はがき随筆・鹿児島

はがき随筆ブログにようこそ!毎日新聞西部本社の各地方版に毎朝掲載される
「はがき随筆」は252文字のミニエッセイです。

衣服の整理

2020-06-09 19:33:20 | はがき随筆
 幼児の頃、赤痢にかかり、大きな幌車に乗せられ母が付き添い、山奥の病舎に隔離された。保健所の指示で兄姉たちは学校を早退し、家は噴霧消毒。私は事の重大さが理解できず、母を独り占めできうれしかった。
 水は共同井戸の時代、母は患者を出した罪悪感と屈辱感がずっと残り、それ以来、仏壇に供えられた果物は予防のため私たちの口に入ることはなかった。
 コロナ感染者が出ると、どこのだれかと無神経なうわさが立つ。感染を抑えるためにはある程度の個人情報もやむを得ないが、広がるうわさに、当時の母の想いと重なり恐怖を感じた。
 宮崎市 川畑昭子(76) 2020/6/6 毎日新聞鹿児島版掲載

おちついて

2020-06-09 19:26:07 | はがき随筆
 朝9時、燃えるごみ出しに外へ出る。こないだ除草して乾いた草を拾い集め始めると「あ、台所の屑を忘れていた」と取りに戻る。と、きれいに取り去ってある。夕方来た娘が持ち帰っていた。ありがとう。だんだん生活でお世話になることが多くなった。自分で出来ることは自分でしようと思っているけれど、このところぼやぼやしているので。このところ太陽を浴びに午前中約1時間、午後2時間くらい門の辺りへ出る。輝く楠の山、レモンの花の香り、羽衣ジャスミンの香りと、世はまさに馥郁たる光景。はやくコロナ終息して……。
 鹿児島市 東郷久子(85) 2020/6/6 毎日新聞鹿児島版掲載

閉校

2020-06-09 19:19:12 | はがき随筆
 この春、父が初めて校長として赴任した椎葉村立小崎小学校が統合されて閉校になった。
 最後の1年を記録しておこうと春の入学式、秋の運動会に出向き、7人の子供と集落の人たちを写真に撮った。
 私も妹もここで父から卒業証書をもらった。3月に予定されていた閉校式に2人で出席を申し込んだが、コロナ騒ぎで自粛を余儀なくされた。式は関係者だけで行われたと後に聞いた。
 学校のウェブを開いた。閉校のお知らせの下には、子どもたちの作った「ありがとう小崎小学校」の歌。クリックすると子供たちの歌声が流れた。
 宮崎県串間市 岩下龍吉(68) 2020/6/6 毎日新聞鹿児島版掲載

ストレス

2020-06-09 19:12:21 | はがき随筆
 「俺はストレスが全くない」「側のもんがストレスたい」「そぎゃんかい」。能天気である。
B型人間はいい気なものだ。時々ボケたふりか本気か怪しい時がある。負けるものかと目を光らせる。趣味の会を辞め、これからは自由気ままにやるとのたまう。ま、いいでしょう。私は私。夫婦円満の秘訣になれば幸いと思う事にした。洗濯、夕方の戸締り、風呂の栓抜きはお願い。昼は同じものばかり食べてはいけません。夜はちゃんと布団で寝て下さい。寝ないと布団を始末しますと言ったが効き目なし。さてどうするか?
 熊本県八代市 鍬本恵子(74) 2020/6/6 毎日新聞鹿児島版掲載

筍の生命力

2020-06-09 19:04:24 | はがき随筆
 今年も友人から掘りたての筍をいただき、料理をしていた時のこと。ふと昔の出来事を思い出し笑いがこみ上げた。20代で結婚し、田舎住まいだった借家。少し離れた所に竹藪があり、家主さんの所有で筍もよく伸び、いただくこともあった。ある日、畳が少し上がっているような感じがしたが、主人と「何だろうね」とそのままに。1週間位後、いよいよ変だ。主人が畳をめくると見事な筍が。こんな離れた所まで、驚きと笑いと。掘り出した薄白い筍、どう処分したか思い出せないが閉じこもりの日々の今、筍の生命力に感激し、あやかりたいものだ。
 熊本市中央区 原田初枝(90) 2020/6/6 毎日新聞鹿児島版掲載

猪とサツマイモ

2020-06-09 16:42:01 | はがき随筆
 20年ほど前のこと。山里で、藷焼酎用のサツマイモを栽培していた老夫婦がいた。見渡す限り黒ビニールが整然と張られた畑。不思議なことに一部の畑は外周に沿って2列の畝がある。なんとなく違和感があり、そのことを聞いてみた。すると、「外の2列は猪のためだよ」
 私は、その一言で世界が変わって見えた。くったくのない老爺の笑顔。猪の多い地域で、畑の被害は大きかったはず。家庭菜園で、虫やカラスの被害に心休まるときがない。そんなとき老夫婦の言葉を思い出す。
 猪と藷  分ければやさし山里の暮らしそのまま生きてゆきたし
 鹿児島県霧島市 秋野三歩(63) 2020/6/5 毎日新聞鹿児島版掲載

夏の甲子園

2020-06-04 10:03:03 | はがき随筆
 夏の甲子園中止が決まった。父子家庭の兄に育てられた甥は、我が子も球児に育てたいと警察官の職を辞し、夜勤をしながら広々とした片田舎に移り住み、バッティングコートを造り、朝から晩まで野球づけの毎日が十数年続いた。
 将来はプロ野球選手として夢をかなえたいと貧しい生活の中でも頑張り、活躍し、兄や私までもが楽しみな高校3年生となった甥の子である。
 夏の甲子園に向け、さあこれからという時に「残念無念」と兄は言う。
 私は甥にどう声かけしてよいのやらもんもんとしている。
 宮崎市 濱元カズ子(70) 2020/6/4 毎日新聞鹿児島版掲載

時の記念日

2020-06-03 16:46:10 | はがき随筆
 6月10日は時の記念日。671年のこの日に、天智天皇が奈良で漏刻(水時計)を製作されたと日本書紀に記載してあるのがその理由だとか。
 私が小学校の頃は、昭和12年に火蓋を開いた支那事変(日中戦争)の最中であった。6年生の時、授業中に時の記念日に関係する標語を書かされた。
 「時間を大事にしよう」だの「非常時日本、守れよ時を」などと書いたものだが、Y君は「まだ早いが遅刻のもと」と書いて提出して優賞に選ばれた。
 同級生が絶えて久しいが、彼は元気にしているのかなあ。
 熊本市東区 竹本伸二(91) 2020/6/3 毎日新聞鹿児島版掲載

はがき随筆4月度

2020-06-03 16:13:55 | 受賞作品
 はがき随筆4月度受賞者は次のみなさんでした。(敬称略)

月間賞】9日「ちゃんと考えて」平田壮一朗=宮崎県都城市
佳作】15日「ヒゲダンス」矢野小百合=熊本市西区
▽28日「思いがけないゆとり」永井ミツ子=宮崎県日南市
▽17日「失くしたもの」久野茂樹=鹿児島県霧島市

 新型コロナウイルスの感染症対策として日本政府は4月に緊急事態宣言を実施。さらに5月末までの延長が発表された。全国の小中高校は3月から一斉休校となり、その間の卒業式や春休み、入学式などの自粛要請で異例のものとなった春4月。
 「未来のぼくへ」と投稿したのは11歳の壮一朗君。「ごめんね。お姉ちゃん」。素直に謝るだけではなく、取っ組み合いのけんかでお姉ちゃんを爪でひっかいてけがをさせてしまったことを手紙に書いたのです。未来を生きていくこれからの自分への決意。ちゃんと考えて「落ち着いて」。壮一朗君、多くを学びましたね。
 コロナウイルによる感染症の死亡者は日本でも600人を超えると伝えられています。お茶の間の人気者のコメディアン、志村けんさんの感染死をしのんだ「ヒゲダンス」。困難でなかなかうまくいかないことも、きっとできる。彼は笑顔で拍手して応援してくれている。小学生の頃からのお気に入りの芸人の突然の死を惜しみつつエールを送る、矢野さんの心温まる作品。
 「コロナ」の影響で時間は無限にあるように感じると、捉えている永井さん。自粛生活の中で過ぎし日の忙しさを取り戻すように自然とたわむれている情景は読む者の気持ちを和ませます。ウグイスの鳴き声、ご飯をマキで炊く、山菜採りに行く……。緊急事態宣言は夫とのゆとりの時間の大切さ、かけがえのなさを気付かせてくれたのですね。
 「失くしたもの」。今こそ身に沁みて考えるとき。「ぼくたち大人は、働くことに一生懸命で何かを失くした。そして大人たちの多くは、何かを失くしてしまったことさえ思い出せずにいる」と久野さんは書きます。与えられた命を全うする。元気に生きていくこと。忘れてはいけない大切なこと。
 パンデミックと称されたコロナウイル感染症は世界を大混乱に陥れて各国が感染を食い止め死者が出ないよう必死。街中はひっそりとしています。その変化をはがき随筆にして投稿。かつてない風景、想いを共感し、一日も早い終息を願っています。
 日本ペンクラブ会員 興梠マリア





イペーでハッピー

2020-06-03 16:01:46 | はがき随筆
 「今日はどこを歩こうか」。4月初めの自粛生活の中、橋を渡って隣町を歩いていると、ラッパ状の大きな黄花が大空に咲いていた。初めて見る花だ。
 調べるとイペーという花で、なんとブラジルの国花(木)であった。気に入り何度も足を運んでいると、この町の家々や公園に40本程咲いていた。
 4月末花も散って来た頃、公園でイペーが好きで庭に3本植えている方と出会った。花後にインゲン豆のような種ができますよと教えていただいた。すると種や緑葉紅葉落葉開花まで興味が膨らみ、この町でのウオーキングは来年まで続く。
 熊本県八代市 今福和歌子(70) 2020/5/31 毎日新聞鹿児島版掲載

白いカーネーション

2020-06-03 15:54:45 | はがき随筆
 終戦の翌年、国民学校の1年生。子供10人を遺して母が逝った。父を中心にみんなで協力した。
 まだ「花より食糧増産」が優先。母の日に授業の図工で、カーネーションを作った。みんなは赤だ。私だけが白い花だった。だが普段「母がいない自分」を不憫には感じていなかった。
 だが、就職後初の正月に大阪から広島へ里帰りした。父は大変喜んでくれたが「ヨー帰ったの!」の一言だけだった。
 母が居てくれたら、根掘り葉掘り問うてくれたのではと。はじめて「母の存在」の素晴らしさを実感した。戦争未亡人の母代わりの姉に甘えた。
 宮崎市 貞原信義(81) 2020/5/29  毎日新聞鹿児島版掲載

土に返る家

2020-06-03 15:35:49 | はがき随筆
 棟梁の知人がいる。大工仕事に魅了され、脱サラした元同僚だ。大工に弟子入りし、また夜学に通って修行を積んだ。1級建築士の資格を得てから独立、もう20年余りになる。
 家には寿命がある。必ず解体される時が来る。彼はその時を考える。材料が土に返ることができるよう、「木の家」にこだわる。
 彼の建築現場に行くと、墨入れされた材木が、昔ながらの大工道具ののこ、かんな、のみなどで柱や梁に姿を変え、棟上げを待っている。昔の普請現場に近い。
 そんな彼がある店に立ち寄ったところ、たまたま古い大工道具の展示会が催されていた。その一つに刃のさびたかんながあった。彼は長年の大工が大切に使った物と直感、購入した。
 かんなの台は作りに狂いがなかった。刃を外して丁寧に研ぐとよみがえった。再び、刃を取り付けてかんな掛けをすると、きれいなくずが舞うように出た。
 「かんなを作った職人と、かんなを大切に使った大工の技がある」と彼は言う。私は、かんなも息を吹き返してさぞ喜んだろうと思った。
 土に返すこだわりは壁にも見える。「竹の木舞」を組み、壁土で仕上げる。柱や梁、ぬきなどのつなぎに金具はない。ほぞ穴に手作りした木製のくさびを打ち込む。木組みを知り尽くした造作に木の家を作るという細やかな気遣いがある。
 難点もある。彼の建築手法では時間がかかる。だからこそ、彼の手作りした家がいい。新築見学の案内を待ちたい。
 北山清勝(79) 岩国市

同居

2020-06-02 12:09:13 | はがき随筆
 息子の仕事の都合で10年ぶりの同居。学生時代を思い出し、うれしさ半分、「愛情弁当を作ろうか」と言えば丁重に断られた。「ご飯はおいしいし、ぐっすり眠れる」とお世辞もうまくなったようだ。生活の違いから苦言も多くなるが短期間と思えば楽しいものだ。
 スマホでゲームばかりだったが、テレビのニュースをよく見るのにはびっくり。社会人としての頼もしい一面も見えた。
 引っ越しの日、「せいせいした」と息子。私のせりふだよと思ったら通勤が大変だったからだとか。「部屋は立ち入り禁止」と言いつつ鍵を置いていった。
 宮崎県日向市 梅田絹子(64) 2020/6/1 毎日新聞鹿児島版掲載

望郷

2020-06-02 11:52:18 | 女の気持ち/男の気持ち
 52歳で現役を退き、静岡県から霧島へ移り住んだ私にとって、ふるさとは年を重ねるごとにただただ懐かしいものとなりつつあります。美しい山河はもちろんですが、それにもまして望郷をかき立てられるもの、それは友です。
 中学時代、400人近くいた学年の中、学業で私の前に壁のように立ちはだかっていた2人の秀才がいました。そのうちの一人は生徒会長。調子づいて立候補した私が完敗した相手です。心の中では「友達になりたい」と願っていましたが、それもかなわず、あっという間に50年の月日が。
 そこで私は一念発起。隠居生活の傍ら手を染めた俳句、短歌、川柳、エッセーを文庫本に仕立て、あいさつの手紙と共に送ったのです。
 当時の私への印象が芳しくなければ、縁がなかったものとして諦めようと決めていました。さて、その結果は……。
 生徒会長をしていた彼の方は県立高校の校長職を勇退していましたが、美しい手書きのお便りを何度も頂く仲になりました。もう一人の友は、何と歌舞伎の演出家に。先日の九州公演の時には、わざわざ足を延ばして我が家に立ち寄ってくれたのです。
 現在、ぼくたちが少年時代を過ごした「竜洋町」という地名はありません。だが、70歳を超えた私の胸には故郷の遠州灘や天竜川、そして竜洋中学がさんぜんと輝いています。
 ありがとう、我がふるさと。ありがとう、我が友。
 鹿児島県霧島市 久野茂樹(70) 毎日新聞 鹿児島版 男の気持ち掲載

うどんの思い出

2020-06-02 11:46:18 | はがき随筆
 久しぶりに夫とうどん店へ行った。ふと2年前に亡くなった父のことが思い出された。
 父が亡くなる1年くらい前から半年間ほど、月1回の父の通院につき合った。病院の帰りには毎回、同じうどん店で昼食をとった。「史子と同じものでいいよ」。父はいつもそう言った。二人で無言で食べた。最後に父はお汁まで飲み干していた。私にはちょっと驚きだった。父は大正生まれで、大家族で育ち、戦争も経験していたから、食べ物を粗末にしてはいけないと見に沁みついていたのだろう。
 父と二人きりで食事をしたのはこの時期だけだった。
 熊本県玉名市 立石史子(66) 2020/5/28 毎日新聞鹿児島版掲載