを放射能汚染から守る活動にも取り組んでいる。情報はホームページ(「非電化工房」で検索)で。
==============
 ■人物略歴
 ◇ふじむら・やすゆき
 大阪大大学院博士課程修了。工学博士。コマツ熱工学研究室長、カンキョー社長などを経て、非電化工房代表、日本大工学部客員教授。科学技術庁長官賞、発明功労賞のほか、今年度の大同生命地域研究特別賞を受賞。
http://mainichi.jp/select/opinion/approach/news/20110723ddm004070138000c.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オオウバユリの大群落見頃 千歳の国指定史跡・キウス周堤墓群内

2011-07-23 | アイヌ民族関連
(苫小牧民報 2011年 7/22)

 千歳市中央の国指定史跡・キウス周堤墓群内に自生するオオウバユリの大群落が見頃を迎え、墓内は独特の甘い香りに包まれている。
 オオウバユリは、茎の上部に横向きの緑白色の花をつけるユリ科の多年草。道内に広く自生しており、アイヌ民族が「トゥレップ」と呼んで食料として活用した。
 キウス周堤墓群は約3000年前の縄文時代後期に作られた墓所で、墓を掘った土が土手状に積み上げられているのが特徴。大きなもので直径75メートルなど8基あり、地上から見られる国内最大の墓として1979年に約5万ヘクタールが国指定史跡に指定されている。
 オオウバユリは、墓内の草刈りで雑木がなくなったことから一気に繁殖。今では墓内を埋め尽くすほどになっている。
 暑かった昨年は7月中旬には開花したが、気温の上がらない今年は1週間以上遅れて見頃を迎えた。
http://www.tomamin.co.jp/2011c/c11072201.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【白老】元気まち港まつり、あす開幕

2011-07-23 | アイヌ民族関連
(苫小牧民報 2011年 7/22)

 2011元気まちしらおい港まつり(同実行委員会主催、苫小牧民報社後援)が23、24の両日、白老港特設会場で開かれる。約1000発の打ち上げ花火大会や海上自衛隊艦艇の公開、白老牛や毛ガニといった地場産品の格安販売など、注目の催しが目白押しだ。
 港まつりは昨年、口蹄(こうてい)疫問題の影響で中止となったため、今回が2年ぶりの開催。「食」「環境・防災」を掲げ、出店、ステージイベント、体験行事で構成している。
 23日は午後5時から陸上自衛隊第1特科団音楽隊の演奏で開幕。オープニングセレモニーの後、午後6時30分から餅まき大会。花火大会は午後8時に始まる。
 24日は午前9時~10時に、活毛ガニやホッキ貝、サラ貝などを格安で販売する「白老港朝市」を開催。新イベントの白老牛をその場で食べられるバーベキューコーナーも終日設けられる予定。
 同日の午前9時30分と午後0時30分からは、室蘭開建の業務艇「はやぶさ」で港内を巡る「白老港ポートウオッチング」の参加受け付け。午前10時~正午、午後1時~3時には海上自衛隊のミサイル艇「わかたか」を一般公開する。
 ステージではアイヌ古式舞踊や虎杖浜越後踊り、アニメのキャラクターショーなどが繰り広げられ、午後4時20分からのしらおい元気まち音頭踊りパレード、午後5時からの餅まきでフィナーレを飾る。
http://www.tomamin.co.jp/2011s/s11072201.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊達市開拓記念館にオオウバユリ咲く、市民ら目奪わる

2011-07-23 | アイヌ民族関連
【室蘭民報 2011年7月22日(金)朝刊】

 伊達市開拓記念館の野草園では、ユリ科の多年草・オオウバユリの群生が咲き誇り、園内を散策中の市民が花の迫力に目を奪われている。
 アイヌ語で「トゥレプ」の名を持つ植物で、根から採れるデンプンは薬や貴重な保存食として重宝された。種から芽を出し咲くまでに10年近くかかるが、一度咲くと数日で散り、枯れてしまうはかない一生を送る。
 園内では1メートル前後から、大人の背丈を超える高さに成長したものもあり、最頂部から茎を中心に乳白色の花を20個ほど付け、ひときわ存在感を放っている。
(菅原啓)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2011/07/22/20110722m_07.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白老で「グルメ&マルシェ」、ポロトに特産品大集合

2011-07-22 | アイヌ民族関連
【室蘭民報 2011年7月21日(木)朝刊】

 東日本大震災による白老町内経済活動停滞の打開を図る商業・観光活性化緊急対策事業の第3弾「グルメ&マルシェ」が8月6、7の両日、白老・ポロトコタン入り口特設会場で開かれる。白老牛、しらおいシーフードカレー、白老バーガー&ベーグル、アイヌ伝統食、野菜や果物などのトラック市など地元の味覚が大集合する。
 主催は同事業実行委員会。約300人が飲食店街を飲み歩いた「はしご酒」、仙台の特産品を景品にしたスタンプラリーに続く活性化緊急対策事業。2日間で来場6千人、経済効果1千万円を期待する。
 出店は15店ほど。白老牛は銘柄推進協議会がサイコロステーキやハンバーグを提供。シーフードカレーは白老の食材をルーに絡めたご当地カレーほか、札幌のシェフ2人がゲスト出演し、自慢のカレーを披露する。
 白老バーガー&ベーグル研究会は、販売20万個達成を記念して抽選会を両日実施。特等は「白老牛・虎杖浜たらこ・温泉入浴券」の白老満喫セット。このほか食事券や白老バーガー割引券など。
 萩野商工振興会による「トラック市」はメロン、キュウリ、ナス、トマト、キャベツ、コマツナ、鉢花、園芸用土などが並ぶ。このほかフロンティア、まいこのマドレーヌ、若草本舗が和洋菓子を提供。シイタケ食べ放題の企画も。
 子どもたちは、景品名がカプセルの中に入っている「ガチャガチャ」、空気の滑り台などで楽しめそうだ。
 100円券が11枚つづりになっている前売り券(千円)は、役場産業経済課で扱っている。問い合わせは同課、電話82局6491番。
(富士雄志)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2011/07/21/20110721m_08.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先住民族が巨大ミル貝で大儲け

2011-07-21 | 先住民族関連
(サンケイビズ 2011.7.21 05:00)

 米ワシントン州のピュージェット湾のおよそ270メートル沖に停泊するアルミボート「イチバン」は、地元警察組織の視察を受けていた。クレイグ・パーカー船長は、視察管が調査書類に記入する様をじっと見つめる。視察はイチバンの安全性を確認し、水中12~15メートルで作業する乗組員の熟練度を審査するためのものだ。
 調査を終えて視察官が立ち去るとパーカー船長は「みんなよくやった。コニーもよく頑張った」と大声でクルーをねぎらった。
 コニー・ホワイトナーさんは、潜水漁師として長年活躍している。彼女を含め、ボートの乗組員は全員スクォクソン族だ。スクォクソン族は、ピュージェット湾沿岸に住む1000人ほどの先住民族である。どんなに経験のある潜水漁師でも、視察官の許可が下りなければ、この仕事を続けることはできない。
 イチバンは巨大なミル貝を専門に漁を行っている。インディアン種族法によると、15分以内に約23キログラム相当の箱を貝でいっぱいにできなければ潜水漁師とは認められない。このテストに合格したホワイトナーさんは、1日の売り上げ約2万5000ドル(約198万円)の7等分を1日当たりの報酬として得る。
 ◆アジアで人気の食材
 成長したミル貝の重量は平均1.4キログラム。市場価格は日々変動し、この40年で急激に値上がりしている。
 この春、ワシントン州オリンピアでは1ポンド(454グラム)当たり10ドルで取引された。さらに空輸され、18時間後に中国深センの市場で取引される頃には、その価格が4倍に跳ね上がる。中国でミル貝は象抜蚌(シャンバーバン)と呼ばれ、人気の高級食材となっている。
 歯応えのある食感のミル貝は、中国では鍋の食材として多く用いられ、日本では刺し身で食される。また、その男性器に通じる見た目から、男性の精力促進にも良いと評判が広がった。
 ミル貝を売り続けて30年のアメリカ人、ケイシー・バッカー氏は「アジアにおけるミル貝の需要はとどまるところを知らない」と述べ、1980年代初めから約10年間はまるでゴールドラッシュのような勢いだったと振り返る。当時は中国との取引に規制がなく、一部の漁師との間で無秩序に売買されていたという。パーカー船長の父親も、かつては米ボーイングでエンジニアとして働くかたわら、イチバンで漁をして副収入を得ていた。
 ◆漁業権めぐり論争も
 パーカー船長は年間売上金額について具体的に語らなかったものの、600万~800万ドルを80人で分配したとして、潜水漁師の年収は7万5000~10万ドルになるだろう。
 潜水漁に携わっていない先住民族の年収は貧困ライン近くをさまよっている。15種族、各種族およそ1000人規模の先住民族社会で、違いは潜水漁に従事しているか否か。こうした状況で必然的にミル貝の漁業権をめぐる論争がわき起こりつつある。
 この海域でミル貝が発見されるようになったのは60年頃。米海軍がピュージェット湾に散乱する魚雷の撤去作業をしていたのがきっかけだ。
 ミル貝の生存期間は約100年。現在確認されている最長寿命は146年である。海底の地中約1メートルに潜っており、水中からは水管の先がかろうじて見えている程度だ。
 ワシントン州天然資源省は70年、1ポンド当たり10セントで販売する権利を地元の缶詰工場に与えた。当時はミル貝の市場が確立されていなかったが、10年後、中国を中心にシェアの95%をアジア地域が占めるようになると、単価は10倍に高騰した。ミル貝漁は一大ビジネスと化し、ミル貝は「ピュージェット・サウンド・ゴールド(ピュージェット湾の金)」と呼ばれるようになった。
 しかし、「実際はつまらない仕事」だとパーカー船長は言う。ただし、「春の時期はミル貝をサメに狙われることもあるし、ダイビング器具がクジラにひっかかったりしたらなすすべはない」と語る。
 ミル貝は水管の質によって4段階のグレードに分けられる。最上級とされるのは、バニラ色で無傷のもの。生気が感じられないようなものは、最下級に分類される。
 ◆1日最高4000ドル
 1日に450キログラム以上捕獲するダイバーもおり、収入に換算すると最高4000ドルにもなる。しかし、「すべては水中のコンディション次第」とニスクワリ族のビクター・シモンズ船長はこの仕事の不安定さを指摘する。シモンズ船長の3人娘も潜水漁師だ。
 現在ミル貝漁に従事しているのは15種族の先住民族に限られている。市場価格を適正にコントロールしつつ、将来的に組織を外部に広げるのであれば、米国内の需要拡大につながる可能性もある。
 「アメリカでミル貝を入手するのは難しい」。こう語るのはニューヨークの「15イースト」と「トクヴィル」で総料理長を務めるマルコ・モレイラ氏。「4つの業者に注文しても、2社から入荷できれば運がいい」というほど貴重な食材だ。
 モレイラ氏の仕入れ価格はだいたい1ポンド当たり30~40ドル。深センでの取引額と変わらないが、それだけの価値があると納得している。
 モレイラ氏はミル貝について「臭みがまったくなく、鮮やかで新鮮な海水の香りがする」と表現し、「非常に繊細な食材なので、生のまま少しのしょうゆとオリーブオイルにわさびを添えて提供する」とイメージを膨らませた。「ミル貝は歯応えが良く、おいしい。私の大好物だ」と絶賛した。(ブルームバーグ Manny Howard)
http://www.sankeibiz.jp/macro/news/110721/mcb1107210506031-n1.htm

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【厚真】注目集める「厚真遺跡」 アイヌ文化紐解くヒントに

2011-07-21 | アイヌ民族関連
(苫小牧民報 2011年 7/19)

 発掘調査が進む厚真町で貴重な資料の発見が続き、町内外から関心を集めている。特に1000年前から350年前の出土品がアイヌ文化の歴史を探る上で貴重とされ、8月には教員免許更新講習が「アイヌ史」をテーマに現地で開かれることになった。また、以前出土したつぼが常滑産で、道内初となることが今年3月に判明。世界遺産に先日登録された奥州平泉の北方交易を示唆する資料というだけでなく、擦文文化からアイヌ文化の変遷期の歴史の空白を埋めることへの期待も寄せられている。
 厚真町の遺跡発掘調査の成果展が19日まで町内の青少年センターで開かれ、会場に置かれた芳名帳には180人近くが記帳。安平町や苫小牧市、札幌市、岩見沢市などの町外者も多く訪れた。
 町教育委員会によると、学芸員が依頼を受けた講演や研究者などの現地視察の受け入れや主催の講座企画などに、ここ数年は年間延べ1000人前後が参加している。
 今年に入り、メディアに取り上げられるケースも増えた。同遺跡の発掘を基に研究成果をまとめた書籍出版などが続き、地元の学芸員がラジオに出演して同町の遺跡を紹介した。8月の教員免許更新講習でアイヌ史をテーマにした講座の会場に厚真町が選ばれ、受講者50人が訪れる予定にもなっている。
 今年4月1日現在で町内の遺跡数は133カ所に上る。今年も厚幌ダム建設事業に関連してヲチャラセナイ遺跡、オニキシベ5遺跡、ヲイカルマイ遺跡、朝日遺跡の発掘調査が進む。
 これまでの出土品を見ると、道内、国内で「初めて」「最古」などの言葉も並ぶ。学芸員の乾哲也さん(38)は「道央圏のアイヌ文化の起源に迫ることができる貴重な資料が出土している」と説明する。「交易の結節点として人の行き来が活発だった」とも指摘し、厚真川流域沿いに海岸から山間部まで点在する集落の形跡も見つかっている。
 常滑産のつぼについても、平泉とのつながりだけでなく、擦文文化の終わる時期との重なりから、アイヌ文化成立の過程を探る資料的な価値も強調する。乾さんは「アイヌ文化を伝える資料がこれだけ出土している地域は珍しい。歴史を学び、考えてもらう素材がたくさんあることを広く知ってもらいたい」と力を込めた。
http://www.tomamin.co.jp/2011s/s11072002.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽器演奏や古式舞踊披露 新ひだか

2011-07-21 | アイヌ民族関連
(北海道新聞 07/20 15:00)

【新ひだか】道アイヌ協会新ひだか支部(大川勝支部長)は16日夜、アイヌ文化普及啓発事業「ウトゥラ カネ(共に歩む)」を静内真歌の伝統的家屋チセで開き、楽器演奏や古式舞踊を披露した。
 同支部が目指している、国の伝統的生活空間「イオル」再生事業の誘致に向けた取り組みの一つ。昨年に続いて2回目で、町などが共催した。
 大川支部長はあいさつで「町民のみなさんにアイヌ文化に触れてもらい、協力して将来にアイヌ文化を残していきたい」と述べた。
 トンコリとムックリの演奏に続き、空を舞うアマツバメの姿を表現した踊り、親子ネズミがわなをかわして餌を手に入れるユーモラスな踊り、儀式的な輪踊りなどが披露され、来場者の目を引きつけていた。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/chiiki/306605.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真っ白のキウイ、NZキウイ保護の希望の星に

2011-07-19 | 先住民族関連
afpbb.com 2011年07月18日 14:55 

発信地:マウントブルース/ニュージーランド
【7月18日 AFP】ニュージーランド北島のプカハ(Pukaha)自然保護区には、息をひそめて白いキウイの登場を待ちわびる数百人の人々の姿があった。先住民族のマオリ(Maori)人たちにとって、この鳥は神聖な存在でもある。
 白色のキウイが登場すると、群衆からは一斉にため息がこぼれた。そのため息は、マオリ人たちのような神聖な意味合いではなく、その鳥の愛らしさがもたらしたもののようだ。
 そのオスのキウイは、白いテニスボールに、細長いくちばしと3本の指を持つがっしりとした足がついた姿。名前は「マヌクラ(Manukura)」。マオリ語で「主たる地位の」という意味の言葉からとられた。5月1日にウェリントン(Wellington)北部の同保護区で誕生した、飼育下で生まれた初めての白色のキウイだ。
 ニュージーランドを象徴する動物であるキウイは、オコジョやネズミ、フェレットなど外来の捕食動物の脅威にさらされ、絶滅が危ぶまれている。だが、プカハ保護区のキャシー・ホーカモー(Kathy Houkamau)氏によると、白いキウイの誕生で、キウイ保護に対する関心がこれまでになかったほどに高まっているという。マヌクラはキウイ保護活動のシンボルになりつつある。
「マヌクラは、キウイ全体のPR役として活躍している。白いキウイはとても珍しく、多くの関心が集まっている。多くの人がプカハやキウイ全体に関心を持ち始めている」(キャシー・ホーカモー氏)
■国際的な注目集める
 通常、キウイは茶色の羽毛を持つが、マヌクラはもともと羽毛に白い斑点を持った系統から生まれた。「アルビノ(先天性の色素欠乏)ではない。持っていた劣性遺伝子で、全身が白になった」と、保護区警備員のトム・スタッドホルム(Tom Studholme)氏は語る。「(全身白のキウイが)次にいつ生まれるのかは分からない。来年も白いキウイが生まれるかもしれないし、今後50年、100年生まれないかもしれない」
 スタッドホルム氏によると、マヌクラの誕生はマオリ人たちにとって祝うべき出来事だった。マオリ人たちは、白いキウイを「新たな始まり」や「再生」のしるしと考えている。「地元部族にとって、文化的に非常に大きな意味がある」と、スタッドホルム氏は説明する。部族の長老たちは、マヌクラが生まれてすぐに祭礼を行って祝福したという。
 長老たちの祭礼は科学的なキウイの繁殖プログラムを行なっているプカハ保護区にも祝福をもたらしたようだ。2005~10年までのキウイのヒナの誕生数は年平均2羽だったが、ことしはすでに14羽も誕生している。
 ホーカモー氏によると、過去2か月でマヌクラを見ることのできる日の来場者数は、普段の日の倍になった。「白いヒナが生まれたことで、ここは何もかもが変わった。突然、国際的な注目を集め、みんながマヌクラを見たいと思った」と、ホーカモー氏は述べ、「わたしは世界をマヌクラ以前とマヌクラ以後というふうに考えるようになっている」と語った。(c)AFP/Erica Berenstein
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2813884/7501996?utm_source=afpbb&utm_medium=topics&utm_campaign=txt_topics

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【白老】奥山市長ら仙台交流団が歴史姉妹都市30周年で来町

2011-07-19 | アイヌ民族関連
(苫小牧民報 2011年 7/18)

 白老町との歴史姉妹都市提携30周年を記念し、結成された仙台市の市長、市議会議長らの交流団が16日に来町。藩士の墓や仙台藩白老元陣屋資料館など、同市ゆかりの地を訪ねたほか、震災復興を願う数々のセレモニーも行われ、節目の交流は「祈り」と「感謝」に包まれた。
 両市の姉妹都市関係は江戸時代、ロシアの南下政策に脅威を感じた幕府が東北諸藩に蝦夷地警備を命令し、このうち白老から道東、国後、択捉を管轄した仙台藩が、活動拠点となる「元陣屋」を1856年に築いたのがきっかけ。姉妹都市提携後はスポーツ少年団交流などが行われている。
 今回、白老を訪れたのは奥山恵美子市長、野田譲市議会議長、青沼一民教育長ら5人。一行は最初に、白老で命を落とした仙台藩関係者が眠る「藩士墓地」(緑町)で供養祭を行い、仙台藩白老元陣屋資料館(陣屋町)では、藩士らが仙台から持ち込んだアカマツのうち、町民グループの保存運動によって唯一現存する木の子孫となる苗木を植樹。奥山市長は「仙台では沿岸のクロマツ並木が津波でほぼ壊滅したが、必ず復活させたいと思っている。(姉妹都市で)こうした活動ができるのは、とてもうれしい」と語った。
 続いて訪れたアイヌ民族博物館(若草町)では、東日本大震災で被災した仙台市のため、同館が特別に用意した儀式「復興のカムイノミ」を挙行。お神酒には宮城県の地酒を使用し、アイヌ民族が信仰する自然界の神々へ、ふたたび震災が起こらないよう祈りをささげた。
 飴谷長蔵町長は「今回の祈りに込めた思いはわれわれも同じ。今後も子供たちと同様、白老に何度も足を運んでいただければ」と交流の深化に期待を寄せ、奥山市長は「町民の方々の温かい思いを、被災された市民の方々にお届けしたい」と感謝の気持ちを示していた。
http://www.tomamin.co.jp/2011s/s11071801.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「北海道命名之地」新たな記念碑

2011-07-18 | アイヌ民族関連
(読売新聞 2011年7月18日 )

 北海道の地名発祥の地とされる天塩川流域の音威子府村筬島(おさしま)地区の河川敷で17日、「北海道命名之地」を記念した碑の除幕式が行われた。
 村によると、探検家松浦武四郎(1818~88年)が1857年、天塩川流域を調査した際に筬島地区のアイヌ民族のエカシ(長老)から、「この国生まれし者」を「カイ」と呼ぶと教わった。これを受け、松浦の提案で「北海道」の名が付いたとされる。
 1995年に村の有志が「命名之地」の記念碑を建てたが老朽化が進んでいた。新しい記念碑は中川町の北海道大研究林のトドマツを使用し、高橋はるみ・北海道知事が揮毫(きごう)した。
 除幕式で佐近勝村長は「松浦武四郎の偉業を後世に伝える絶好の機会になる」とあいさつした。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/hokkaido/news/20110718-OYT8T00002.htm

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白老に仙台市長が来町し姉妹都市の絆確認、発展誓う

2011-07-18 | アイヌ民族関連
【室蘭民報 2011年7月17日(日)朝刊】

 白老の歴史姉妹都市・仙台市の奥山恵美子市長が16日来町し、この日から始まった仙台藩白老元陣屋資料館特別展やアイヌ民族博物館を視察した。白老町側からは震災義援金を贈呈。ポロト湖畔のチセ(アイヌの伝統家屋)内で関係者はがっちりと握手を交わし、姉妹都市締結30年の節目を確認、さらなる絆の発展を誓い合った。
 奥山市長ほか、野田譲市議会議長、青沼一民教育長らが来町。同博物館のチセで、白老町災害支援町民会議が250万円、白老牛肉まつり実行委員会が62万円、白老町の姉妹都市・カナダケネル市は町姉妹都市協会を通じて1万9727ドルを奥山市長に贈った。
 奥山市長は「震災直後から白老町の皆さまにはすぐ駆け付けてくださり、たくさんのご支援をいただき、仙台からのさまざまなお願いにしっかりと応えていただいた。白老の皆さまの仙台とのかかわりを大事に思ってくださる気持ちに心から感謝をしながら、きょう体験したことを仙台に持ち帰って105万市民にしっかりと報告したい」と感謝の言葉を述べた。
 チセ内では仙台復興を祈願した儀式や古式舞踊などを鑑賞、博物館の展示物を見学した。
 奥山市長が仙台藩白老元陣屋資料館で見学した特別展は、仙台市との歴史姉妹都市提携30周年記念事業と位置付け、藩士たちの苦難の津軽海峡越えをテーマに、海路図や絵馬、護符、日記など約40点を展示。初日のこの日は同市の郷土史家、佐藤宏一さん(79)が「62万石、外様大名の矜持(きんじ)」をテーマに講演した。8月21日までのロングラン企画。
(富士雄志)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2011/07/17/20110717m_08.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

登別・銀のしずく記念館で20日から金成マツ企画展

2011-07-17 | アイヌ民族関連
【室蘭民報 2011年7月16日(土)朝刊】

 登別市登別本町の「知里幸恵 銀のしずく記念館」(横山むつみ館長)主催の第1回企画展「アイヌ民族の心の記憶 ユカラ筆録者金成マツ展」が20日から同館で始まる。アイヌ文化伝承に心血を注いだマツの功績や人となりが浮かび上がる。
 知里幸恵(1903~22年)の育ての親として知られるマツ(1875~1961年)の没後50年に合わせ、多くの市民にアイヌ文化への理解を深めてもらおうと企画した。「NPO法人知里森舎」(横山理事長)と「知里幸恵 銀のしずく記念友の会」が中心となり準備を進めている。
 企画展では生い立ちや婦人伝道師としての活動内容などの写真や書籍、賞状など約30点を紹介する。
 過去に1度ほどしかお披露目されていないという「明治~大正時代の幌別町周辺住宅街分布図」や、旧幌別教会で掲げられていた聖画など貴重な資料が含まれている。マツがにこやかに笑みを浮かべる写真もある。解説を付け展示内容を分かりやすくする工夫を施した。
 15日は資料の最終の点検やセッティングを実施。知里森舎メンバーと横山館長が入念に一点一点を確認していた。
 横山館長は「20日開始ですが見ることができます。多くの人に素晴らしさを知ってもらいたい」と来場に期待している。同館では今後、幸恵の父・高吉、弟・真志保の没後50年企画を実施する予定だ。
 金成マツ(アイヌ名・イメカヌ)は幸恵の伯母。晩年はアイヌ民族の英雄叙事詩「ユカラ」をローマ字表記で大量に書き残し、「アイヌ叙事詩ユーカラ集」として刊行され、昭和31年に無形文化財に指定された。紫綬褒章受章、登別名誉町民表彰などを受けている。同36年4月6日、85歳で生涯を終えた。
(粟田純樹)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2011/07/16/20110716m_05.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする